私が書いている事を私が監督するという不思議と徒労についての概論

 かねがね私に文章は独り善がりで誰の言葉も受け付けない冷徹な魂の持ち主であるかのように、見受けられはしないかと客観的な態度になりがちであったけれども、今となってはお笑いぐさで、私はただどの立場からと言う断言をさけて発言しなくてはならなくなってしまった。

 この世の中は、私が思っていたように腐っているし私が思っているよりも単純に構成されており、技巧逞しい複雑な魂と手練主観の技を巡らせる為に用意した準備期間は、ただの暇つぶしにしかならないことがよくわかった。私はこれからについて話す。これからは未だ来ない未来についてである。未来は現在という流れのなか慣性の法則よろしく、転がるボールのごとくその行方をある程度予測する事は実に感嘆なのである。

 つまり、これからは英語ができなければろくな暮らしは出来ないし、芸術を知らなければ工場労働者になるしかないのだ。真面目に人の言う通りに行きた憐れで愚かな人達の苦しみを緩和する為に一時期集団をつくって傷を舐め合う時期である現在だが、これも長くは続かない。日本人の人口減少が齎す災厄は、何の信念も哲学もまた疑う事はあっても、それが感情的ではなく痛みを伴った人間が生きる上で自由を求めまた互いにどうしても依存し合う事で引き起こされる力学的情動から引きはがす作業をしなくては、日本人は本当に馬鹿になってします。その浅はかさと冷徹さを感涙でもってして癒す俗悪な液晶からの光を希望の光と幻惑する俗悪な魂を私はどうしても受け入れる事が出来ない。映像器機の発達は、文字の発明が人間の記憶と直覚を奪ったように、人間から美しいものを美しいという感受性すら奪う機械である。ある種の人間が肉体の鍛錬に走る為に自動車を忌み嫌うように、私は感受性の鈍磨した言葉をもたないありきたりな表現につとめる人間達が増えることを危機する。それは、集団の幻想に陥りつまらない大衆の娯楽を享受の形で受け取る必要性を感じなくてはならなくなる。退屈で下劣な暴力の所産となるテレビを私は一切受け付けない。テレビをみる暇があれば本を読め。文章をかけ。ピアノを引け。音楽を聴け。踊れ動け歩け。

 日本人は右往左往している。彼らには宗教が受け入れられない時期があった。ホンネという宗教が流行った時期もあった。女の膣に縛られた男の魂が肥えた専業主婦に戦わない暇人な幻想に、男どもが躍起になって御機嫌取りをする事が私には耐えられない。くだらない女に入れこむ男達は馬鹿だけれども、私はそんな男達の優しさに感服もする。ただ、その優しさの上に傲慢になる女を私は揺るせはしない。専業主婦の仕事は不幸である事だ。

 私は私の醜さを良く知っている。しかし卑屈になってはいけない。誰も卑屈な人間の相手をする事などしない事を僕は良く知っているからだ。卑屈になる理由はないけれど、なぜならば、僕は誰もしないような事ばかりしてきた。それは信じられないくらい非効率的な学校制度との付き合いであるしまたとんだ大冒険である。そして、誰もがする事が私にはできなくなることを一つの誇りとしたのだ。

 さらに、私の昨今の状態を言えば、私を客観的にみる目があるということだ。これは養われたのではなくどこからともなく憑いてきたものであり、私はこれに悩まされている。おかげで罪悪感から死にたくもなるし、楽しい事もそう嬉々としてよりも穏やかさでもって受け入れる事をするようになった。落ち着きが出てきたと言えばいい表現だけれども。

 私は私の文章に依って契機づけられる必要がある。誰の頼りにもなれない。ただ本だけが私の楽しみでもあるのだ。