アウトプット

相手の視点に立ってみよう

不便であることは楽しい

 人に何かをしもらうということは人がそれをする機会を奪っているということである。社会なるものを考える必要があるだろうか。自ら何かを考える必要があるだろうか。生活形態も違うのにどうすればいいのだろうか。迷いどころであるけれども私にできることは今の私を自由に言論の場所に舞い戻るように仕向けることであろう。私は二限が話しているのを聞いているのが嫌で仕方ないのだ。第一疲れるのだ。非常に難しいのだけれども。症状が私に舞い降りていると考えるのまた難しいのである。私は私の精神と戯れている限りいつまでたっても何もできないままに死んでしまうのかと考えると寂しい気持ちになるのもおかしな話ではないように思われるのである。今僕が気持ち悪いのもアボカドを食べたので気持ちが悪いのかどうかわからない。気の流れは変な言葉ではないけれども僕は何かをするべきなのにないをするべきなのかわからないというよりは何もしたくないのだしやりたいことなど何一つないそうやって騙されて生きている方がなんとも楽しいのじゃないだろうか。

禁断

たしかに、私は自分が気持ちよくなるために書いているのであって決して芸術的なもののために書いているわけではないのだ。それを否認している僕の心が辛い。僕は自分を偽ってまで相手に合わせようとするところがあるけれどもそれは相手が好きなのだからといった理由をここに書いてもしょうがないので、あらゆる理由の向こう性をここに論じて私が裁判官から訴状にあげられた罪を課した理由を自らの罪を軽くするためという動機のもとに偽るようなまねはしたくないのだ。どのような嘘でもしかし僕がつかないとは限らないというのがまた僕が曲者であるところだ。考えてみれば人間は機械ではないからいくら条件が揃ったとしても断る力がある。もしかしたら私は人間なる世界で一番嫌われている種濁に属するために機械的な振る舞いから逃れるような文章を書いたり受け答えをしているのかもしれない。自らを何か特別である風に装っているんげんの中でも自慢話をする人間が嫌いではあったが日本人はおしゃべりが得意ではないので自慢話も喋らないよりは喋ったほうがいい当お人好しな人間が嫌な役を買って出ているにすぎないとしたら、潔癖でおしゃべり好きの平々凡々な人間ほど人間の中で最も醜い人間であると思わずにはいられない。一体どうしてそういう風に考えるのかと言われてもわからない。いやないやつのことについて考えるだけの暇と時間が有り余りすぎるからであろう。けれども、好きなものについて語ることが少ないことを認めたくないがために嫌いなものについていくらでも語るのかもしれないし、もしかしたら、好きなものには何一つ理由なんてものはいらないのではないかと思う。それにしても、嘘の付き合いが就職活動だとすれば嘘が誠になるのが仕事であろう。世の中にはいろいろな仕事があるけれどもどれも必要かと言われればそうでもないような気がするのだ。なかったら誰かするであろう。捨てれば誰か拾うであろう。一体読みたくない本にはケチをつけるに限る。それが本を読む際に誠実である気がする。読みたくもない本を一体誰が好き好んで納得しようとして読むのだろうかと思うけれども読まなければならない理由も本当はないのだから何となく読みながら違和感と不快感を混乱を覚えてケチをつけて自分なりに消化しようと取り組んでいるのだ。この私は概観してみるというのは占いに任せるのが私のスタンスで私は占い師なしに自分を俯瞰して見ることの内容にしているしそのような力が私の力を押し殺すのであれば主観の燃焼を唱えた三島由紀夫の説を採用している私の立場からもやはり自分を客観的に見て他社の批評を気にして好きなことも何もしないで不自然なるおしゃべりと振る舞いに体調を壊し精神を病むのは、あらゆるタイマンの中で最も怠慢なる振る舞いであるように私には思われるのだ。労働は確かに自らとの対話をなくすことでしかないのだ。古代ギリシャ人は一体奴隷制度の中に住んで対話を続けていたのだ。だからと言って鞭が必要なわけじゃない。進んで働く者もいたのだしまた報酬をもらっている奴隷ももちろんいたのだ。しかし、私がこう書くには理由がある。奴隷制を持っている社会が出した結論なり問いかけは現代において通用しない、ということだ。しかし、私は古代ギリシャの問いかけは何とも素朴で親しみが湧くのだ。コンピューターが世界を達観したけれども人間は物を考えるよりは検索するようになり、記憶する楽しみもなくなってしまうであろう。記憶は喚起されるものであり決してかけ算九九を1000の段まで覚えたからといって記憶力がいいと他人から不要でしかも聴衆を纏った賛美は受けるであろうけれども、喚起するする喜びは一切伴わないのだから何とも寂しいものである。人間の努力が実を結べばいいと考える連中は実に実に人生の時間を浪費している輩である。目の前に素晴らしい光景が広がっていても、一向に注意を払うことはなく、何をすれば植えた種が実をならすのかネットで検索するのだ。何とも悲しい出来事ではないか。また、人々は盲目となる。まるで、愛が人を盲目にすることに喜びを見出す人間たちのように。人間は何も知りたくないのかもしれない。知識は他人の歴史だ。戦争だって他人の歴史である。それを忘れてもらっちゃ困ると思うのだ老人ではなく私たちの方である。老人が死ねば記憶もさる。戦争を定期的にお越し品ぷの格差とやらをなくすきっかけにしてやろうという魂胆がある。それは否定できない。しかし、貧富を金で図るところに間違いが生じているのだ。それは、金持ちもそうであるし貧乏人もそうである。貧乏人はよく気がつく。あれはいい服だ、これはいいものだ。金持ちは感覚が鈍っているから物事に気がつかない。超えた豚になるよりは、痩せたソクラテスになれと言ったのは誰か忘れたけれども、あまりいいたとえ話でもないけれども、今の私には好きになるということへの危機感を持ち合わせている。それは、あらゆるものを壊す働きをする場合があると占いに書いてあったからだ。それは置いといて、なんとも曇りの天気。日差しは弱い。土日の日記を書こう。忘れてしまうには惜しいから。

