アウトプット

相手の視点に立ってみよう

ポペット

 会話に意味はない。しゃべることに意味はない。人間口があるので、臭い息を吐きながらでも素直に喋るのだ。そこに意味はない。もし、何かを意図しているのならくだらない。相手から金をむしり取るのであっても構わない。相手に金を出させる気持ちにさせるのだ。そして、出してくれた人に対して何もお礼もしないし、侮りもしない。この世の中で、もし金があればできたことはあるだろう。金がなくてもできたことはあるむしろなかったからこそ金がなくても生きていけるかねから離れられるようになったのだと思うべきではないだろうか。それにしても、あまりにもどうでもいい。私もいないので私といってもしょうがない。諸々のことは過ぎ去りもしなければ止まることもなく、消えることも心に残ってわづらさしくなることもない。一切はすべて内容であると思われているんドアが、ないのである。消滅の仕方を誰か押してえてくれと言わんばかりに解決法を探り、やっと手に入れたのはどうも自分というのが邪魔をしているのだということだ。人間は自由な存在であるが、不自由な社会観キュとこれまでの不自由な生活に憧れと懐かしみと親しみを覚えている。それらの依存性たるや、母を求める子供の姿によく似ている。決して、進むこともなく。依存に従って生存している。もし、依存の対象なくなれば生存は見事に消滅するであろう。すべての人に言えることである。それだけがだいたいわかっていることの真相である。どれもこれも、皆が同じようにのろく動くので、経済は成り立ち金は回ると考える。経済なんぞ博打だが、必要のないものを売るのもまたヤクザだ。道路はボロくてもいいじゃないか。車が汚れたら洗えばいい。対処療法がいい。どうも、不安を先取りして落ち込んでそれがこないように備えて何かをする。残るのは嫌いな道路と立派な家であろう。そこに住む人間はいない。寒い雪降る当方のコタツでみかんを食べる。それだけが、信じられる唯一の日本的光景である。猫もいらない。変な声したアニメの声優も要らない。何もいらない。テレビも要らない。しんしんと雪が地面に積もる。白い雪は白くなく、透明に、氷の形成を待っている。溶けて冷えるのを待つ。人も、壊れて作られるのを欲する。それを教育という。教育された人間が蔓延し世の中は雪に覆われ車は立ち往生し立派な道路は今日は駐車場となる。真理と言われるものを探し求め見つけ人に披瀝し褒めてもらい得意げになって家に帰る。それが最低な1日であることに間違いもなかろう。相変わらずテレビは、バカを相手にバカ話を真剣な顔でしているから視聴者の顔はこわばって醜く何かを恐れる。信じられないくらいの喜劇が展開し私は巻き込まれ死んでしまう。そうなりたい、なりたくない。ではなく、そう認識するわけでもなく、そうだろうというわけでもなく、そうだと断定するわけでもなく。そうかもしれないというわけでもない。「なにがいいたいのか」というとき、弓を弾く袴の老人はなぜ弓を弾くのかと問われて笑うだろうか。的に弓を当て、なぜ的を狙うのかと問われた老人は笑うだろうか。その笑いには不気味な優しさがあり社会的に正当化された笑がある。革命的な笑いは常に沈黙の中にあり決して笑うことで人々をなごますこともない。いわゆる、ゲバラは革命的な人間ではなく、自分自身を破壊尽くした破壊の笑いである。貴様らには俺の真似はできないだろうという笑いである。そんな笑いは巷にすこし溢れている。皆が皆人に期待し、自分に利益のくるのを期待する。孤独は寂しいと避けられる。これほどの不幸があるものか。見渡せば似た者同士、集まって離合集散。孤独者だけが自分を好む環境にある。友人が増えるほど、自分を強固に保つのは難しく、自らの好む対象への思いも薄らぐ。だから、不倫は中途半端な女好きのやることなのだ。

