読みやすい文章と女の子との会話に着いて

 女性は共感を求める。何処かの記事に書いていた、本だったのかもしれない。そこに書かれていたのは女性は古来から狩りを担う男性のいない間に村人の同じ女性達を交流し我が家がその集落から孤立しないように、共感という共同体の信条のへの服従を旨として生活を担っていたというもっともらしい理屈が述べられている箇所があった。男性が家にいれば男性同士の人間関係が集落に及ぼす影響を考慮していないし、また、家の孤立よりも男性不在のときの一人の女性が、周囲から孤立することを避ける為に共感しているように捉えることも出来る。女同士の社会というのは実に不思議だ。すべての人間が女らしく生きようとする世界はとりとめのない嫉妬に終わるのだろう。嫉妬というなの賞賛を互いに送り合っていると言えなくもないのだ。そう考えれば女性同士の嫉妬なんぞは男同士の暴力を通じた友情のようなものなのだろうか。それに答えてくれる人も共感してくれる人もいないだろうから私は彼らの賞賛に甘えて自己をある一カ所に閉じ込めてそこから賞賛の声を聞き漏らすまいと立ち往生する羽目に陥らないですむと考えれば、嬉しいことである。

 何をソクラテスは恐れていたのかと言えば、正解を恐れていた。正解という接着剤を恐れていたのだ。正解は固定観念となり音楽となりそして、気分の高まりも限定されあらたな進取の気勢は失われ同じルーティンワークを感情の上にも課してしまう不自由を恐れていたのだろう。ソクラテスが人々を徹底的に反駁したことから学問の一つの道筋が出来たのだ。肥えた豚よりやせたソクラテスになれというのは、ビジュアル的には好ましくないにしても人間をビジュアルではかり続ける限り生まれ持った生来のものに括り付けられることになるので、実に不自由である。ましてや、ビジュアルは時の流れに裁断されてその魅力は切れ切れになる。それが写真となってそれを眺めて余生を送ることがはたしてすばらしいことなのかとおもえば私にはそうはおもえない。パトカーが止まっていれば事件があったのかと邪推するように、名詞がもたらす名詞を私は読み取ってそれをただ書くことだけが今私に出来ることだろうとおもわれる。今の私も過去の私も何も変わらない。論理にこだわっていたけれどそれは社会の権威から養分を吸い取る為のもっともらしい論理で、しかし、そんなものは役に立ちはするけれども軽蔑の眼差しを向けられる種類のもので、名誉を重んじる人間が長々と立ち止まる場所でもないのだ。女について何も期待しちゃ行けないのだから。ああ、ぼくは一体何をしているのだろう。死んでしまいたいのに、親は気づかないでいるのだから。何たる不幸だろう。他者に求めることは何たる不幸だろう。他者に求められることも何たる不幸だろう。

 忘れていたテーマがもうひとつある、女の子との会話である。ある子はとても嫌らしい面を持っているのを知っている彼女達を手にしようとするのはおそらくは言葉に酔ってではなく物質的享楽並びに私が嫌いな不自由な世間的慣習を伴った遊びで敷かない。その遊びにはただ真似をするというだけで心がないのだ。フランス哲学には感性と理性を駆使して探究を続けている。日本には哲学がない。彼らは結局は外来思想に依拠しなくちゃならない。日本人というのは古来から流行ものには興味があるが、それはよそからやってきたものである。だから、日本人は真似が好きなのだ。自由な雰囲気がないのだろう。新しいことをしようとすれば多数の目が私を突き刺しあたかも私をいじめるようにすすめられる。そのかわり自由な人は社会的に圧殺されて、そして、真似をする人ばかりが生き延びる社会になるのだ。そんなことが私にはどうにも納得がいかない。それならば、戦うしかないのだ。不平不満だけではもうどうしようもないところまできているのだ。ただお金が儲かればいいのではない、それは二次的ものである。新しいものめんどくさいこと楽しいこと遊びを取り入れてさっさと仕事を終わらせるようなシステムをつくることがまた一つのお金になるのだから。女達はおしゃべりが好きだ、男もそのおしゃべりに携わってちょっとhumorを取り入れてやればそれで十分なのだ。それにしゃべりすぎる男ってのもよくないのかもしれないけれど無口な男は嫌われてしまうのもオチである。ああ、僕は無口になってしまった。彼女に嘘をつく為に、彼女の齎した私の愚純を彼女が嘆いてくれはしないだろうという究極の孤独に私は耐えきれないからだ。