今こそ宗教学を

 現代の社会は腐っているという時にそこに僕が住んでいながらなぜ腐った社会を捨て去ることができないのかという問いを自分自身が追いたくないがために今の社会は最高だという手法は約二たちはするだろうがある種の人々にとっては反感の種になるだろう。私が嫌うのは嘘であるけれども嘘なしに生きることは極寒のシベリアを衣服なしになるような行為であり死に方も悲惨であろうから私はやはりぬくぬくと着物を着て家まで作り火を燃やして大ウソに嘘を上乗りして時間つぶしをするのだろう。この時間つぶしが何とも言えないほどに長い間続く感が得れば手の届く範囲に拳銃を見つけるやいなや興奮した脳が私の右人差し指の冷淡なる行為で死すことも考えられるだろう。もっともいけないのが家にい続けることであろうけれども私は社会的に幽閉されているので外に出られずここに居座っていると考えるのはどこに暮らしてもあまり変わらない事実なようだ。私は何とも自分が不誠実で計算高く狡猾で後先考えない社会に生きているとはとても思えないような整体をしている規則はわきまえた人間であるけれども私がこのようにまるで平気な顔をしているのも社会で生きることにこなれているからであろう。いつまでもおどおどしているから外へ出る時に力が入って顔面はぐらつきあげた口角は痙攣し続け顔の筋肉は張り詰め一体どうすればいいのかと自問自答する力も気力もなくあるがままに写生を続けてみれば、自堕落な文章ばかりが電気代の代わりに書き上げられて、強烈な皮肉に込められた知性の片鱗も正義の鬱陶しさも説得のいやらしさも全て体力で吹き飛んでしまうような、そういった事態を私は経験しているのだから何か人に教えてやれることもあろうけれどもそれを知りたいと子供が望んでそれを養う大人からしてみればただの自慢話に他ならずやりたかったことをやれなかったという後悔と憎しみを一身に抱いて教壇に立つことなで誰ができよう。たとえ私にそれができたとして、てきのいないところはたのしいばしょではなくやはりどうかんがえてもにんげんにはてきがひつようでていがいなければまったくえいせいてきなかんきょうのなかよわよわしいびょうげんきんにくるしめられちりょうのほうするくすりの効果が病原菌の人体に及ぼす害を越すこともあろう。要するに、この世の中についてどうでもいいという宣言でもあるのだけれども私の中にこの世の中ほど面白いものもないので嫌々付き合っているという次第なのではないだろうか。無理に断定口調の文章を練り上げて満足しようとしたが私に素直じゃない文章を書く苦痛を免れる方に今奔走を続けているこの私が一体どこへ行くのか誰も知りようがなければ神様さへ欺きかねないない私が、私自身にうんざりするほどに振り回されているのもまた事実であろう。