 世の中の不満をここにぶちまけても何にもならないブラックホールに吸い込まれていくのはわかっているつもりだけれども、やめられないのはお酒のような快感とも言えない一種の依存性があるのだろう。依存している限りは精神は安定を保たれるのであるから、人間という動物はある種の決まったパターンの反応を起こさなければ飽きてしまって他に同じようなパターンの反応を求めようとすれば社会性のある人間となるが、同じ対象から同じパターンを要求するようになったり、対象に合わせて自分も変化するのであれば、一貫性のある人物ではあるだろうが、社交性に欠けるという評価になるのである。しかし世の中の社会性なるものはちっとも役に立たず、世のものが言えない考えられない場kたちに支えられた沈黙の力によって立つので、いつまでも自分の言いたいことを社会の言いたいこととすり替えて自らを欺いて過ごさなくてはならず、ちっとも自分に対しての責任感が伴わないある種の嘘つきになり、それでいて金ははいるわ、人は喜ぶわで、感きわまる状況になるのだ。ちっとも、事故を分析しようだとも思わないし、最近は、無意識なるものがあったからといってなんだというのだと思いたいくらいなのだが、つまりは、今意識的にやっ営る事柄が無意識からの要請に応える形でなされている限りは安定を保つというのであろう。疲れた、と口にする人がいかに不誠実であるのかは、自分は十分に満足しているのにもかかわらずそれ以上に疲れたという言葉を利用してさらなる快感を得ようとしているところにいやらしさがあるのだ。疲れているのなら、黙っていればいいのだし、一人で休めばいいのだ疲れているのに酒を飲んで誰かとしゃべっても余計に疲れるだけなの、要するに疲れたいだけなのだから、好きにやって貰えばいい。私は人間関係がうまくいくときは、事故をいつ割れるときであると確信している。自分に正直であり、自分を見失わず本当に好きなものと一緒に過ごすためには、社交性は不要である。また、近頃の複雑な世の中のシステムに阿鼻叫喚して儲けよう謎と思うような複雑な精神は、精神の停滞をもたらし、ひいては、最終的に毎秒毎に地獄が待っているのだから、何も羨望することも尊敬することもない。無駄なものを買って、それを喜び、その喜びはゴミを集めるホームレスと同じくらいの欲求でしかないと言い放ちながら心の中では、無意識という絶対的に侵入を許しあるいは侵入を許す他社の独壇場において、君の軽蔑は君が得られないものを手にしたものへの嫉妬であり、君自身もそれを所有したいと欲しているにもかかわらずそれができないので、すっぱい葡萄だと決めつけて葡萄を取る努力を怠った賢い狐と同様に、自らの欲望に対して淡白なんだと、いったいそこまで誰が考えるだろうか。本心にもないことを言うのは気持ちがいいものだ、何故ならば、そこには社会的に認められた慣習である言動が備わっているので社会の一員ひいては、社会を代表する何か偉い人間になったつもりになることができるのだ。これは非常に面白い話であるけれども、なんの証拠も実証もないのだ。根拠は私のこの脳みその弾き出すてのリズムである、手淫がなぜ気持ちいのかを解明するよりも先に、手淫は気持ちいいのだから、何か科学的な説明である分泌物であるとか摩擦係数だとか必要であるだろうか。数学のできる人間が世の中を数学にまとめてしまいたいと思う欲求と、二次元に還元して絵を描いて満足して現実世界を多角的にではなく非常に限定的に見て安心する態度に非常によく似ている。現実はあまりにも人々の多角的な視点によりいくつものパラレルワールドが既に存在しているのだ。その世界においてあんたの存在は宇宙であろう。俺が死んだら、世界は続くだろうか。そうだとしたらやりきれないだろうか、死んだ後いい世の中になってくれという気持ちを持っている人間もいるだろう。その人間は幸せである。何故ならば、その人間は自らが落ち込んでも別の世界に逃げられるのだ。避難先を確保しておくのは人生において非常に大事なことで、自殺するのは、避難先がなかった結果である。そして、避難先は自らの価値観の数の多さによるのも確かなのだ。ある意味、一つの価値観を信奉していれば、それで少しはプロフェッショナルを気取れるだろう。お金も手に入るだろうし、それで生活もやっていけるが、いかんせんかねを使えばなんとかなると思っているので、お金に固執するだろうし、お金を信奉しケチの吝嗇家で気持ちに余裕がなく、法律の外で互いに固く結び合っているのかもしれないが、お金の外で結び合うことはないだろう。宮台真司が最近は法律の外での繋がりを云々かんたらいうているが、より現実的にお金がそこに現れてくるのだから、お金による繋がりの人間関係というもののなかに全く厳然に現れるルールを重視するとすれば、古代奴隷制社会が垣間見られる。古代の奴隷は、決して漢字から想像される悲惨さよりも、仲間といった感じに近いのだ。つまりは、奴隷という漢字は当時の現実を反映するよりも、心を反映しており主人が死ねば奴隷はまた安く売られていくという不安に根ざしている。もちろん、主人より早く死んだ奴隷もいるだろうが、究極自分は奴隷でもなんでもないのでその気持ちはちっともわからない。わからないことがたくさんあったほうが気が楽であるし、物事を柔らかく見るという、これまた、一つのテーゼを私はここに書いてしまったのであるが、ある意味で、視点を持たなければ話すこともなく、そして、仲間であるか否か、気があうのかそうではないのかという話になるが、気があうからといってその人と一緒にいれば疲れないかといえばそうでもなく、人は容易に相手に表面的に合わせる口だけ持つ人間がいるので、ちっとも言葉は信用ならない。ただ、その人の行動にだけは信用がおけるであろう。いくらうまいことを言ったとしても、それで評価されるわけではないのだし、また、評価を求めてする行動も浅ましいのだから、つまりは、自分が損することをわかってする行動こそがもっとも誠実なのである。それを知らずに、社会は回っているのだし、疲れ果てた人間はすぐに食べ物を欲するように、もはや、現代は、ただ、決められた事柄を淡々とこなすことに力点が置かれて、ちっともどうやってものができるのかもしれない、世の中の身近なことについて一番忘れられている。経済システムという思想だけが、人々の関心の的になって、みかんの色さえ、3秒とも見ることができない。人間は一体、なぜこうも、実態でない関係性にしか興味がないのであろうか。関係性だけが、唯一の社会的な生き方の一つだ。

