アウトプット

相手の視点に立ってみよう

私にはもう見方がいなくなりました

 もう私には見方がいないのです。私のような不幸な人間は、不幸に耐えきれずに死ぬのが一番の幸福であることを知悉している気がするのです。

 やめましょう実につまらない話だ。私は真面目であるからこそ悩んでいるのだ。真面目であることなんてやめたほうがよほど楽である。自分がどう生きているのかを惜しげも無く人にあけっぴろげにしてくる人たちが私は苦手である。自分がどう生きているかということをパターン化して説教してくる人間が嫌いです。できることならなにもアドバイスも説教もしたくないものです。そんなことをしても、私は満足しませんし、ただ、ある種の人々は、啓発本を読むように、アホのような説教というものを好き好んで全身に浴びようとする人たちがいます。そういう人間と私は合わないのでしょう。つまり、私はもう人に何も期待なんかしちゃいないのです。気に入らなくなったら私は死ぬのでしょう。ですから、死ぬ気がするまで自分を持っていくことなく自然に身を任せればいいのです。故意に何かを成し遂げようとすると必ず失敗してしまうというのが私の学んだことです。学んだと言ってまたそれをパターン化することもまた、弊害であることもわかりました。互いに互いの視線をもう意識しなくていいという状況であるから、親の干渉は、親が寂しいというメッセイージであることを私は惜しげも無くそう思うのであります。どこで何をしているのかも知らないなんて事に陥るのは、確かに親にとっては不都合でしょうが、子供にとっては、いらぬ干渉、いらぬお世話です。

 じゃあ子供とどう接すればいいのかとあなたは考えているのかとバカがきいてきます。おそらくは子供と楽しい時間をすごせることが大事でしょうし、何か親が子供に教えることができなければ、私はもはや親ではないような気がするのです。子供に何も教えることができない親は、私は親だとは思いません。ただ、社会に出てマナーを身につけさえることだけが親だと思いがちです。そんな説教を私はしたくありません。事実だけを話せばいいのです。具体的なことをすればいいのです。だから、私は親なんてものを、ただ、アドバイスだとか育て方ではなくて、何か子供に教えることができることだと思っています。それと付き合うことだし、子供もまた好きなことをみつけるよう仕向けて私が子供からそれを学ぶというスタイルでないといけないと考えます。すべての説教は支配欲からくるものです。もちろん支配されたい気持ちは子供にはあるでしょう。おそらくは、私の好きなもの私の環境すべてをあの親はバカでありますから、今頃呪っているのでしょう。私が小さい頃からそうでした。すぐに喧嘩するのであります。そして捨て台詞をはくのです。これが一番良くないことです。まるで喧嘩は終わったのに、根に持ったかのような言いぐさはあまりいいことでありません。私は何も根に持っちゃいません。その代わり感謝もしません。感謝をしたいと思うから、相手に何か期待するのでしょう。なんていってみても、相手に何か期待しないことには関係もはじまらないのです。ああめんどくさ。いっそ死にたい。