アウトプット

相手の視点に立ってみよう

三島由紀夫文学館

 山中湖周辺の雑木林にある。入館料大人五百円。広くはないが、内容は充実している。小学1年生の時の作文から豊饒の海四部策の原稿まである。中でも創作ノートは面白い。原稿用紙には綺麗な字を書いているが創作ノートの文字は崩していてよくわからない。しかし、均整のとれた文字なので綺麗なのだ。他にも、彼の書斎を模した展示もあった。驚愕したのは、古典の本の多さである。整然と並べられた薄焦げ茶色の分厚い古典の本が彼の体験した掛け替えのない実感であるような気がした。彼の脳みその中に日本がある。俺が死ねば日本は終わると彼が行った時、彼は輪廻を超えて日本に帰ることなく潔く「別れ」を市ヶ谷のバルコニーで叫んだのかもしれない。漢文の素養のない日本語の文章はダメだと、彼は嘆く。今の日本は翻訳調が主流だろうから、村上春樹ライ麦畑はやっぱりよく書かれている。特に会話に日本語の細やかさと英語の多弁が合間って臨場感を演出しているように感じられる。村上春樹にはハマらなかった。しかし、堕落した今なら差し支えないように感じられる。彼の文章は苦労がいらないから避けてきただけなのかもしれない。三島は視覚的に文章を書く。説明が美しい。描写がくっきりとしている。対象から連想するイメージが錯綜している。三島は古典に視覚的な美を求める。彼は古典とは美しい日本語の姿だと言った。フロイト精神分析など必要がない。何が書かれているのかではなく、どう書かれているのかが彼にとっては重大な関心事であり、意味を問うような野暮を嫌った。今改めて三島由紀夫の文章を考えると、フォーマット化された自動筆記なのかもしれない。彼もまた哲学を小説にはっきりと書いて見せた。奔馬では唯識を論じた。目があるから見えるのだ。耳があるから聞こえるのだ。目も耳もなければ、太陽は存在しない、サイレンも存在しない。触覚さえなければ、全て何も存在しないのだ。だから、死ねば世界は終わる。死ねば、苦しみさえなくなる。喜びもなくなる。彼は虚無だろうか。虚無を見つめた眼はまん丸としている三島の目だ。さて、そろそろ文学館を出よう。この辺は紅葉の時期になると綺麗らしい。次は秋に来てみよう。散歩しに。でも、やっぱり三島由紀夫文学館にいくと雰囲気に魅了されて背筋が伸びる気持ち良さがある。古典は日本人の最高級ホテルである。精神のね。精神の宮殿はシャーロック。