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僕が語れる事について

 僕は言った何を語る事ができるのかという疑問が私の中にふつふつと巻き起こるわけであります。ひょっとすれば、私は何も考えていないのかもしれません。はたから見て私が何考えているようには見えないから、人々は私の事をあれこれと聞いてきて不躾な質問を平気でしてくるのでしょう。そう考える私の思い込みが私は人から話している原因であるのも確かな事かもしれません。

 本題に入りたいと思います。いったいあなたは何を語る事ができるのでしょうか。語る事ができるのがいったい相手にどういう効果をもたらすのかを考える前に口が勝手に動きます。沈黙はもしかしたら自由かもしれません。相手の観念や思い込みを崩す事にはなりませんから。私はしゃべりたい事がたくさんあるのですが、何を話したいのかという事については沈黙でしかありません。沈黙することで語ることの労務から逃れているのですから。これはある意味では不幸であります。沈黙は平和でありますから口論になる事はありません。誰とも争わずに小さな不満をたくさんうちに抱えながら、時には常識というさらに退屈な友達を伴侶に私は語るために語るのであります。

 僕には友達がいません。友達がいない事をいくら弁解しても私はそれで納得する事はできるとは思いません。友達はいたほうがいいというのこの社会において常識でありますから。常識は大衆の間では強い力を持っています。飛んでいる鳩が、隣の鳩とぶつからないように飛ぼうとしている姿を外から見ていると群れているように飛んでみえるように。友達はいたほうがいいというのが常識なのであります。しかし、私の感性はどうかというと、わかりません。他人との関わりで友達などいてもいなくてもどうでもいいという感じなのであります。友達を作ろうとすれば作る事はできません。そういうものです。欲しいのならあきらめんくてはならない。それが手に入れるための心持ちとしてしっかりしたものだと思います。

 しかし、今の世の中を生きていますと、いかに多くの人々が嫌いなことばかりしてそれで苦しんでいるように思われます。いずれ欧米人日本の女は取られるだろうと思います。人間である自覚を我々日本人は持つべきだというようなことも、もう、もうしません。

 私の文章が読むに耐えないものばかり量産しているのは私もうんざりしているところなのであります。しかし、書くしかない。

 ひとつ物語を書けばまた、文脈で私の文章もいい方に取られる事はある。文章がまずくても。何か主張したい事があるか。本当に主張したい事があるか。おそらく私にはない。相手を説得する人間に私は質問を投げつけることしかもはやできないわけであります。それも、説得しようとする人の心持ちを私は理解しているからであります。そこにある、得意満面の笑みをわたしは可愛げを持ってみることもあれば、退屈だから聞き流すこともあります。

 今日は天気も翌日に素晴らしい晴れた青空を垣間見る事ができました。祖父母から電話があり、バイクに乗っていた私は近くの駐車場にバイクを止め電話をかけ直しました。インスタントラーメンがあるというので、あまり大した料理ではないので磯子区こともないと思い、西都原古墳群へ行きました。まだ2月の半ばということもあり、西都原の菜の花は一輪も咲いていない様子でした。それから、丘を下り先ほど電話した駐車場の前を通りますと消防車が2台来ておりました。しばらく見ていると、ヘルメットの隙間から入り込んだ空気に焦げ臭いものが混じっておりました。駐車場の方をみていると、エアバッグが飛び出した1台のワゴン車が助手席を開けて止まっていました。60歳くらいのおっさんがしげしげとそのワゴン車を見ていました。消防隊員は急ぐこともなく淡々と作業しています。そこで私の頭に自然と沸き起こる止めることのできない考えは、淡々と生きていれば今頃は普通に生きていたのだろうと思うことです。私はある意味ですべてのことに対して億劫であるのです。やる気はあるのですがそれで人を迷惑にかけることが苦手なのであります。人に迷惑をかけて生きることは私の苦手なことであります。それを克服するために私は今いろんな人に迷惑をかけています。すると、今までいい人だと思っていた人がただの説教人間になり、重荷を課してくる人達になりました。説教はお金をもらってでも聞きたくないものであります。どう生きればいいのか、大した人生を歩んでいない人からもっともらしい常識を聞く時の苦痛といったらありません。その常識にいくらでも言葉を費やして相手を疲弊させることができますが、それは相手に悪いと思うのです。常識は、つまらない人生を送った人間に用意された言い訳でしかありません。常識にしがみつく限り、常識に背いたことからくる刑罰を受ける羽目になるのでしょう。正道を生きるといいますが、正道などありません。正道を歩む人間がいいのでしょうか。そうですか。何がいいのか悪いのか、私は興味がありません。ただ、私が外にいるときに何か退屈を感じるのです。それだけは確かです。私がいて楽しいと思ってくれる人がいてくれるのでしょうか。確かに以前の私は楽しい人だと思いますが、今の私はただの暗い人です。友達でもいれば、歩みをその人たちに合わせてその人たちがわたしについて語ってくれるのをきくだけであゆみも安心するし、また、それは、本のつじつま合わせの楽しさではなくて、妄想の種を与えもするので楽しい気分になるのでしょう。私だけを見て欲しい、誰か他の人から聞いた私の様子ではなくて、私自身を見て欲しい。なぜ、その人をみないのでしょうか。友達の解説を必要とするのでしょうか。私には理解できません。一番楽なのは、友達に合わせて付和雷同することでしょう。私にそれができるかできないかというのは問題ではありません。同じ人間ですからできないわけじゃありません、ただ、しないのであります。それを頑固だというのです。しかし、今の時代すぐに流行に流されてつまらないことに金をつぎ込み一時の快楽のために時間を無駄にする人が多すぎます。時間の無駄とは自分が好きでもないことを、また、自分が何が好きか嫌いかという自問自答が欠けている人がいるために、とりあえず退屈そうなことでもしてみようという考えからくるものなのでしょう。占いでは、好き嫌いの激しいのは彼女ですが、むしろ私の方が好き嫌いが激しいように思われます。楽しくないことは嫌いだというのならば、私は違います。占いの解釈をはじめるのはやめましょう。私の好むことではありません。無理してこなくていいよと彼女が言うときに、私は彼女にとって重いのでしょうか。別になんとも思いません。好きとも思っていないのでしょうか。そういうことはないと思うのです。ただ手を抜き出したというのが本当のところでしょう。しかし、それを相手のせいにしてはなりません。私が愛をもって接するしか道はないのでありますし、もっと言えば、私の愛さえ、愛のために断念しなくてならない状況があるわけです。神が彼女を庇護するように、私はその視点を読み取らなくちゃならないのであります。