アウトプット

相手の視点に立ってみよう

日本語ウィキぺディア記事のいやらしさ 

マックス・フェルスタッペン - Wikipedia

 

 

レッドブルの若手育成チームであるトロ・ロッソではハイメ・アルグエルスアリダニール・クビアトが19歳でF1デビューしたが、彼らは欧州の法規上成人である。しかし、フェルスタッペンはデビュー発表時点で未成年の16歳で、公道の走行に必要な運転免許証が取得できないばかりか[3][4][5]、北半球圏で馴染みのある表彰台シャンパンファイトにすら参加できない[6]フォーミュラ経験は実質1年という異例の抜擢であり、最高峰カテゴリにおける若さや経験不足を懸念する意見もあった[7][8]

2016年以降、国際自動車連盟 (FIA) はスーパーライセンスの発給要件について、年齢の下限が「18歳以上であること」「自動車の運転免許証を取得していること」「最低2年の下位フォーミュラを経験していること」などの項目を追加したため、これがフェルスタッペンの影響を受けたものとみられる[9]。そのため、フェルスタッペンの満18歳未満時に記録した「最年少記録」は発給要件が再び緩和されない限りは更新されることはない」

 

 

 要するに、現在最年少でFIAスーパーライセンスを取得しているってことだろう。これが破られるためには云々カンヌン。F1ドライバーを目指す上でラインセンス取得の最年少記録を破るのが目標なギミックな奴が日本人だよ。

 英文に記事ではな、どこどこのレースで何ポイント獲得したとか、惜しくもエンジントラブルでリタイアしたとか書いてあるんだよ。

 この違いはなんだろう。日本人は空気を読むことに長けているから必然自己評価する際に他人と自分を比べてしまう。もちろん、他人にすべての面で勝てるわけがないので諦めてしまえればいいのだが、なかなかそうもいかないので勝てそうなら相手を出し抜き油断させて互いに笑顔で足を引っ張り合うから、イライラしたり、開き直って如何しようも無いおっさんになりマナーは破るためにあるんだと解釈して、今までの他人を気にしていた自分から変わろうと他人をさらにきにするようになる精神構造を持っている。これが農耕社会で培われ今でも残っているのならばそれで伝統であるから、大勢の見知らぬ人たちは何もこの精神構造を疑うことなくアメリカに仕込まれた自己責任論で孤立していきますます同調圧力にすがりつくことで生き延びるなんとも哀れな人間たちだと思わずにはいられない。

 日本では仏教が流行るが、仏教の寛容の精神を日本人が持っていれば仏教なんか流行らないのだ。寺社仏閣は神聖な場所として認識されているのであるが、現実と区別し現実というよくわからない世界では相手に厳しく自分に優しく振る舞い、競争相手を正面切って闘うのではなく周囲から地固めして一斉に攻撃する手法が用いられる。

 要するに、仏教が日本で流行るのは仏教的精神が日本にないからである。敷衍すれば、仏教が流行らない欧米では寛容の精神があるのかと言われれば、おそらく欧米は他人を出し抜くことにさほど抵抗を感じていないのだろうから仏教の寛容精神は相手に寛容を求めるのではなくて、自分が規範となり相手に寛容であろうとする態度をとるだろう。

 私は、仏教的規範を身につけて自らが寛容の精神を身につけ他人に優しくすることが大事だと考える。しかし、先ほどの記事のように、日本人の人物評価は基本的に比較である。仏教の寛容の精神がいかほどに役に立つだろうか。TOEFLのスコアは死んでも残るが、寛容の精神は死んだら残らない。東大卒の肩書きは死んでも残るが、寛容の精神は死んでも残らない。

 情報として残るものを評価の対象にしているから、現在を把握できないので伝統に走っているのが少し前の日本人の大衆意識が右傾化した理由の一つであろう。要は、他人が自分に危害を加えてくるかこないかを見極める目が優先して、自分が他人の行動規範として動こうとする意識がないのだ。だから、気の合った仲間とつるんで互いに「お前は変わらないな」と慰め合いながら、堕落して、不平不満や愚痴で繋がる間柄になるのだろう。

 私はこのような繋がりは避けたいのであるが、他人の不満を聞くことは私が相手に不愉快な思いをさせないために知っておくべき情報でもある。不平不満をいう人間は相手に対して接し方を強要しているようなものだ。不平不満は十人十色なので、結局はキャリオーバーになり多くの人とは付き合えない。

 つまりは、友達がいてもいなくても関係ない。相手をマウンティングして精神的に安らぐことにいつか歪みが生じて老人になった頃若者をいびり始めるの時間の問題。人間みな爺さん婆さんになり顔に皺ができて腰は曲がり尿もれを起こし始める。脳みそはボケ始め動作がゆっくりとなる。

 要するに、イキってる奴らもそのうち糞尿垂れ流しになるのだ。

 この表現がきついだろうか。あなたは現実を拒絶していたのではないか。それとも、現実とは今この瞬間をいう刹那的な出来事のことだろうか。それならば、現実主義者と言われる人間は視野が狭いと言わざるおえない。

 そのうち台風が来るのに、今は晴れているから大丈夫とテントを張って寝るようなものだ。大地震が来るとわかっているのに、自分が生きている間は大丈夫で新築の家を建て三日後には全壊である。

 現実を本当に見ている人間なら今この瞬間がその前後の時間によって構成される非現実的であることに気づくであろう。遠い昔に身にしみて獲得した日本語が今この記事を読ませている。今この瞬間が成立しているのは遠い昔の時間により構成されているとはそういうことだ。人を殺せば下手すりゃ死刑だ。これも、未来に起こる出来事である幻想が今の現実を構成して「汝人を殺すことなかれ」となる。

 仏教は、一瞬を現実でありすべてであると錯覚する人間に、現実がいかに構成されているのかを教えてくれる。今だけを考えて生きているのならば、友達と仲良くする必要はない。何気ないひところにブチギレて殺してしまえという思考がほとんどあり得ないのは、これからも友達でいたいし自分が牢屋に捕まって不自由な生活を送りたくないからなのだ。

 

過去や未来が今を構成している。そして、過去も未来も幻想である。その幻想を作り出しているのは現実の今である。したがって、現実は、幻想である過去未来から構成される幻想である。

 

 我ながら狂っている、馬鹿げている単純すぎる論証が足りないそんな妄想はだれでもしているお前がそう考えなくちゃならない現実はお前にとって辛辣であるからそう考えるのだろう等々と周囲はうるさいだろうから一言言っておく。

 

 "冗談ですよ"

 

 その前に、だれもそんな話聞こうともしないだろうな。これに対して反論するとか、真剣に考えるとかやめて、ただ共感できる失敗談ばかりを求めているのがネット普及により掲示板やSNSにハマる人たちが持っている一種の下劣な快楽の一つであり、下劣である自分を投影し皆で支え合う精神的ネットワークを構築しているのも、ある程度確かであるように思われる。

 以上2019年からレポートしました。