童貞をヤメたからといっても、木々は青々と茂っている。狙いすぎたタイトルにアディオス。

 彼女が仕事を辞めたらしい。僕は雇用情勢について知らないので、そんな僕のアドバイスをきいた彼女は馬鹿である。だから、わかれてやろうじゃないかという話になりそうなものだが、彼女が仕事を辞めれば次にどこで働くかという問が発せられる。東京にくればいいじゃないかと僕は強弁するしかない。行くか行かないか、決めるのは彼女であることに変わりはないのだが、あればければこれなしの因果関係的なし点でみれば、私なくして東京で働く選択肢はないらしいので、私の意見なりが彼女の職探しの場所をどこに決めるのかに際して大きな判断力を有しておりまた提供していることになるのであろうというか、なる。

 僕は感情の枯渇の時期をいかにして乗りこえたのかについてのツイッターを読み返す必要があるように感じられる。外に求めるより私の過去と話し合いをする必要がある。おおくの人たちは者を考えることをせずにテレビの10流コメンテーターの意見に権威を見出し自分の規範とする。このことに、何故不安や束縛を感じないのか私にはわからない。人にされて嫌なことはするな、と心しておればそのようなどこぞの会ったこともないまた書物も読んだことのない人間の意見なぞ重宝する必要があるであろうか。

 彼女が東京に来るからと行って僕の生活に大きな変化があるのかどうか、それはわからない。でも、元気に子どものようにはしゃぎ回るだけではつまらない。彼女とはゆっくり落ち着いてすごせる時間があればいいように思うのだ。 

 思い出してほしい、もう今の私は過去の私をなんとか復活させようと必死なのである。過去の私があまりにも自由すぎてあまりにも強かったから。あのときの私は、あらゆることを無視することができ、あらゆることに論理を見出し、また質問することができたのだ。今は、反対意見がちらついて自らの論の脆弱さに嘆かずには居られない。

 ニーチェは言った、乗りこえられない精神停滞した精神かわらない意見ばかり主張するのは死んだ思考であると。死んだ思考は安定を退屈をもたらす。生きた思考は不安と喜びを見出す。この形而上学的思考はあまり当てにはならない。生きた思考をしながらも、安定を安寧をもとめ、そして、それすら気にならなくなることだってあると私は言いたい。三島由紀夫はそんな人間の感情を小説にして表現した作家である。

 ものが書けなくなったり、言えなくなったりしたらどうすればいいのか?私はそれでも、言い続けることが大事であるしそれが唯一の道であると、その道はものを欠けるようになり、言えるようになる唯一の道であると自らの直感を拠り所にして主張する者であります。他人の気持ちなどわかりえません、また、相手の覇気により論理がぶっとぶこともしばしばある。政治の世界では論理より覇気になるのでしょう。そして、覇気の庇護のもと甘えの構造に取り組まれた人間のつまらない言動と貧困な発想力が自らの人生を形式的な人生にするのであります。それで構わないと思っている方とは、話す気にもならない。

 彼女が東京に来るのが悪いんだ、仕事だってあるかないかわからないのに、そんなに僕に会いたいのか。気持ち悪い。気持ち悪くてしょうがないよ。ぼくは一人でも十分楽しんでいるんだ。童貞はそんなことないっていうかもしれないけれど、奥さんを持ったおじさんたちをみてみればわかるだろう。往々にして、楽しそうにはみえないだろう。だからといって、他の女に走ることもしない。女ってのは本当につまらない存在である。話していてもつまらない。射精のときだけ女っていいな、っとおもうくらいだ。ま、疲れて頭の思考が鈍るときも女っていいなって思うのだろうけれども。僕には時間と体力があるから、女はやっぱりつまらないんだ。

 でも、それが愛への第一歩であると思うのだ。相手に楽しさを求めるのは愛ではないから。愛とは徹底的な供給であり、与えることだ。そして、愛することの楽しさ、そして、愛することの傲慢。

 うまくまとめることなんてできないけれど、それを放棄するのもなんだか情けない。言葉とは私のためにあるのか、共同体意地のためにあるのか。言葉を獲得した人間は、言葉を手段に意思疎通を行い幻想を作り出しそのぬくもりの中に安住しそれに満足する。言葉とは、味わうものである。

 私は徹底的に言葉に溺れていきたい。言葉に溺れて酩酊して、そして、気がついたらあの世で・・・あの世の先をみてみたい。