人間が嫌いだドブにで溺れていろ

 まあ、おそろしいことをおっしゃるのね。あなたに友達がいない理由もこれでわかったは。あなたはもっと人間を愛するべきなのよ。あなたほど人間を愛していない人っていないと思うは。あなたって、本当人間が嫌いなのにそれを、まるで、本当は人間が嫌いではないのにと思うこもうとしているのがばればれよ。バレているってのはあなたがいろいろ隠そうとしているのがわかるってことよ。すべて、本音で喋るべきなのよそうじゃなくっちゃあなたが生きている意味がないじゃないの。周囲と音程を合わせるのはちっともあなたに向いていないの、それだとあなたは窒息して死んでしまうの。あなたには、他人から食べ物を与えてもらうための腕がかけているの。喉が死んでるの。常に自分を食べながらでしか生きられないの。だから、根本的に栄養不足なのよ。人からもらおうっていう気持ちを持たなくちゃ欲望があなたに芽生えることは決してないは。心底あなたって本当人間を嫌っているのね。しかも、あらゆる人を嫌っているのが明白なのよ。あなたに優しくしてくれた人、あなたを嫌っている人、あいてがどのようなインゲンだからってあなたはその人をとても憎んでいるし、諦めているの。あたなはちょっと自分を理解してもらおうというのに必死になりすぎているのよ。理解されてもちっともいいことなんてないのはわかっているようですぐに忘れちゃうのも、やっぱり薬なのかしらね。あなたって、自分の記憶にあまり重きを置かないほうが幸せになれるんじゃないから知らね。とくに、偏見だとかは記憶から形成されるでしょ?それってあなた物事をすぐに忘れちゃうから、形態がわからないの、出鱈目に作っちゃって誰も周囲の人が受け入れてくれない、変わった面白いものを作るのねって褒められているような気分になるしか能がないの。ほんと、ちっとも役立たずだからこうして文章を書いてなんとか気分を紛らわそうって考えなのよ。本質的に、どうでもいいの、あなたにとって、この世がどうなろうとも。そうじゃなくっちゃ疲れて何にもできないんだもん。そうじゃない?どこの誰が自分から、嫌いなことをするかな。やっぱり好きでやってるのよ。そうじゃなくちゃ、説明がつかないわ。ええ、わかってるわ。説明なんて、信じられる人が幸せだってこともね。もちろん、その人は与えられてばかりいるから自分から何かを与えないので脆いってこともあなたは知ってるわ。そして、そのもろさが破壊力につながり、また、人間関係の上では、そのもろさと与えないことによって相手から遠ざかり自分も変わることがないってことも、それに安住しようっていう腹積もりでいるのも十分に分かっているわ。私、ちょっとしゃべりすぎちゃったみたいね。疲れちゃったわ。どうしましょう。どうしましょう。。。

