読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

 私は今水道管の中にいる。暗く淀んでいる。しかし、水がある。飲める水であればどんなによかったことか。世間は容赦なく自由を憎む。その自由がある手続き、世間から奪われたものであれば世間は許すというのに。運命から得られた自由を、世間は許さない。世間は運命を信じていない。つまりは、世間は自分自身をけなしている人達の集まりなのである。自己実現なんて、自己の同一性を保持する暴力的狂信なしでは果たし得ない。自己同一性。私の言葉を誰が聞こうか。誰も聴く事のない言葉を私は私の為に書かなければならない。しかし、孤独は余計に深まっていく。触れてはいけないものを触れ続けたところ、私は自由の風に体温を奪われている。体は芯から凍り付き、私の愛したものが私に刃を向け私はもはや反抗する事もせずに、愛したがために、または愛を貫き通すがために、私は死ぬのだ。そうする他に私の快活な人生ははじまらない。死んだところで私の人生がはじまるのだ。弁明はしない。死んだら私は人生に登場せぬではないか。たしかにそうだ。しかし、私は弁明する気がない。人生のなかで人は何度でも死ぬ事が出来るのだから。自己の同一性の喪失がわたしに死をもたらすのである。それにしても、私はどうやら私自身なぜこうして生きているのかわからない。分かろうとも思わない。世界がどうなろうと、私の知った事ではない。世界がどうであろうと、私は批判しか言わない。勝手に世界は語りだし、勝手に寄り添ってくるし勝手に離れていく。世間をどうにかしようというのではない、世間はどうにかなるのだ。それは人の手によって。しかし、そこには意志があるわけでもないのだ。いや、私はそう思いたいのだ。意志の力を信じたくはない。もし、私は意志の力を信じれば私は死ぬ事を意志することで本当に実現しかねない。それもまた嘘である。私は死にたくはないのだ。かといって、濁った川の中で生活したくもないのだ。私はもう、貴方達にあう事もないのだ。私は恵まれても致し孤独に凍り付いた。それを23歳にして酸いも甘いも経験してしまった。私のこういったおごりがもたらすのは、偉そうな態度である。私の独り語りをきくことで、打ちのめされる人がいる。恋人家族である。友だちはそれを受け入れてくれるだろう。しかし、今私には友だちさえわずらわしいのだ。すべての存在が私を蔑視してくる。私は無視をきめこんでいた。盗み見る事が私には苦痛であるしまた、人間観察はもっとも忌むべき好意である。人間を観察するにしても、限界があるという言い方じゃ到底ものたりない、そこに自分を見出して疲れるのだ。私は私について話す時決して楽ではないけれど、ある一つの心地よい疲れを頭に感じる事があり。またその心地よさは私の人生を豊かにするものでもあるのだ。私は私自身の打たれ弱さから来るがんばりを知っているし、また、その優しさもしっている。役に立たせようとする打算も知っている。私の言う通りに世界が動くわけではない。なら、自分が動けという人がいる。しかし、私の言う通りの世界は私が動いたくらいでどうにかなるほど小さな変化ではないのだ。もしかしたら、私は世界に変化などもとめてはいないのだ。私の知らないうちに変化する事が許せないのである。変化する事に私は同意するとしてもだ。自己を俯瞰してみる目は超自我の為せる妙技であるのかもしれない。あまりに私は私の自我と付き合う事に疲れ果てた。このまま付き合っていれば、私は自我の食い物にされ殺人を私に執行する事ばかり考えるだろう。私というとき、果たして何人の私がいるのか。精神分析が幸福よりも先にある静謐に通じている事が私には直覚できる。幸福など誰も求めないのだ。幸福は日本人が得る事の出来るものではない。もし、幸福を得たいのなら英語圏で生きる事だ。弁明すれば、私は英語が好きだ。あの簡潔な論理が好きだ。どんなに力強い翻訳がふされるであろう英文も、アルファベットでかかれれば颯爽としている。私にはまだまだわからないことがたくさんある。わからないままでいることに私は納得がいかない。分かっていなくても、それを教えてくれる人がいれば私は喜んで話をきくだろう。私が教える事になったとしたらどうだ、私の思考を披瀝することが教える事だというのなら、私の書いているこの文章はけっして教わった事をただ書いているというわけではなさそうである。今この瞬間に教えているのである。誰に?私にである。私は二人いる。一人は、感じる私。もう一人は、制する私。私は私というときに、果たしてどちらの言葉であるのか、それを私はいちいち書く事はしない。対話形式であるのなら用意に記名する事もできようが。

 対流した精神の沈殿物が異様な臭気を放って私の精神の立ちこめている。私はその臭いを消す為にバイクで走る。腐ったような臭いが私の体から立ちこめる事に私は許されない気になる。もう私は、生きられない。もうこれ以上に、私は生きられないのであります。会話のない家庭。世間の不幸はここにあります。会話のない家庭を理想とする人間は、会話のある家庭をも知るべきなのです。あまりに私は人が良すぎました。また、あまりに私は運命を喜んで迎えてしまいました。努力も何もかも、私は一切を捨て去って死んでしまいたいのです。もし、私に再び春が来ても私はそれを既視感をもってそれを出迎えるのでしょう。そして、訪れる冬に絶望するのでしょう。みなさんの精神を私は知らない。私は精神とよんでいるものが精神ではないのかもしれない。名付けれた対象が、私と貴方とでは違うかもしれない。何が起こるのか。私の問題の根幹はそこにあるのです。どうにかして、私は相手の名札の正体をみやぶりたいのです。なぜならば、それが大人のする事ですし、また子どもである私は生きる為に何一つ明示されずにただひたすら読み解く事を強いられる教育なり育ち方をしたせいでもあるのです。世間に拘泥する人をみると私は彼らが不幸でなりません。彼らの生きたいように生きる事が出来ないがために不満たらたらで以来来している人達、屈折している人達をみるのが私には耐えられません。それは、私もまた同じような人間であるけれどもそれをおさえているからでありましょうし、また、私とは異質な人達であるから私には我慢がならないのでしょう。ここに私の不幸をひとつ書いて終わりにしましょう。それは、相手を私のものにしたいがために私自身が利用される事になるということです。相手は見抜いています。それを知らなければなりません。いえ、知らなくてもいいのです。転がされるがままに転がされて、死んでしまえばいいのです。死んでしまえば私は考える事もない、不安もなければ幸福もない。あまいお菓子もなければまずい飯もない。一体私は何を言っているのでしょう。死んだ後の事さえどうだっていいじゃありませんか。死んだ後にまだ望むものがあるというのか。無。それを望むというのか。望むとはあるものを望むだけではないのだ。つまりは、形なのである。死んだらどうなるかなんて、それ自体どうでもいいじゃないか。つまりは、死は確かに身近である確実に起こりうることなのだけれども、先延ばしにされている。お好きならば手前に持ってくる事だって出来るのだ。死と社会的制度の一つの幸せの空虚な形でもあり実体でもある結婚生活と同じ事だ。死を望む人は、小さなものに喜びを感じられない人達なのだ。それは不幸である。機微に通じない人達は、刺激をもとめて彷徨いあるく。ついには、自己に刺激をもとめもする。死である。

 同級生としか仲良く出来ない人間は不幸である。彼らの幸福そうな顔も家に帰れば別人のようになるのだろう。私は決して同窓会に駆けつける人間をおめでたい馬鹿だとは思わない。悪い酒に酔っぱらって、素面に耐えきれない不幸な人物である。助ける人もいないのだろう。私はもう疲れた。彼らの思い出話に、また彼らの話すスタイルの退屈に。