バイクについて

 近頃はバイクに乗らない。バイクに乗っていて楽しいと感じるには山に行く。くねくねした山水戸を走るのがバイクの醍醐味であるし楽しみでもあるのだgそのバイクに乗り機会というものを別の機会に当てているのでバイクに全然乗れていないのだ。駐車場代ばかりがバカにかかるという状況に今あるのである。だから、今全くバイクに乗れていないのだ。それはそうとバイクに乗ることに何かめんどくさいものを感じている。それは失った時間でもあるしバイクに乗り続ける時に今後どのように乗って行こうかという話ともつながるところがあるのだ。ツーリングに一緒に行けないのは実に寂しいのである。バイクのある生活は楽しいけれどもバイクのない生活もそれなりに楽しいということになってくるとバイクがどうしても必要よいうわけではなくなってきたのだ。そんなときにバイクを売ってくる人がいる。買ってもいいがお金が何せないので借りることになるのだ。親にお金を借りるのはあまりしたくないことだけれども買うにはそうするしかない。おそらくは、ダメと言われるに決まっているのは明白なのだけれども。バイクを外に保管するというのも一つの手かもしれない。何せバイクという乗り物は身近にあって力を発揮するものであるからしてどうしても近くにないとダメだ。また、バイクへの興味関心というものを周囲でフォローしていかないと秋が来るのも本当のところなのだ。

