アウトプット

相手の視点に立ってみよう

どう書けばいいのか

 各々が舞台を持っているのでそういう風に書けばいいのだと思います。文章に自由を求めているのだから、おそらくは、そういう文体になるのでしょう。学者になれば色々と文章作法があるから研究に成果を十分に発揮することができない。科学的精神をすべてに当てはめようとすると非常な危険に陥るということかもしれないのです。実証的であるがゆえに、本質を見失うこともある。自分が自分であることはどのように実証されるのでしょう。先日財布を忘れたまま空港に行った私は旅券の発行に少し手間取りました。自分を証明するのに身分証やら学歴やら職業が必要ですかね。もしくは、証明者の著されたものだけを自分というのでしょうか。あれですね、債権みたいなものですね。結婚する際に、職業を見るでしょう。将来これだけ金を儲けているのならいい家に住めそうだ。仕事なんて病めっちまって子育てに専念すると言いながら子育てがひと段落しますと昼間からネットで知り合った男とホテルでいちゃつき夕方になると家に帰って子供に晩飯を作るくらいのことは平気でできそうです。つまり、身分証とは何か。人と話すことがなくなった。私の中で言葉が死んでいたというよりも、周囲で言葉がすでに仕事開始ていたのかもしれない。言葉が死んでしまうと私たちは文体を失いますから、肉体に頼らざる得ない。まあ、こうやって暇つぶししている人間は運動不足だから体があまり頼り甲斐がなくなっていおりますので、危機感を感じているだけなのかもしれませんが。兎にも角にも、自分を認めることが一番できないのです。自分の欲望を罪だと思うことに関して私は勝手にやってろという気持ちになるのですけれども、自分がなぜフェラーリが欲しいのかといえば羨望の眼差しと嫌悪の眼差しへの絶対的な勝利の眼差しを獲得できるからでありましょう。しかし、これもおかしな話です。フェチだけが本当の自分の価値体系なのでしょう。私には癖がありませんから自分がないのです。一生懸命に自分を探してもないのだからしょうがなくぼんやりと生きているわけです。そんな自分に何か好きなことをしろと言われても価値体系が薄いのであまり何もしたくない。いちばんのミーハー体質は自分であろうとも思われます。それにしては読んでいる本があまりミーハーでないのは、本に関してはフェチがあるからでありましょう。読みたい本というのはなくて、読んでいる本が読みたい本なのだ。好きな人がいるのではなくて、あなたが好きなのだ。「アナタノコトガスキダカラ」

 ペ・ヨンジュンさんはそうしておうちに幽閉され暇を持て余したおばさんたちを救い出す人だったのかもしれません。あまりにもうんざりすることがあっても、それに頼って生きることしかできないのは何もおばさんに限りません。インフラと呼ばれるいきなり突然始められる公共事業もそうです。必要なんてありません、必要を自ら作り出して必要と叫んでいるんです。自分の腕を傷つけて、病院に駆け込む患者みたいなもんです。それがオリンピックでしょ。そんなおもろいやつが患者に一人くらいいなくちゃ医者も楽しく続けられないでしょう。こいつまたきたぞ。自分で腕を傷つけて見てもらいにくるなんていかれたやろうだ。最高だぜ。ペ・ヨンジュンさんは、おばさんたちに尻に敷かれているおじさんたちも魅了しました。おじさんたちは、おばさんたちを怒らせて不機嫌になるのを怖がる繊細な生き物です。おばさんが起こったくらいで糞婆と言えるくらい元気だった私も今となっては、そのおじさんの気持ちがわかるというホドデャなくて当たり前な心のありようだと思われるくらいになってしまったのです。わたしは、女性の権利を拡大することに非常に賛成です。そこに男性も加えていただけるとなおいいなと思うわけです。と言いましても、権利が女性の分だけ拡大するなんてことは男女平等を歌う憲法のもとではあり得ないことなのですけれども、権利という法律により保護されている利益なるものの拡大というよりも、世のおじさんたちへの働きかけ、習慣化された義務に関して女性が担っている負担の軽減を求めているのが女性活動家でありましょう。女性は本当に伝統だとかどうでもいいと思っている人たちと、伝統というところに自分を合わせていくことで生きる人たちと、自分が女であることを利用して生きる狡猾な人くらいしか私は知りません。女であることは非常な負担を体にしいるのです。別段それを理由に権利を拡大しようというのではなく、まっとうなだけの権利を求めているのかもしれません。兎にも角にも、私は従える人がいた方が自分が元気なるので、女性が王者になって男どもをビシバシ鍛え上げるくらいの方が好きですね。でも、私は反抗してしまうんです。おちゃらけでもなく反抗してしまうんです。だから、僕はモテるんだろうなという傲慢な気持ちに一瞬なったことをお忘れください。モテない奴ほど俺はモテるんだという自慢話をためらいもなくするものですよね。私は女性が幸福になるのは素晴らしいともいます。男の幸せが、女をコントロールすることだけかという問いかけに対してももっともっと話したいのです。男は男同士の友情がゲイ的なものに見られることに違和感を持っているのです。大正時代に今の恋愛結婚ができたらしいのですが、恋愛ができない人たちは苦しんだという話もあります。私はするに恋愛するを感じることができる性質をどちらかといえば持っているようなので、大聖寺ヂアニ生きても苦労することはなかったかもしれません。でも、たしかに恋愛をできない人たちがいるのです。そして、彼らの多くは親の目を強烈に意識しているのです。親の庇護を失いたくない彼彼女たちは、信頼できるのはママだけだということをよく知っているのです。それだけロクでもない人たちと関わってきたのかと思うと、知人い申し訳ない気持ちにならなくもありませんが少し、残念な気持ちもないわけではありません。みむしろ、羨ましいくらいなのです。私には親がいたのかどうか不明です。もちろんいたのですけれども、愛情が深すぎて見えないのです。そう考えれば、できすぎた親だから私がいなくても大丈夫と思わせてくれるほどに私は何か妖術にかけられて恋愛に駆り出されてもちっとも奥手にならずに楽しく遊べることを感謝しようかとも思うのです。この記事を真剣に書いているのかと疑う人がいたとしたら、その人たちはこの文章の冒頭あたりを何十年もぐるぐる行ったり来たりして面白くもないことが周囲に充満しているのでそのうち裸になって路上で刃物を振り回す羽目になるかもしれません。