 わけのわからないこと。説得こそが人を交えて自らもそこに現れるための存在の文章を作り出す動機である。説得こそが、人を人たらしめるのである。自分が、どう思うのかの感想だというのは「思う」と言わなくてもわかるのだ。本心は「私はすぐに意見を変えます。都合がわるければ」という情けない宣言だ。断定分にこそ私が宿る。決して「考えること」「思うこと」には、私は現れないし信じられない。道路の真ん中に落ちている紙くずに「君のことを愛している」と書かれているようなものだ。もっと覚醒するべきだ。そうでなくては前に進めない。文章だって、いい逃れるために姑息な手段を使うであろう。「そういうつもりでいったのではない」と、相手に媚び、相手が自分の意見を自分の考えるように受け取ってくれないことを嘆くのだ。文章の責任だという、退屈な話ではない。責任のない文章などない。人を殺しておいて、自分は殺していないと錯覚しているだけだ。その錯覚が「思う」だとか、「考える」だとかいう文章なのだ。文章は結局、どこに流れ着くのかわからない。ニューロンの働きを書き表しているに過ぎないのだ。脳みそにはあらゆる箇所がありそれぞれ別の仕事をしている。相手の感情を読み取ったり、目の前にある光や耳に聞こえる音を感じる仕事だ。他にも数々ある。間違いを恐れて物が言えないようでは、息苦しい。ちっとも前に進まない。下痢のような文章が巷に繁茂している。もしかしたら、そうかもしれないだとか、そうじゃないかもしれないだとか、そういう文章は、のらりくらりしていてうなぎのように手から滑り落ち読み終わった後何も残らない。小林秀雄は、神秘主義者だと言ってみたところで始まらない。世の人が神秘だというものを、小林は実態だとみたのだ。言葉はものであるということ林の信念があれば、世の人は言葉は実体を持たないただの記号にすぎないとしているのだ。

 根本的に私的な言語活動を展開するのは、相手を説得する上で全く優位に働かないが、私的言語活動なしに一体今を乗り越える力の芽生える箇所があるだろうか。あらゆる想像は、ある個人の孤独な営みから始まりそれに共感したものたちの爆発的な数の人たちの呑気な付和雷同で成り立っているのだ。今日の文化と呼ばれるとき頭に浮かぶ表現は、それは必ず昔は避けられていたものだ。そして、ある事実につまずく。あらゆる予想は、何ら説得力を持たなければ不毛になる。現実世界が幻想だとしても、これに耐えられる場合人間は非常な苦痛な状況の中に身を置いていると考えられる。私自身を説得できなければ決して他人を説得することはできない。自分で自分をいかに騙すのかが私の文章における展開において重要な動機と役割を担っている。全く人間は、というときあたかも私は自分が人間でないように話す。人間でない私は一体何もいのであるのかを問わず、現在人間的なとされている事柄の外から人間を考えると人間の可能性が広がる。俯瞰してみることで、伝統的なものの見方を脱することができる。いわゆる、伝統舞踊も、歌舞伎も、全くもって文化それ自体として成り立つかのようだが、歌舞伎の役者が内面をブログに披瀝するような時代に、歌舞伎の稽古をしている最中に思いを馳せたり、彼の中心的な活動である歌舞伎をいかに演じるかが彼の心を表すにもかかわらず、ブログに心境報告は全く必要のない無駄な機会である。余計なことをして女子供はたわいもなく喜ぶであろうが、男は決して喜ばない。もてもしない、勇気もない女が、同じライバルである女を出し抜き、勝つために、強い男を盾にするようなものだ。