ネットバカ

 ネットは人をバカにする。頭をボケさせる最善策と言える。ネットでは体力の消費を考慮しない考えばかりが先行する。家にいながら世界の景色を見ることができる。想像力が人生を豊かにするのならネットは人間の生活から想像する楽しみを奪い、ネットを通して世界をみる癖がついて対象との間に距離が発生し、手の届かないところへと対象が逃げていく。ネットをしている時に脳は新しいものへの畏怖も忘れ新鮮さも忘れ感覚的なものを取り去っていく。根本には現実世界からの感覚を除去したい気持ちがあるのだろう。生きている世界を楽しくするよりも見つめることから逃げることの方に意識がいってしまうからであろう。酒もタバコもしないとなるとその傾向がなおさら強くなっていく。ネットに依存し、ネットを通して世界を解釈するようになるのであろう。ネットはいわば世間の教科書である。本当に大切な感覚を養わずに、また、感覚から得られた情報を解釈する想像の源泉がネットになるとは恐ろしい。ネットは、タバコや酒よりも強い依存性を発揮し、また、人間にとって害悪でしかない。ネットで欲望は消費され多くを望まないようになるとしても。それにしても、ネットで音楽が簡単に手に入るようになり自分に合ったものを探すのが容易になった。あるもので満足するよりも、見つけ出そうという気分になるのがネットである。探せるのだから探すのだ。ネットもあんが使いようによってはとても便利なのだろう。しかし、情報が少ないからこそ人は安定するのだし、安定を壊すような想像力を発揮して悦に浸りひとり楽しみにふけるということもあるのだ。ネットをしなかった時期があるが、世界がよく見えた記憶がある。単純に若かったせいもあるのかもしれないが、世の中を歩いている人たちが見えた。今私は世の人たちを歩かせないようにしていると思う。互いに、ネットの世界に没入することで視線を逸らし外の世界で自由に振舞うことができるようにもなったのだ。それにしても、そのような世界は実に私には恐怖だ。やはりネットがなくなってしまうのは悲しいことであるけれども、無くなるとしたらの話がだ、ネットがなくなったとしても新しいネットに変わるものが出てくるだろうしネットの代わりになるものが出てこないとしても、たいして変わらないような気がする。私はたいして変わらないだろう。私は私を変えたいと思っているようにも見受けられるこの文章に自分を表すように説得したいのだけれどもなかなか文章という形で私の意識が取り出されることは少なくなっていったような気がするのだ。もしかしたら、あまりに書きすぎたせいで私は文章という表現方法に飽き飽きしそのあまりに形式的な認識の方法に敵意を感じ反抗心が沸き立っておかしな文章を平気で書くようになっているのかもしれない。すべてが推論であるから断言するのしても疑問の余地が残るのは当然であるからして、ある人々の労働は実に断言的でやるべきことが決まっているから太陽が沈む時に感動したり規則正しい動きをするものを見れば感動するのかもしれない。偶然性を嫌うこともそういうことから来るのだろうと思うのだ。私自身何かを失っているような気がするけれども気にしないようにしているけれども気にしないようにするのは難しいことでおそらくどこか心があるとしたら心の片隅にて悩みが鬱積し腐って腐臭を放ち人々が顔をしかめるような自体をすでに招いているかもしれないという危機を人一倍持っているのだろうと思う。このストレスから私の気はだいぶ弱っていると感じているけれども有効なる手段にてこの気を強めようとだいぶ策略指定けれども何一つ実行に移すこともなく進んでいるのが今という時間である。人の自慢話ほど貧しいものはなく嫌いなものとは触れないことが英気を養うための唯一の手段であるとこうして手段を一つに絞ることでなんとか一つくらい実行に移せるように自分を鼓舞しようとするも失敗してしまうのだ。失敗というよりも、私はこの世の中が持っている暗黙知にだいぶ懐疑的な眼差しを持っているのである。買うといえばそこで売買が成立するとしたのは裁判所であり、別段二人の間では違うことが起こっているのである。一般に恋愛という事象もそれに方法論的なところがあるわけではないはずであろう。恋愛とはどういうものでこうする掟があるというのが実に恋愛の特徴であり自由恋愛なるものはただ親という存在を消去しているようであるけれども、親という形の代わりに財産というものが幅を利かせているというほかないのである。もちろん親も相手の財産をつけ狙い結婚させようとしているのが明白なる故に、親という存在が財産という形に変わるということはありえないのだ。だから私の言っていることは間違っているのだけれども、この批判的な形式を見出すまでが私の文章なのだからしょうがない。自己完結型だとかなんだとか人はそれこそ己を脱したような物言いをするけれども、ちっとも自分というものを忘れることがないのだ。相手に従えばいいように思っている。なんとも悲しい出来事ではないか。ネットにて誰からも山道を得られないような文章をひねって断言的な物言いをするよりもそういった覚めた目を持ち続け冷めさせ続ける方がよほどネットの言論にふさわしいように思えるのだ。ネットの言論において持論を展開する場合それが炎上するか目立つための小狡い手段でしかないのだからなんとも言えない。ネットでの言論をそのままに現実社会にて行うことも今は珍しくない。トランプ大統領や安倍首相を見ればその大言壮語も計り知れず、福島のことは忘れて日本国民を使い経済を回してなんとか今の生活を物質的に続けていこうとしている。当然貧すれば鈍するであるのは確かではあるけれども、なぜか強みにかけているのだ。へらへらしていれば、みんな仲良くしてくれるであろうと思っている節があるのだろう。日本人のこういう無意識なる互いの起床をこう明白に感じるのは全くもって不自由な心持ちがするのだけれども。いかなる時代よりも今の時代のこの閉塞感はお金がないことから起因するというよりも経済第一で進めてきた結果経済なしでは人が動きもしない世界を作り上げてきたのだろう。カネがなければ何もできないし金がなければ諦めるという時代を作り上げ、金が人を動かすための大きな力を持つと考えているのが日本人であり相手の鐘に目をつけて結婚したにもかかわらずカネ以外の同期出会いを求める女がいるのも確かなことである。カネがないと当然貧しいということになるけれども、貧しさについても詳しいのが金持ちだと言わねければならない。カネがある人間はカネがあるだけでは豊かな気持ちになることができないことは知っているけれどもカネがあることから来る余暇の使い方で気持ちが楽になるのを知っているのだ。要するに、目先の利益を追いかければ小さな快楽を少しずつ摂取することになるのだけれども、大いなるものを見出すことができず矛先がくるくる変わって大河の流れのような心持ちからは甚だ遠く落ち着きのないリスのような人間が増えてくるのであろう。日本人は小さいし小柄だからそういった節操もない落ち着きない振る舞いが好まれるように思われる。そういうことをぼんやり考えながら過ごす今日という1日のなんと落ち着いていることよ。私はどうも自分という存在について考える時間というものを持ちながらそれについて考える忍耐にかけているように思われる。それは私が私に興味を持っていないから起こる出来事なのだろうとも思われる。私という存在のちっぽけさを物質やふるまいによって変えようとしている。私はもしかしたら商売人にその虚栄心を利用されてしまったのかもしれない。ある人を動かしている源を知ればその源泉から利益を得ることができる。それをするのが商売人だとすれば、それを指摘するのが私だと思うのだ。なんとも人を決めつけるような言葉は慎んだ方がその人を理解する上でとても大切であるように思われる。早く結婚したがるような女はやはりせっかち節操がなくうるさくすぐに気持ちも冷めダメである。

