アウトプット

相手の視点に立ってみよう

日本人の無意識

 日本人は変態である。そして、冒険嫌いの引きこもりである。それを脱してこそ意味があると言わんばかりの世間の厚顔無恥に相変わらず日本の陰湿な部分を見る。現在日本人の多くはメディアに情報源を頼り自ら文献にあたることなく専門家の解釈を鵜呑みにすることを生業としている。以上のことがもたらす結果は、嘘偽りが蔓延させる状態を日本語が通じるものたちの集団に作り出す可能性をもたらす。しかし、もはや可能性でもない。実際にそうなのだ。偏屈な高校生は、受験勉強に勤しみ、精力盛んに男女交際に励めば授かり婚で周囲の人間の態度がそのものたちを幸福にも不幸にもする。日本が出てくるあたりが僕の弱いところなのかもしれない。日本についてなんら考えることがないのだ。地球だとかどうでもいいのだ。小林的な言動が世の中に浸透するだけの状態がいかに作られたのかと考えるには無理がある。世の中の人たちに受け入れられたのが小林秀雄であり、現在膨大な量出版されている本の作者たちである。彼らは世間に媚を売って飯を食っているわけであるが、世間に媚を売るなと読者の尻をひっぱたきながら自分は世間の奴隷と化して文章を売っているわけだから、読者は世間の奴隷の奴隷ということになるのだろうか。このような悲観的な見方は皮相的であるので誰の受け付けるところでもなく、読者をついに持ち得ないという悲劇に陥らないはずはないのである。私のいうところの世間が私の理解を超えた何か動かしがたい自己であると規定すれば、必ずしも読者におもねった作品を書いているのではなく自分が読みたい作品が読者の作品ということ等価になるため、著者は事故に忠実に著作活動を続けていると考えることができるだろう。非常に混乱するのが世間の実態という時に、基準を設けなくてはならないという徒労である。基準は権力により設定された場合において著者はその読者を救出せんがために、自己の書き物の説得性を持たせることに注視するのかもしれないが、そこでは説得の力がものをいう古代ギリシアの雄弁術を行使しなくてはならない点で一度自らが泥を食う羽目になるのも仕方のないことなのか。これはもっぱら書き手である著者の性格に依存することであろう。

 書く行為は、自己を他者化して眺め渡すことで世間から外れないようにするためなのか、それとも、自己を他者化して自己と戯れ自己を忘れるための方便にすぎないのか実によくわからない。自分というものが本当にあるのか。それを実感できるのは他者に出くわした時であろうが、多くの人は自己に直面したくないのである。だから、仮面を被り演技をして自らを守る。傷つくことを恐れるがために、人間は自らを偽り相手に相手におもねる。それが思いやりだ。