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自分

 自分が如何なる存在かを自ら発する言葉において言い表せるはずもなく、他人との比較の中に自ずと出現する差異が自らであるとすれば、他人なしに自分は存在しない。世界は狭くなってしまった、という思う私の定見にも必ず小賢しい言い訳があり、それは自分の今の生活に空いている風穴をふさいでいる粗末な弁であり、もろく壊れやすいのを知って、またそれがスリルとなりうる。私は一体何をしているのだろうか。誰も読みもしない文章を書いて自然の美しさなどにとんとメモくれる機会もめっきり減って文章文章とわけも分からず駄文を重ねては1日を終え、何か言い足りなさを感じながら朝気持ち悪さの中に目をさます。誰も私の境遇も心理状態も気にかけないでいるのは私が感情をふさぎ外へ出さないようにしているから周囲も私の心に気がつかないのだ。信号も何もないのであってそれはほとんど妄想される、想像の中に独立して存在するのが私の心なのであり、私の心さえ私の中にないのだ。すべて、外に保存してある。この文章だって私が書いたけれども、書いた後は忘れても構わないのだ。私はいつ嫌われ失望されるかも分からないところにいる、いつ捨てられるのかも分からない。これは主婦が潜在的に持つ恐怖であろう。夫が優しい方が捨てられることもないのだから。安心して働くにしても安い急力では今更腰が上がらない。給料の安さに納得がいくのはそれ以外の生活が充実していればこそなのだろう。人生とは旅とスリルであるとすれば私は一体何をしているのだ。私の思想的冒険は今のこの虚構の現実を壊し独立して再び不幸の穴に飛び込んでしまい己の存在を消し去らんとする欲望の淵を垣間見て飛び込むスリルと飛び込んだ後のスリルを想像し血が騒ぐのを私自身が危惧しているのだ。この危惧感は危惧自体が享楽であり、それを押さえつけているだけなのだ。危惧感からその回避行動に自らを動かすのは一体何かといえば両親の言葉なのだが両親ははんば私にとって究極に薄められた牛乳のように味もしなければ、私は栄養の少ない場所にて過ごした時代の氷結を今更ながら思い返すと寒気と腹立たしさが沸き起こり、それらがうまく中和して平静でいられるという次第である。子育てを失敗すれば子供は立派になるというのが私の持論である。子育てに成功した親など一人もおらず、成功の後に失敗は必ず来るものであってどの点で子育てが成功したのかどうかその見極めをいつ自らが評決を下すのかという問題でしかない。そうすれば、私は今確かにバカなことをしでかし自らに失望して入るけれどもそれは、私を今評価した場合の話であり人生が株価のように乱高下をする運命のもとに生まれているのならば、まだ、諦めてはならず、諦めるというのは必然的に損をするのである。諦めは、人生の上では大切であろうけれども人生を諦めてしまった後の境遇もまた魅力的なのは確かであろうが。一体風俗で働く女は何を諦め本来はホームレスのように背カツするしかない自体を己の体を資本に生きているのだろうか。否、精神を資本として生きているのだろうか。女は精神的なる生き物で、肉体は彼女らの本来の姿そのものである。男は、相対的に肉体的だといえる。精神は、借り物で彼らは何も感じちゃいない。女は肉体を何も感じちゃいない。風俗は体を持たない女が裸になった精神をさらけ出す。男は、裸になれば何でもいいのだ。己より裸になっている人間がいれば何でもいいのだ。男の肉体は全く魅力に欠けているのはそれを見る女の方で魅力を男に伝え切れていないからであろう。魅力ある女は相手の男の心のうちに自らの魅力ある姿を自ずと書き出すものだ。男の側の興奮はせいぜい男の稚拙な想像と鋳型にはまった興奮する女を欲する気持ちとそれを見つけた喜びでしかない。女は男の鋳型に自らを押し込め演じればこそ多くの男に魅了される。一体多くの男を魅了する女ほど全く持って魅力に欠ける女はいない。感情を入れずに物事を判断すれば、物事の良し悪しに感情が宿っていないことはないわけではなく、感情的なものに頼ることなしに自立しようじゃないかという、感情からの解放を宣言したもののように思われる。ジブンヲカンジョウニイレズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ。世の迷妄に付き合うほどの体力もなく地面に沈みゆく我が肉体は大地に帰り、モグラは死ぬと地面の中から這い上がる。下克上物語は究極的な自己否定と自己の卑屈を燃料に燃え上がり手に入れた燃えかすのゴミをいつまで嗅いでガラスケースに保管し人に見せびらかしては、見物料をとる。これを笑えない人間は誰一人おらず、皆一様によく見ればゴミのようなものを、愛情を込めて大事に育て、大事に扱い、その気持ちに価値がわくような出来事があるものだ。何かをしてくれる人を待ち焦がれる気持ちよりも自分が何かをしてあげたいという気持ち、それを愛と呼び価値は私の外になく、私の行為の中に常に実り、私の行為を間接的に、ある他者を通じて会得される種類のものであるからこそ、それを奪わなければならない。私たち人間は人間同士から何かを奪い養い面倒を見、押し付けがましく親切にそれらを実行しながら自らの栄養分を取り生きてきた。もし、人間が生きるために生きているのであれば、死ねばいい話なのである。どうすれば楽に死ねるかの技術はどうすれば楽に生きることができるとかという問いと似ているように思われる。楽をしようと思う人間は一切楽を従っていないのもまた事実なのである。彼らは楽がいかなるものか本当のところを知らない。首相は権威もあるけれども、モラルも要求されるため権威を売り物に権威ばかりが集まって鬱陶しくなるのだろう。権威を求め楽をしようという人間は、楽の本質を見誤っており、権威を叩こうとする。権威なるものに反抗しようとする。徒党を組み。徒党こそ幸福であった頃を思い出し、自らの青春を洛陽に溶け込ませ、西の海に沈む太陽の蒸発する音を聞きながら、明日を迎えるに夜がやってくる。