アウトプット

相手の視点に立ってみよう

不況なのは日本人の心のありよう

 100円が道端に落ちていた。小学生は喜ぶだろうが、大人は喜ばない。お金で価値観を決めるの危ない。1億円の心臓外科手術は信用できるが、1万円の心臓外科手術は信用できない。10円のパンよりも340円のパンの方が美味しそうだ。つまり、価値観を平均がするのにお金は利用される。金持ちは個性を金で買える車や家具に置き換え、本人たちはいたって平均的な考え方をしている。私たちは心臓が健康なら1億も払って移植手術をしなくても生きられる。私たちは1億を持っている。車はないけれども足がある。100万円を持っている。カメラは持っていないが心眼を持っている。身体性を物に置き換え社会にある建物、自動車、道路全て人間の感覚の一部だ。人工物である。そして、私たちは身体性を物に置き換えたことを忘れて自らの身体をも忘れて酒を飲み神経を和らげる。

 排除されないために阿鼻叫喚し、面白くないことに笑い媚びへつらう。不安を笑いに置き換え自分をごまかし、言葉の魂を失って死んでいるのだ。死さえ実感的である。想像を掻き立て神経は反応する。日常の慣習は安らぎを与えなくちゃならないはずだ。しかし、退屈に置き換われば苦痛である。想像力とは取り憑かれる能力だ。憑依させることが想像力なのだ。他人と違うことをすればいいというわけではない。逆張りではない。それは追従である。追従は阿鼻叫喚と同じで不安そのものだ。

 私たちは米粒一つさえ味わう感覚を失ってしまった。極度な感覚刺激に慣れ、人の痛みを葬り去り感覚の麻酔状態が蔓延すれば、言葉の魂は死に絶える。

 咀嚼を忘れてはならない。マウンティングとは貧しい努力である。しかし、この貧しい努力は恐ろしくシンプルに価値観を提示することができる。そのため、物事の判断材料になる。私たちは環境にあまりに従順すぎるのだ。それを奴隷だと言ってみても、生き残るための楽な処世術だと考えても、考え方という思考の固定概念がある限りドン・キホーテは7足800円の靴下を売るのだ。2足あれば十分なのに。

 今からは、阿鼻叫喚は死を意味する。人に嫌われる勇気の本質は、初めは嫌われるが人はなれるという経験則であり、慣れれば嫌われることはないのだ。憎しみを持ち続ける努力は私をちっとも突き動かさない。この世界の主人公は名もない人たちである。彼らはリーダーに大衆の欲望を反映させ集計させる。リーダーが実現した欲望にカタルシスを感じる。しかし、手柄は清き一票というよりも自分で実現できなかった欲望という挫折である。平和運動は運動ではなく今この瞬間にも人々の心に流れている周波数である。戦争の良し悪しは条件なしには必ず悪である。条件とは隣国の軍事的脅威であるが、大量破壊兵器イラクになかったように、国民感情高揚のため軍事産業を巻き込み戦争という人殺しを行い、ジュネーブ協定で交戦中の行為による死は殺人ではないという認識を付与され社会はイラク兵を殺した米兵に罪は課さない。しかし、人を殺したのであり、罪の意識に苛まれる帰還兵もいるのだ。

 まとめ

・100円の価値は人によって違う。頬を叩かれてもその力は同じでも痛みの度合いは全く違うのだ。

・阿鼻叫喚は思考停止をもたらし想像的である憑依能力を日々の習慣が妨害し、その息苦しさから人は死という身体的な感覚を呼び覚まし幻想である死に習慣からの脱出、習慣の破壊を夢見る。

・認識や共通理解は、それに従わない者たちを排除し結果的に平均的な人間が生き残る排除性を持つ。排除性は対象を先細りさせ先鋭化しついには母数である人間を失い認識の個別化が起こり、揺り戻しとして全体主義が復活した今日、人々は思考を停止し喜怒哀楽から解放され泣く悲しみ、笑う喜びという形容詞を失った。動詞ばかりがもてはやされ際限なく動き回り認識は失われ価値は需要と供給という市場の原理を素直に受け入れる批判や感情を剥奪されたゲームの中で展開される社会が実現した。