アウトプット

相手の視点に立ってみよう

ジャックラカンの呪い

 ラカンに悩みを説明してもらった。それで、解決したのかと言われれば解決した。しかし、何かをする時に彼の理論を思い出す。自分のことを人間は話すことができないという呪いをかけられてしまった。だから、何か好きなことがあってもそれは他人の欲望であるから結局自分という存在はないのだと、たとえ間違っている解釈だとしても私にとっちゃそれが私のジャックラカン に対する真っ当な解釈だから結局は自分で自分の首を絞めることになっているだけかもしれないのだが。

 今読みたい本がある「小林秀雄の恵み」。しかし、中古本でも高い。取り扱いしているところがないのだ。丸の内の丸善に行けばあるかもしれないが。橋本治の本である。彼の「これで古典がよくわかる」を読んで、面白いと思ったのでまた読みたいのだ。橋下さんの本はこれが初めてではない。「三島由紀夫とはなにものか」を読んだ時、三島由紀夫に熱中していた自分が今度は小林秀雄に惹かれているのだ。橋本治さんもそうなのだろう。なぜ、彼に惹かれていくのか。端的に小林秀雄がいい人だからなのだろうか。いい人はいいねと言わしめた川端康成もいい人だ。いい人はあまり目立たない、あまり笑わない。どこかおかしなところがある。飄々としている。殺人があっても、地震があっても津波があってもリーマンショックがあってもどこ吹く風なのだ。また、新しいことをすればいい。今していることにうんざりだ。自己革新の勇気がないから社会環境丸ごと変われば自分も変われるのだと考えて周りを変えようとする。それじゃいつまでたっても何も変わらないということがわからない。いや、変わるのだが引越ししただけなのだ。元の家はそのままだ。日本人は渡来人、宣教師、アメリカ人と多くの日本人ではない人たちに突き動かされて物事を受け入れてきた。もう、世界が一つになってしまえばなくなってしまうかもしれない。そういうった連中はね。次は宇宙人でも来なくちゃ生き残れないかもしれない。根性が甘ったれだから、人に頼ることばかり考えてどうしたら甘えることができるのか、そうだ資格を取ろう!となるのだ。学歴だって資格だ。結局は自立心をブランドに頼るからグッチが売れる。ものは工場で作ったものばかりが溢れだる。創造性がない。渡来人が来なければ一向に土器作りしていたのかもしれない。アマゾンの原野にいたとすれば、日本人は昔とおんなじことばっかりしていたんだろうね。それにしても、なぜ同じ生活をアマゾンの人間は続けるのか。それで生活が成り立っていたからだろう。暖かい地域であるから、別段、生きることに不便を感じなかったのだろう。たとえ、衛生面で綺麗であった方が良かったとしてもだ。汚いという観念さえないのかもしれない。私たちは残らず皆アマゾンに済む先住民からしたら潔癖症である。潔癖症潔癖症を避難するから馬鹿げてる。