アウトプット

相手の視点に立ってみよう

体系的に

 弁が立つというけれど何をもってそう言えるのか。あいての主張に対して、もう既に通り過ぎたその主張に伴う根拠を十分に反駁できる論証を用意しているということなのか、相手から予想される反駁に対する再反駁を会話に織り交ぜ、まるでひとり言のように主張を続けることが弁を立つということであると考える。聞き手は、耳を防ぐことでしかひとりごとのような主張に対抗することはできないのである。

 にしても、弁が立つというのは実に爽快なことである。相手の浅はかな思慮が垣間見えることに喜びを見出し、また安心感をも見出す。翻って、何故相手の無思慮に嬉々とするのかを考えてみると、私がその無思慮な相手方とくらべて優れているという気持ちを抱くからに他ならないのではないか。また、思慮深さは喜ばれるものであり、その思慮深い人間の人格は尊ばれる。師と仰ぐものさえいる。師が何か発言したり行動すると、人々は何か深遠な考えがあってのことだろうと、その行為を崇高なものとして捉え、分析しようとする。いや、師の行為に分析の魔の手を向けることは”弟子”には許されないことである。弟子は既に師を尊ぶことで自らの自己同一性を図り安らぎを得ようとする。なぜ、自己同一性を図ることで安らぎを得られるかというと、人間の不安は安心が途絶えた先の混沌とした将来への態度であるからだ。永遠なるものはないのである。今この状態が良い状態である場合、そのよい状態が将来悪い状態になるのではないかという予期が不安なのである。不安とは、全ての物事が永遠普遍でないという認識からくるのである。