アウトプット

相手の視点に立ってみよう

構えないこと

 えらい人に会うと自分がちっぽけに思えるからえらい人には合わないようにした方がいい。その人がえらいと思うのはその人をえらいと思う人たちであって、私はえらい謎とちっとも思っていないことに気づくべきなのだ。私が書くべきではない文章は、告白文だ。ちっとも他人に共感できない人間の思い切った告白文など読んでも大したことがない。元々が悩みのない人だからちっぽけな告白文しか書けないのだ。それよりも、様々な視点でノーマルにプレーンに物事を見ることに注視するという中庸の精神の方が自分にあっていることを運命として受け入れて書いた方がよほど空白を埋めるだけの文章を書くことができる。私の書く動機はそこにあるのだし、スイッチはそこにあったのだと喜んでもいいくらいんことを私は今書いているのだ。とにかく何も構えないでプレーンに物事に接してみるのが一番いいように思われる。なぜならばという論証をすることさえめんどくさいのでやりたくないことなのだが、とにかく、何かを書く時には自分を卑下するようなことを書かない方がいいに決まっている。卑下することを書いてしまえば、次はどんなことに対して卑下して見せようかという気持ちが起こってしまう。嫌なことばかりにあっているのに、自分は平気な顔して文章で嘆きを滲ませるような告白長を書き始めるのは、男に裏切られた女が妊娠してしまい病院んおベッドて恨みつらみを書いていることに似ているような気がする。もちろんそんな女にあったことがないから、その例えダサいと言われても仕方がない。おっと、危ない。少しでも油断しているとこうして、自分を敗北者の目線から何かを書こうという気持ちが生まれてしまう。事故固定はそのまま自分自身である。空海ブッダを思い描いたその日にその瞬間にブッダになったのだ。何かをするのに身構えないでするのはあり得ない。しかし、何も十尾もしないでフレット出かけて何かを見てくる方がよほど旅行だ。ローマに一定1日目は何をするだとか計画して回るのは確かに効率はいいかもしれないし、でも、自分の旅を味わう下が衰えていることを認めなくちゃならないように思われる。要するにいいのだ。生きていれば、隣近所に行ったって外国だ。隣の家にいくら金を払ったっていれてくれる人は稀だろうが、ローマのホテルのアラ2万もありゃ泊まれるのだから安いものだ。一番高いのは人の家だ。一体何を書いているのだ。さっさと買い出しに行かなくては今日食べるものがないぞ!