アウトプット

相手の視点に立ってみよう

日常

 日常に埋め込まれた情報を何一つ知らずに気にしもしないでいられる自由を手に入れたけれども、人間がそれで幸福になったのか知るすべは見つからず、この瞬間の快楽だけが今までの人生を肯定する格好の時間帯出るのに気づかない人間がいるだろうか。痛みは架空の未来の話として保存されいつ開封されるのかわからず死を迎えた人たちは過ごしてきた無為の怯えた日々に懺悔して夕日を見つめ今日も素晴らしかったと呟くのだろうか。私自身という話になるときに私は判断という仕事を全うせずに遊び暮らしてどれだけの知恵を絞って今日生きてきたかその苦労も忘れいよいよ無為の生活に介入していく運びとなっている。断定口調は結局何を語れるのか不問のままリズムに乗せて偽りの環境を作り出し人々を洗脳していく装置でしかないとすれば、言葉の厳密制を担保する論理を強化すべきだという結論は納得もいくが、今日の人間は論理ではなく感覚で生きておりお金がなければ幸せではないという公式も感覚的に捉えれば人々は繋がり合い互いに縛り付け拘束と束縛を続け互いに口を押さえつけ相手にものを言わせない暴力を振るっていることに気づかないわけもないだろう。こんな時代になった理由が諸説あるとして僕はどの説にも納得のいくことはないであろう。考えて分だけこの世界は実りの多い世界となり悩みが少なくなりもするんだ。多くの人がなぜというほどに思考が似通っており自分に固執しているのか、自分の意見や利益に固執して自分の存在を信じ込み他人を無視して一人孤独に生きているのか私にはわからない。

 今日人々は互いに迷惑を掛け合っていないことを誇りにしているが本来人間は迷惑を掛け合って生きているわけであり、迷惑をかけているにも関わらず迷惑をかけていないと思い込んでいる人間が権利主張をし相手の立場も考える余裕もなく必要性も感じていないために、自分勝手な振る舞いをしてそれを自由だと豪語し人間同士のつながりを喪失しあっているのが実に貧しい人生であることを私は主張したい。論点は無数にありそれについて議論する用意はもちろんあるけれども大抵は自己の考えを否定されたことからくる脊髄反射でありそこに反省はなく、自らを省みる姿勢は皆無であり、むしろ自らを省みることで恥ずかしい自己を見出しこれ以上自分が他人に迷惑をかけていないという空想からくる自由を手放したくないという思いが、必死であるのに私はなんの違和感も感じないのだ。

 人は弱く脆い存在であるために、何かにすがることで自己を確認している。自己喪失観念は今日であるよりも私は自己革新とは快楽であると思われるのであるが、世の人は一度掴んだ利益の構造体系を壊すことにもちろん反対であるし、虚像である利益の生産の仕組みを共同体で支え合うことに賛成できない人たちの行き場はどこであろうと考えるのだが、私にはいい案が全く思い浮かばないからあまり話さないことにしようと考えている。