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何か書け

 神がいる方にかけた方がいい。日本語の不思議。おそらくこんな妙なつながりが駄洒落には保存されているんだろう。言葉の音のつながりというのが、真実にみえてくるものだったりするのは、文脈から逃れる一つの方法であるといえる。文脈から逃れるのは自分の文脈での立ち位置への不満である。

 とはいってみたものの後に言葉が続かない。自分の言葉を信じる為には他人が必要なのかもしれない。私はそうではないと信じてみたくとも、言葉の性質が私を離れて一人歩きする事があるのだろうか。おそらくはあるのだろう。言葉は私の者ではない事は確かであるけれどもまた言葉は公共の者であるからし手しかし統一的認識を齎し形成するわけでもなく、肉体的な個人の暴力に内包され其れが意味としてうけとられるのだろう。事実言葉は受け取る者だと思われがちであるが、言葉は受け取る者ではなく内部に構成される者でありまた呪いである。他者の思惑に従って自己を形成して初めて言葉の意味が分かるのである。意味が分かるとは気づかなかったのではなく、意味が内部に構成されたという事であり其れに対抗するだけに力がなかった事のひけらかしであり、大いなる他者に身をゆだねた証左である。

 軽蔑とは私の同一視したくない人に向けられる言葉であるが、大いなる他者の猫撫でにわざわざ対抗する事をしないでいてどうして大いなる他者の悪癖をあげつらう事が出来るだろうか。大いなる他者もまた戦っていると考えるときに、最終的にどちらが力を持つのか大衆の戦争に任せられ、大いなる他者は、ここではすべての権威を意味し、その権威はここ内部の個人が与える権威を言うからして、客観的な万人に向けた大いなる他者はそのo宣教師達に看過された人々の集合だといえるだろう。

 問題があるから解決があるのではなく、解決があるから問題があるのだ。問題をそのままにして放置しておく事は経済が許さないし税金を納めみえない弱者に会った事もない貧困に向けて為される慰謝を忘れるなというお達しである事を私は直覚してしまうのだ。私の直覚に判断の真をゆだねる事で他者との距離における通路の確保には余念がない。其れはまた私が自由に息を吸う為のスペースでもある事は私ではなくても容易に理解してくれる方がいらっしゃればありがたいとそう思うわけである。

 歯切れのいいことを言いたいが其れ固めに責んを負う事はまっぴらゴメンである世の中において、ただ迎合し付和雷同し自らの直感を蔑ろにして大いなる権威を身にまとった父のご機嫌をとりまた自身が父となりその汚らわしさや大いなる弱さで自己をまるで神のようにあげつらう人間が増えた事を私は悲しむし、また私がまさにそうであることに悲しみを覚えるのである。今の私にはあらゆる権威も見せかけにすぎず、私は私自身が懲罰される事を願ってきょうも身を削って国家の掟に背いているのである。それが、私にとってどれだけの苦痛と享楽を催させるかは余人の想像よりも遥かに少ないのだから、私は決してむくわれてはいないのだ。待っているのは懲罰であるし、懲罰の先に私は私の改心を私自身が期待しているのだ。

 文章は体力のような者で自己の内面に触れようとするには持久力が必要である。あらゆる経済的観念たる時間の計算機、また地獄たる他者に依って私の文章の幼稚さと凡庸さを非難される事を私が気にする限り、私は以上のような文章をかけないだろう。即座にして、囚われるが前に逃げなくてはならない。忘れているうちに書かなくちゃならない。何故書かなくちゃならないのかと言えば、それが忘れ去られてしまう運命にあるからだろう。私の経験を美化する事は修飾語を飾り立てる事で十分だ。拙い文章でもいいから自分の納得のいく者を書かなくちゃ私は常に崩れ去り心の不安定から来る悪者の侵入におびやかされなくちゃならなくなるのだ。社会に迎合した事後の理解を守らんとするがために私と接触しない人間は生きているとは言えず、ただ死んだ生活のうちに自己の保全をしているのだ。生きるとは、考える事であり考えるとは必然と今の意識の否定に向かう事ははなはだ明瞭な事のように思われるのだけれど、何かを保全しようとすれば考える事は忌避される必要がある。私は多いに本を読みたい。