アウトプット

相手の視点に立ってみよう

世界がおかしいならおかしい世界で生きていく

 究極の問いは避けられなければならない。死ぬか生きるのかの選択肢に至っていけないのだ。人生は長い長いおしゃべりの時間。不安になったり、楽しんだりと盛りだくさんだ。そうやって気を紛らわせて泣いたり笑ったりしてそして死ぬのが人生だ。人生に特に意味はない。死んでもすぐに忘れられる。なんのために生きているのかと問うのが、人生に何か目標があるという嘘から逃げる一つの道だ。そして、人生についてもう何も問わないのも人生を生きる方法の一つかもしれない。

 では、人々はなぜ人生について語るのか。人生について自問自答するのはよいが、人生について語ると途端に異論が出る。気恥ずかしさを伴って、人生とは何かを問い続け語り続けるのは生産性がないこととされている。この世界は、生産の必要性を問うてしまっては、労働力を失い納税が減る。納税が減れば公務員の給料は下がり、公共事業も止まる。これが人生とどう関係しているのか。

 日本は安全な国らしい。確かにそうだろう。それだけ相手を疑って、しきたりどおりに安全な国を設計してきたから安全なだけだ。安全であることは善だ。それに異議を申し立てれば異常者とみなされる。しかし、安全性に過剰に敏感になっているヒステリックであるとも言えなくもない。ヒステリックであることの認識は薄く、自分たちの正当性、自分たちの国が素晴らしいといいはじめる。自分たちの国を素晴らしいとわざわざいう必要がどこにあるのか。テレビの視聴者は50代以上の男女をメインにしている。もう戦争を知っている世代はそろそろいなくなる。戦争の反省を強いられた年代もそろそろいなくなれば次なる視聴者に提供する番組はどんな形をとるのか。テレビは常に遅れている。

 テレビを見ていると時代に取り残される。だから、極力見ないほうがいい。ながら視聴くらいがちょうどいいのである。BGMとしての役割をテレビに求めるのがちょうどいい。

 世界はおかしいだろうか。確かに、不安障害やら強迫神経症だとかを担った不安を回避するために互いに信頼し合わなくちゃならない。相手を騙す気もない人にとっては、相手からの信頼を得ることは不合理である。

 不合理であることが嫌いだといってみたところで、ここに金にもならないことを書いているのは生産性において不合理であると言わずにはおられない。たしかに、金にはならないことばかりを書き散らしている。けれども、何が重要で何が問題なのかを考えるには必要な行為である。生産性がなくても、新たな価値を見出すために新たな生産の可能性を見出すには必要な時間なのだ。日々、仕事に追われ人間関係において伝統を守り生きるのも大事だろう。

 思わぬ方向に筆が回ってテレビ批判になってしまった。私にとってテレビが大きな位置を占めているのだろう。私はテレビが大好きだったから最近のテレビが面白くないことに心を痛めているのだ。海外の番組が面白い。丸見えは海外の番組を買っていたし、アンビリバボーもそうだ。要するに、海外の番組が好きだったのだ。

 どうでもいい!なんの番組が好きなのかについて浅い分析をしても意味がない。ただ、何も考えたこともないことを考えたいのだ。それは、他者についてかもしれない。これから会うであろう他者について思いを巡らせても、おそらくは本音を言うことがないので、一定の礼儀に沿ったことを言っていれば相手もその礼儀に答えなくてはならない。そのときに、礼儀は温存される。

 礼儀や儀式を通じて人間は何をしようとしているのか。互いに同じ行動をすることで仲間になれる。一方で、全く違った行為をする人間を批判する。礼儀や儀式にそぐわない人間を排除していくのだ。しかし、本心は礼儀や儀式に捕らえられていない。考えて欲しい、理想的な夫を。非の打ち所がない人間を。彼らは礼儀や儀式を通じて非の打ち所がない人間になる。礼儀を忠実に守っている人間を批判することは自分にとって不利である。だから、礼儀や儀式は自分を守る甲羅となる。これに隠れていれば安心だ。世の中であったことも見たこともない他人が死んでも心を痛めることがない。痛めるとしても、それには他人の不幸を喜ぶ気持ちがにじみ出ている。しかし、みなそうではないだろうか。礼儀や儀式をあえて無視する人間たちもまたいかがであろうか。

 社会が一定の意見に満たされるのは不幸である。ある意見を支持するから、その人が素晴らしいとは限らない。正しい生き方をした人が、正しいとは言えない。正しい生き方をした人を正しいと言うのか。単純であるが、こういった単純な論理を疑うこともせずに世界が動いている。