私を去るとはいいましても、むずかしいことでありまして、私を去れば私はいったい何かと申しますとなにものでもなくなってしまうわけでありまして、法律関係からも失敬ということになりますと殺陣でも強盗でも犯しても私はそこにいなかったということになりますから捕まることはないかと申しますよ世の中は違うのでありまして、どうしても世間というものは私たちに私を与えないではおられないのであります。名前というのがそうでありまして、名前さえ一つの暴力なのであります。その辺のことにつきましては、フランスに住んでおりましたジャックデリダという哲学をなにやらやっている方の本を開いて読んでみなされば納得のいくところでございましょうか。なんといいましても、世の中は物騒というのが世の常でありまして、そんな世の中から浮世に住まうことになりました遊女は、ディズニー映画にでてくる女主人公となんら変わりないのであります。ディズニーも千と千尋も遊女を題材にした物語に相違なのであります。女性がこれらに無防備に喜びを見出しますのは、自らの性によるところがあるのでしょう。女性たちは性から快楽を得ますし、快楽を得た上に自らの性を売り物に男を捕まえ働かせることもできるのでございますから、なんとも女性というのは多大なる力を保有しているわけでございます。ある整体師の方に言わせてみれば、女性の体は男の体よりもメルの虎に近いのだそうでございます。メスの虎といいましても、力は強靭でありますので男は勝てないでしょう。あらゆる道具を使って虎を退治する方法が残されてはいますけれども。私が申したいことは特にありません。できれば、何も申さずに暮らしていきたいものです。意見なぞという過去の遺物を保有せんがために今この現実を曲解して歪んでみている節が私にはあります。この事態を一つの逃避だと捉えれば、いったいなにから逃避しているのでありましょう。わかりませんが、人生は挑戦の連続であります。挑戦とは新しいことに突き進んでいくことでありますし、思考の変遷こそが至高なのであります。ある一つの意見や主張はなんら意味がない公理であります。ただ、人を鼓舞するような展開を話しの上でなされるのには意識の流れとして尊重に値すると思いますけれども。また、私の話はつまらないところに着地しようとしております。しかし、それもまた乙なことに違いありません。今非常に面倒なことを面倒だと言ってしまうのはよくありません。面倒なことは誰にだってあるのです。それを思わないで体を軽くして動くのがいいのではないでしょうか。とにもかくにも、私の意識の流れをここに書き留めることで私は何か利益を得たり目的を叶えることができるとは思いません。小説だってそうです。私は小説を書きたいと切に願いますが、その方法論だけは断然もっておりますけれども、小説の話をするには仲間がいたほうがいいでしょう。人は忘れやすいですあら、