アウトプット

相手の視点に立ってみよう

知識を役に立たせようというせこい算段があるから、私は知識をちっともありがたいとは思わないで、それを嫌っているのだし、食べるくらいなら死んでしまえとさえ思っていうr。知識を役に立てている時の人間の顔が嫌いだ。神妙であったり、得意満面であったり、どうして笑顔が大事だとかいうのだろう。ときには、笑顔はあまりにも病的な精神を持った人間たちにとっては優しい顔になるだろうが、私はそこまで病的でもないので、深刻な病のフリさえしなくては、笑顔をまともにみることさえできないくらいである。誰が悪いと人のせいにばかりするのは自分が苦しいのであるのは自分は変えられるけれどもm人を変えるのは一苦労するからだ。わざわざ面倒なことを自分から作り出して首を突っ込んでいくような関わり方は骨が折れるし疲れるので、嘘ばかりつくようになり結局自分がなんなのかよくわからずに死んでいくことになってしまう。とにもかくにもあまり問題を考えないことだ。脳みそが楽しいと思える方向に行くべきであるけれども、それはひょっとすると世間からずれてしまい自分が世間から何らかの批判を浴びるに至ることになるのは考えられる事態であるが、世間はそれほどに何も考えずにぼーっとしているの自分がそれに合わせなくてはいけないという辛さと世間に合わせなければ自分の生存を危機にさらすと考えられることから、臆病芯がそこにはあるだけで、まったくもって尊敬に値する心持ちがあるわけでもないのだ。一体この国ノン限は欧米からやってきた習慣をすぐに取り入れてその先を考え改善していくのに盲目的である。全く自分がどういった人間であるのかというのを気にしないのであるし、出てきた料理に文句をつけながら美味しい料理に変えていくことはできても、料理を新しく作ることはできないのだ。と、とりとめのないことを書いているがどうして自分はこうもつまらないことを書いているのだろう。世間がどうあろうと私はちっとも関係ないのだと口で入ってみるものの、潜在的にどこかみえないところで自分が知らないうちに世間と手を組んでいるのかもしれない。世間はそもそも私の心の中にあるのだから、何も外面というけれども、そういう人間こそ家の外ではあほみたいないい顔しているのに家に帰れば別人に返信する馬鹿野郎ではないか。ちっとも世間が身についていないし、世間を外にあるものだとかばかり決めつけて、家の中には世間はないと思っている。精神は自分にくっついてくるのであるし、精神が世間を甘受するわけだから、常に世間を見に感じているのだから家にいても心の安らぐ時はないのであるし、外に出て行って何か世間らしきものを目にすると鬱屈した気持ちになるのも、自分の心の中にある汚物が目の前に視覚的に強い刺激を伴って現出するので、嘔吐を催すといった程度の具合であろう。ちっとも自分はおかしくないと決めてかかっている人間は自分がおかしいだとかおかしくないだとかも思わないのであろう。それで構わないとたかをくくっていられるうちはいいがそのうちに嘘ばかりついて、思ってもいないことを口にしてしまうようになる。それよりかは断然に沈黙していたほうが気持ちもさっぱりしていていいのではないかと思われる。全く自分の心を掴んでいないから、すぐに人に当たり散らしたり怒ったりするのである。一体どうでもいいことばかり書いて、何になるのであろうかと考えることすらどうでもいいじゃないか。何が必要で不要なのかを考えることほどあほらしい時間の過ごし方もないではないか。必要だと思わせることだけが目的であり、本当は必要なのか不要なのかの議論は全く不要であるのは、私の考えであるけれども、という時の安全保障をしてくれるのは誰であろうか。