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今の私がまともになれば余計にまともでもなくなれば、くだらなくもなるということについて

 よくわからないのだけれど、今の僕がこのままに生きていればよく無いことが起こるのだろうというのは、私がここに書きとどめていないくても今の僕の感性が鈍磨していることから当然にわかり得ることである。僕はもう自分の臆見に意味を見出せないでいる、僕は支持するべき人もまた持たないようになってしまった。僕が取るべき責任の行方に自由があるのかもしれないと考えるのは分析をした結果直感を得たのだからそれを、分析から直感に至ったわけでは無いとどうして言い切れるのだろうか。小林秀雄はあまりにも筋が通ってはいないけれども、筋が10ちゃいないのが話だと小林秀雄は開き直っているのだから、別段彼の言うことを今日上のように従うことは無いのである。私だって小林秀雄のように人であることには変わり無いけれども、人間主義のすべては学校教育の幻想からくるものでその幻想かに国家が関与し一定の価値観の元に国を運営するための従業員を作ろうと頑張っている姿を見ていると私はあまりいい気持ちがしないのである。先生になることについて私が持つ意見はなんでも無い、いい生活をすることが幸せならば、先生はそれを放棄しなくちゃならないのに社会的地位に甘んじて素晴らしい教育を国家ぐるみで子供にしでかすのだ。子供という地位自体がまた弱いところにあり、それを保護するという国家ぐるみの偽善である。人々が助け合うことが無い限り、国家は永久に消えないだろう。公務員は良いものにはなりえないという理由もここから発されるのである。一方で民間は偽善よりも最低の位置にいる。彼らは相手の裏をかき嘘をつきものを買わせ環境を壊し税金を納めのうのうと暮らし国家について語ることは禁じられる。一体私の持っている世界観のこの絶望はどこからやってきたものだろうかと感じずにはいられない。私はこのような世界観に何一つ与しない変わりに、わずかな金銭しか与えられもせずバイトをして暮らし一生を狭い一定地域の場所で終わらせることになるのだろうか、そう考えると私は死にたい。私の入らぬ自尊心にかけて私はもう自分を信じることさえできなくなってしまった。つまりは、疲れ果てているのだということだ。誰もそれに気付きはしない。自由でいることは疲れるのだ。実に疲れるのだ。それだけの話だ。私はレーサーになりたい、絵を描きたい、小説も書きたい、ピアノに込めた思いは本物である。私は誰かのお世話をしたことが無いから、そんなことをするきにもなれない。世話なんてしたく無い、ただ名誉だけが欲しいのである。先生というのは名誉だから、お手軽でしかも誰でもお気楽に手に入れられる名誉であるから、手の届くところにあるのであるために、人々はファミレスで美味しいハンバーグを食べるようにちょっとしたバイトと読書をしないこと、また味を確かめもしないで先生になるのだ。ファミレス仲間が欲しいのだ。私は家でご飯を食べたい。いくらファミレスが美味しいからといって、私はご飯を食べたくは無いのだ。私は別にどこへ行っても私である。自信があるとか無いとかじゃ無い。自身は常にあるものだし無いものなのだ。視線があるとサルトルは言ったけれども、そんな指摘でも無い表現になんの意味があるのかしれない。どこに言葉のツボがあるのかしれたものじゃ無い。だから自分を省みなくちゃならないのだ。私にとって冒険は生きがいであり、恋はその伴侶である。人生は壊すために存在するのである。さあ、酒を飲もう、目をつぶそう。僕の手足は動かなくなる、それでも僕は冒険を夢見る。冒険こそが私の生きがいである。