 以上の文章は、全くの無駄である。金にもならない。しかし、生きていくためにどうしても必要な行為だ。創造的な世界を自己の内面に豊富に実らせるための行為だ。決して客観的な文章を書こうと努める必要はない。本人が客観的だと信じている文章ほど、全くの主観的な文章であるからだ。ある人が車に衝突して、痛みを覚えたとき、診断書をもらって内臓破裂と書かれてあるからと言って、それを聞いた人間の内臓は破裂しないのだ。全身が震えるほど痛み。死んだほうがマシだと思われたと書いたほうが内臓は破裂するのだ。同じ客観的な状況においても、人間各個人の置かれている環境は全く違っている。特に、精神的な傾向は個人によって違うので、物事を捉える見方も角度も度合いも違ってくる。人間は恐ろしく主観的だ。常に、絆を求める。人間的な絆のもたらすのは主観の抹消だ。燃え尽きることなく、積み重ねられていき、忘却とともに塵となって風に吹き飛ばされる。仏教は、その無常を解いた。神道は、塵を燃やして炎を尊んだ。キリストは、塵を分け与えてやれという。イスラムにおいては塵は塵である。ディレッタントであっても構わない。自覚があれば人間は常にディレッタントであるべきだ。自覚もなしに、知識を公認のごとく扱い捉える人間こそ唾棄されるべきだ。彼らは、人の考えを盗み自ら考えを熟成させることなく、飴玉ばかり製造し、子供年寄り女に食わせて、虫歯、入れ歯、糖尿病にしてしまう。全く、毒の抜かれた飴玉ほどまずいものはないのだが。

 実に文章を書くのは虚しい。第一に、誰の反応も返ってこないのだ。しかし、感想や反論をもらったところで、それに反論するしか能がないので、自分自身を否定したり肯定する運動を文章に取り入れ自らもそう行動するのが、他人の世話にもならずに文章を勢いよく進める豊作であろうに、近頃は一面的な情報への反応として自らの思考が自らを新境地に向かわせないので、他人に期待し天災に期待し、天変地異を必要とするような人間に成り下がってしまっているようだ。人間は本来孤独であると書いたとき、その自覚がどの程度なのか計り知れないが、孤独なる人間が他者と絆を持とうとするとき、自己を否定し新たな境地から文章を書いてみたというただそれだけのために、決して友人がいるから寂しくないのではなく、寂しくなっても大丈夫であるという安心感が芽生え、人間を一層堕落させる。友人の数はそれだけ人間を堕落させる。自分が変わる必要もなく、知識を得る必要もない、金と友人さあれば頭はぼけていても知識は誰かのを拝借すればいいのだ。発見することがないのは、考える必要性が本能的に刺激されるような追い詰められた箇所にないからだ。自分は全く弱さを利用して文章を書き、虫歯を埋めるように治療するので、恐怖とはほとんど無縁である。現代の人間が死を忘却しているのか、死を望んでいるので死を恐れなくなったのか私にはわからないが、死を動機に生を肯定するまでに、生を身近に感じたくはないのだ。生の隣には死が必ず居座っている。幸福になれば、死を恐れる。つまり、誰も幸福など掴みたくないのだ。幸福になっても、自分は死を恐れることがないであろう、何故ならば、生には十分に飽きている、また、幸福は別の形をして現れ不幸な境遇を幸福と捉えることも解釈できるのだ、一般的な観念の説得力ある文章を持っているわけではないが、それに賛同するかしないかという判断に迫られ、日本人ならば必ず、周囲を見渡し自分を滅して周りに合わせる。それは弱さからくる恐れの滅し方であるし、勇気を使わずし勇気あるように見せる豊作でもある。本質的にいい人であるというのは、形式的にもそうであるように。本質は、形式に劣るのである。ただ、本質は、常に純粋である。一番信じられるのは純粋であるが、求めているの形式なのだ。何故ならば、形式は顔である。顔が悪ければ、そもそも近寄りもしない。人間の顔をしていないのなら尚更だ。まず、入り口に立ち通路を保つために形式は役に立つが、その先は続かないであろう。続けるためには、本質が必要である。本質は、量であり、形式は、質である。いくら、質の良いイクラを食べても一つだけじゃ寿司にもならない、丼にもならない。

