アウトプット

相手の視点に立ってみよう

インスピレーションあいすくりーむ

 いつの時代もいい時代っていうのはないのだから自分で暮らしやすいように工夫をしなくちゃならない。その工夫を怠っているから世の中にありえない事件や事故が引き起こされるのだろうが、確かに運命としか言いようがない事案もあるだろうがやはり因果関係を辿れば何かしら原因を見つけなくては気が済まないように人間は作られているのだろうか。

 池袋でじいさんが母娘を轢き殺した事件においてこれが、単身者がふたり死んだのであるならばあまり大きな扱いはされなかったはずである。近頃は埼玉でヨロヨロの爺さんが包丁振り回して警察官を挑発し発砲されて腹部に見事命中し死んだ。

 私は思うのだが、母娘の命を重く身過ぎているように思われる。テレビの視聴者はその母娘と爺さん婆さんだから互いの中を悪くさせるようなことを流すなとは言わないが、世論もおかしくて結局は命の重さという点で差別している。上級国民という言葉も世論から出た言葉でメディアは池袋で事故を起こした爺さんを元通産省なんちゃらかんたらと呼んでいる。では、警官に発砲されて死んだヨロヨロの爺さんは元なんだったのだろうか。職業を転々としてまともに働いてもいなかったのかもしれない。それを考えるだけでメディアは世間のご機嫌取りであり結局は真実を求めて報道する姿勢よりもネットで拾った情報を組み合わせて取材と抜かすのは、怠慢でしかないのではないか。そして、それをなんとも思わない視聴者は既にテレビを離れてネットで罵詈雑言の言い合いで互いに疲弊し傷つけ合い嘘くさいお悔やみの言葉を死者に垂れ流すのだ。ネットの普及はものを考えない人たちの思考を表面化させ、彼らがいかに妄信的であるのかを暴露しないせいを促しても決してせず、テレビもそれに符合して自分の意見を曲げないではっきりとものをいいそれを吟味もせず相手を威圧するような人ばかりを写すようになった。総じて、この世の中が住み心地の悪いことを教えてくれるのがメディアであり結局は実地で知りえた情報ではないのでフェイクをリアルに捉えネット利用者ならびにテレビ視聴者はメディアや互いの疑心暗鬼により疲れ果ててものも言えず考えられない状況に陥っている。

 この状況を私は非常に危惧しているのであるがここに解決策を書くのであるのならばもう一度活字という距離感に戻って欲しいと思うのだ。映像は必ず見ている人間を活字以上に誤魔化す。映像も説明がなければなんの意味もわかりはしない。ニュースもアナウンサーのテンポに合わせてみなくちゃならない理由がどこにあるだろう。昔は朝の朝刊を見ていればよかったが今はすぐにニュースがポケットに飛び込んでくる。これは不幸である。ニュースから離れられない生活を送っていると人間はどうなるのか。常に危機意識を持って生きている貧乏人が周囲に当たり散らしたり怒り肩で歩いていたりするように、心の余裕がないので忙しなく動き回り不幸を助長させているに過ぎない。物事を正面から見るためにネットは確かにその役割を担えたけれども、多角的に見るには一度その正面から見た情報から降りなくてはならず視点を変更しなくてはならない。それに気がつかないわけではないはずなのだ。

 ツーリングに関してもそうだ、行きたいところがあるけれども仲間が行きたくないというのなら無理に誘うのはやめにしたらいい。本当に不安がある人間程よくつるむからこの世は非常に暮らしにくいのだ。本当に人と親しくなれる人ならば、仲間を作る必要はない。仲間が必要なのは、気を許した仲間同士にだけ本当の自分とやらの幻想を互いに担う暗黙の約束をしているだけの話だ。つまり、幻想にしがみついて自己を知ろうとしない弱い人間たちが仲間を作って社会に迎合するのだ。だから私は思うのだ。日本語もそろそろ限界かもしれないと。