アウトプット

相手の視点に立ってみよう

果てしない日常

 いつ終わるともしれない毎日が愛おしいのは、いつ終わるかもしれない毎日を感じているのだからだろう。この世界というとき、世界は抽象的な事象に変換され具体的な事象は消える。何について話しているのか全く分からなくなり結局は眠たくなる文章を大量に書き散らしまた心の多くの雑多な言葉を増やすことになる。それなのに、こうして描くのはなぜだろうか。描く速度が上がっていることに私たちは気がついているのだろうか。そして、各速度が上がった分だけ言葉は短絡的な表現と結びつき即興的となり、心に響かなくなる。喧嘩越しの言葉ばかりが世の中に流通して、人々は互いに相手のこと異質さを理解するのではなく相手をある一定の圧力に服従するのかしないのかで人間性を見ることになる。人間というのをなぜ私たち言葉を話す人間としているのか分からないという結論に至った昨日の眠れない夜を、こうして文章を書く作業を通じて思い出すことができただけでも幸運なことのように思えてならない。どうして文章を書くのだろうか。書くこともないけれど、何か書くことがあるのではないかと思いあぐねているうちに、何かを書いていると不意に意識もしていないところを見つけて言葉が無意識を埋めようとしている。ラカンは、無意識は言語により構造化されているといった。無意識について私は明確に説明する言葉を持たない。抑圧されたことを思い出すのが無意識であろうか。忘れたことを思い出すのも無意識であろうか。無意識は常に意識に影響を与えている。だから、日頃から自分がどんな偏見や恐れを持って世界と対峙していきているのかを把握しておくことで、自分の意識を広げることができるようになるではないか。所詮人間は、動く神経である。しかし、この表現を人間性への侮蔑に捉えて欲しくはないのだ。もっと、人間であるならばあまり賢しらなことを考えて自ら混迷に陥る道を選ばないように生きることができるのではないか。人々の対立を煽る人たちの利益になるようなことに加担しないのは最も大事なことなのではないだろうかという意識になるのだ。思えば、自分の仕事について語るのがメタである。私の仕事について語ることで、私が仕事のために何かをしているような印象を他人は持つしかない。私は語られるべきことが全て語られない限りは、その覚悟なくして相手に自分が思っていることを伝えることはできないと思う。たとえ、いっていることが伝わっているとしても本人は確認しようがないではないか。ただ、いっていることを理解していますよという信号のレベルでしか人間は相手を理解することができないのだ。と、すれば自分がいかなる集団に属してそれに対して理解があるように思えても、信号をキャッチしてその信号の命ずるがままに動くことを自ら承認しているというレベルであり、完全な理解は、おそらくは、還元な同じ虚構の作出になるのではないだろうか。例えば、三島由紀夫を研究するとき眼前に三島はいないし、三島に問いかけることもできない。自らが三島の痕跡をたどって三島を再構成するのが三島由紀夫を研究するということであろう。そして、多くの研究者と同じ対象としての三島由紀夫を再構成するために、三島由紀夫について対談がなされたり論文が発表されたりするのであろう。

 N国党がマツコデラックスにものいいをするために、テレビ局に行き直接にマツコデラックスと対談する機会を得ようと必死なのであるが、私としては、失言をネタに自らを大衆を味方につけるのは、大衆という相手の足を引っ張ることしか考えない人間が好んでする手法であるから、当然、N国党のような権力を持った党が出現すれば、それに自らを投影して炎上し盛り上がるのは当然であるように思われる。かつては、YOUTUBEでだけ活躍していたが今となっては国会議員となり、権力を持つ立場に立ったのであるからそれなりにおとなしくしろというのがまた大衆である私の発想なのであろうけれども、マツコデラックスも例えば、威圧的な人間を避ける権利はあるわけである。話したくない相手と話さなければならない理由はない。確かに、対話がなければ関係性はないので汚い大衆に身を染める必要はない。テレビという組織自体がもうすでに今生きている人たちの感覚とズレを生じてきている。そのズレがあるからこそテレビに流されることはないものの全くないというわけではなく、いまだに消費者に影響を与えているのであるし、ツイッターの話題もどこかの記者が取材してきた内容の切り抜きに過ぎないので非常狭い範囲の物事しか知らないで自分たちを無知の恐るべき領域から、全能感の多少溢れる領域に移行しようという意識がツイッターをしている人間の心理にはきっとあるのだろうと思う。私は、このN国党のやり方が間違いだとか正しいだとかいう判断をするよりも、N国党の手法を支持する人たちが一定数いるのだが、それを普段目にしないので、潜伏しているのであろうという感じがしているだけなのだ。潜伏するよりも太陽の当たる場所に出て海で泳いだ方が、YOUTUBEをみるよりもどれだけ素晴らしいことかを早く知るべきである。まるでインターネットの世界を世界の全てであるように捉えることで、世界を矮小化し自分が気に入った世界とみなして冒険しないのは実に、不健康な出来事であるとしか言いようがない。