 

知識を役に立たせようというせこい算段があるから、私は知識をちっともありがたいとは思わないで、それを嫌っているのだし、食べるくらいなら死んでしまえとさえ思っていうr。知識を役に立てている時の人間の顔が嫌いだ。神妙であったり、得意満面であったり、どうして笑顔が大事だとかいうのだろう。ときには、笑顔はあまりにも病的な精神を持った人間たちにとっては優しい顔になるだろうが、私はそこまで病的でもないので、深刻な病のフリさえしなくては、笑顔をまともにみることさえできないくらいである。誰が悪いと人のせいにばかりするのは自分が苦しいのであるのは自分は変えられるけれどもm人を変えるのは一苦労するからだ。わざわざ面倒なことを自分から作り出して首を突っ込んでいくような関わり方は骨が折れるし疲れるので、嘘ばかりつくようになり結局自分がなんなのかよくわからずに死んでいくことになってしまう。とにもかくにもあまり問題を考えないことだ。脳みそが楽しいと思える方向に行くべきであるけれども、それはひょっとすると世間からずれてしまい自分が世間から何らかの批判を浴びるに至ることになるのは考えられる事態であるが、世間はそれほどに何も考えずにぼーっとしているの自分がそれに合わせなくてはいけないという辛さと世間に合わせなければ自分の生存を危機にさらすと考えられることから、臆病芯がそこにはあるだけで、まったくもって尊敬に値する心持ちがあるわけでもないのだ。一体この国ノン限は欧米からやってきた習慣をすぐに取り入れてその先を考え改善していくのに盲目的である。全く自分がどういった人間であるのかというのを気にしないのであるし、出てきた料理に文句をつけながら美味しい料理に変えていくことはできても、料理を新しく作ることはできないのだ。と、とりとめのないことを書いているがどうして自分はこうもつまらないことを書いているのだろう。世間がどうあろうと私はちっとも関係ないのだと口で入ってみるものの、潜在的にどこかみえないところで自分が知らないうちに世間と手を組んでいるのかもしれない。世間はそもそも私の心の中にあるのだから、何も外面というけれども、そういう人間こそ家の外ではあほみたいないい顔しているのに家に帰れば別人に返信する馬鹿野郎ではないか。ちっとも世間が身についていないし、世間を外にあるものだとかばかり決めつけて、家の中には世間はないと思っている。精神は自分にくっついてくるのであるし、精神が世間を甘受するわけだから、常に世間を見に感じているのだから家にいても心の安らぐ時はないのであるし、外に出て行って何か世間らしきものを目にすると鬱屈した気持ちになるのも、自分の心の中にある汚物が目の前に視覚的に強い刺激を伴って現出するので、嘔吐を催すといった程度の具合であろう。ちっとも自分はおかしくないと決めてかかっている人間は自分がおかしいだとかおかしくないだとかも思わないのであろう。それで構わないとたかをくくっていられるうちはいいがそのうちに嘘ばかりついて、思ってもいないことを口にしてしまうようになる。それよりかは断然に沈黙していたほうが気持ちもさっぱりしていていいのではないかと思われる。全く自分の心を掴んでいないから、すぐに人に当たり散らしたり怒ったりするのである。一体どうでもいいことばかり書いて、何になるのであろうかと考えることすらどうでもいいじゃないか。何が必要で不要なのかを考えることほどあほらしい時間の過ごし方もないではないか。必要だと思わせることだけが目的であり、本当は必要なのか不要なのかの議論は全く不要であるのは、私の考えであるけれども、という時の安全保障をしてくれるのは誰であろうか。

