相手をなじりたい訳じゃなくて相手の気持ち悪さを吐き出させたいのだ

 わかるかわからないか、それが世間で認められるかどうか何的にするようになれば人々に安息が与えられる筈もない。私の主張の正当性が世間で妥当する筈奈はないし、個人個人の主張が世間で認められる事は決してないのだ。正論とはすでに世間においてみとめられている誰の意見でもない記念碑をつなぎ合わせて形作る事にある。死体を喜ぶ人間の汚い根性に或る。何も私はしたいが奇麗だとも汚いだとも思わないが、動きと躍動を失った抜け殻に何の気持ちも抱かない。魂はすでに去りその人の面影は私の心の中でふつふつと生きているのだから。つまりは、私はその人達の邪魔をしちゃいけないとこう来る訳だ。確かに死んだ人を再び心の中で捉え直す営みはさみしさを紛らわす格好の臆見である事を私は認める。人が死ねば、その人は自由になったのであると言わなくちゃならない。私たちが思い起こしてはならない。劇的な死に方をしちゃいけない。おそらくは記憶のうちにその人は私を拘束もするだろうから。ソクラテスにしろ三島由紀夫にしても彼らの死に方の私から観てある一線を越えて世間を出て行った物達が私に投げ掛けるのは、ある種の自殺である事を私は考えない訳にはいかないがそう悩んでいる訳でもないのでこの話はこの辺にしておく事にする。

 愛とは何かと人は問い続ける事其れもまた愛である事をここに書き記すにあたり、汝神を愛せよ。隣人を己のように愛せよという。つまりは、隣人に辛い仕打ちをする人間は自分にも辛い仕打ちをしているんだ。そんな自己懲罰的な行為の根源である父なる刑法を己の立法と倫理の根拠に据えたかのような行為をするのはやめたまえとこういうのだ。新薬でも旧約でもその論争が金を生むような場所に私はいないのでなんともいえないけれども。汝は他人の所有する物を欲するなと、こう来るのだ。なんとも深い話ではないか。仏教はただひたすら、みんな物を欲するなという。しかし其れでは不便きわまりないの出し世間からあまりに離れすぎるので受け入れ難い筈なのに、仏像やら学校で教わった仏教徒がいるから親近感が湧いているからこそ、仏教に肩入れするのであるし、また神道は国家の歴史を保存して其れを信仰しようとするものであるから、非常無機質である。彼らはひきこもりだからそれが世界に通用するかどう、人類一般に言える事なのかといった真実を求める行為を没している。何の芸術も生み出さなかったではないか。