世界はクソ記事でできている

そうだね、君がそういうところにいるんだからね

どこにいるのか、君の好きな人、そんな人いないんじゃないの

どうしたらいいの、と問いかけても、何をどうしたいの

欲求がない、期待しちゃダメダメダメ

楽に生きよう、力は、力を抜いたときに現れるんだよ。

わかるかいわかるかい。

思考空間

感覚に言葉を宿すのだ、と思い込んでいる。あまりに時代の空気を読みすぐると息苦しい。どうすれば、この架空世界から離れることができるだろう。君が、世界だと言っているのは、君の思い込みに支えられている。その人柱に僕は使われているんだ。君が偉いというときに、偉くない人がいる。金持ちも、美人も、ルサンチマンも。言葉にするのすら誤っているように思われる、自由。このふた文字に、”自由”が詰まっているとも思われない。どうすればいいのか、知らないけれどね。知らないと言って、何にもしないんじゃしんでいるのと一緒じゃん。死んでいたいのかいと、問いかけた時、うんと頷いてしまう。それって大丈夫なの?この辺で、あきらめるのが普通だ。どうすればいいのか。今の時代。金があれば、元気だ。そりゃそうだ。奪い合って、騙し合って、汚い汚いこの時代に、何が求められているのかと考える思考こそ、不自由だ。今の時代に、自由となるのは、拘束された人たちだ。彼らにとって自由とは、単なる休息を意味する。自由が休息と同意義で、悩むことがない。どうすればいいのか。怒りだとか、感情が芽生えてこないのだ。嬉しいは、感情ではなく展望である。ただ、怒りのみが感情ではないだろうか。形容詞が決して感情ではないようなのだ。言葉の分類に、思考は分類されるべきだろうか。もはや、相互のやり取りが不可能になる。しかし、幻想の言語空間で何を営むのか。噓いつわりを述べて、相手を喜ばせ欲望を植え付け目覚ませて、疲れ果てさせる。一時的な元気のために、それも刹那的な、のために飲むレッドブルとどう違うのだろう。そのあとにくる疲労感、肉体労働の後の充足感は君が生きてる。名誉も、クソもない。てめえはそういう労働がお似合いだってことだ。それさえ、どうでもいいことだ。白い砂浜に打ち寄せる波の夏の日、白い雲浮かぶ空に飛んでいく真っ赤な凧。誰も見ていないところで、私は半袖になって海に入って気がつけば、どこへ行くのだろう。そうだよね。解釈だよ。君がこの文章を読むだろう。そして、意味不明だと嘆き、バカにする。それが君自身なのさ。全ては君を映し出す鏡でしかないのだ。自然が生き生きとしていた頃、君と僕は自然からかけ離れたところに生きていたんだ。善悪の判断を捨てるのは非常に難しい、何故ならば、あまりにも簡単に物事を判断する手段だからだ。常識に訴え、経験に訴え、そして、判断する。正しさよりも、単純なる容易さがそこにはある。そして、正しさは便宜上、そういうものとされる。ものが見えてこない、そういう気分になるしかない。どこにも白けた空間が開けている。砂つぶがある。太陽に反射してギラギラに光る。噛んで見れば音がする。葉の削れる音。喉の渇きに快感を覚え、死を前に歓喜する人間たちの最後の言葉が、素晴らしい言葉であるのか、罵詈雑言に終わるのか。現代の子供達は、あまりにも価値観を持ちすぎている。必要がなく、消費のために作られた商用の価値観だ。捨ててしまえ。友達も、知り合いも、みんなお金に見える時、君は正常なのだ。友達だからといってお金はカスな。友達ならお金を貸してくれなんて言わない。キリストがやってきたら言ってやれ、そういうお前が金を貸せばいい。消費者金融はキリストが代わりにやってくれるんだから。

「愛はいつも ずっとこの思いを胸に alive」

 白い雲から垣間見られる光が、海を照らす。そこには何もなかった。綺麗なものでもなかった。ただ、それを描きたいと思ったわけでもない。女の子の顔が僕の前にある。花を持っている。歌っている。白けた、冬の枯れ草広がる河川敷にゴルフボールがある。ゴルフなんて死んでもやらない。大嫌いだ。あの服装が大嫌いだ。金持ちだとも思わない。ステータスのためにやる遊戯としても最低の部類に入る。クソジジイの散歩でしかない。頑固者はいい。それこそうわつきものの拠り所。