記事を書く方針を書くから読んどけ

 私の文章の傾向としてどうしても大文字の他者をつなぎ合わせて自己を発露させる事ができないでいた。それは、私がそうしたくないからでありそうする事で私はどこか自己が死んでいくのをみたのである。私は自分が死にたい衝動に駆られても自分が死ねないのを良く知っているから、死にたいのにも死ねないこの心の葛藤が私を苦しませるのだとわかっていながあら、両方をやめられないのだ。一つは死にたいと考える事を置換して力にかえ享楽に身を預ける事で必然と訪れる死と、生きている健康な肉体を自ら傷つけるというもったいないしまたあまりにも矛盾に孕んだ行為を行う苦痛と先の見えなささ。

 しかし、大事なのは自分が何も知らないという事であるし、相手に反論するときは相手の論証の前提にたち、その前提から反対の結論を導きだす事なのだ。後者はソクラテスの産婆術と呼ばれるものであるが、論理的必然性を伴う人間生活において私はどうしても自分の経験や体験を味わう一人の人間となって空を羽ばたきたいのだ。そして、撃ち落とされて地上に激突しその肉体が砕けちり私の喜びにあふれた未来への希望もついえてしまう。そんな人生を夢見るわけじゃない。欲している訳でもない。そんないいわけをしているうちに、私はどうもそうじゃない気がしてくる。本当は盲うんざりして死にたいくらいの気持ちなのに死なないで私は生きている。これは苦痛である清水からの弱さを認める事になる。自らの生を何かの為という目的とともに生きていかなくちゃ私は死ぬ事も出来なければ生きる事も楽しくない為に、必然と死んだような人間になってしまいかねない。私のこの乱雑な文章に終止符を打つのはタバコである。つまりは、今君がタバコを吸っている人間はうんぬんと語りはじめたときに、君は物の虜となり物に隷従する事になるのだ。それを私は苦痛と呼ぶのだ。フェラーリが嫌われるのは、其れを所有したい気持ちをもっている人間が上手く諦める手いる事をさらにもう一度諦めろと強いるところに或る。自由が疎まれるのも、もどれない過去にもどりたい衝動に駆らせるからであるし、また、自由を観て自分の拘束をみるからである。何が言いたいのかと君はいうだろう。たいていの人は理解できない事には何がいいいたいのか、つまりもっとわかりやすいようにいえという。それを敷衍すれば変な事をいうなという意味である。変な事なのだ。事実。変じゃない事は総じてつまらない事を知って自らも変な事を欲しているにもかかわらず、変な事を言うなというのは、ここからが恐ろしい事実である。それは、自らが変な事ができないでいる真面目な人間であるという認定を相手の不真面目さにみて安堵するからなのだ。真面目である事が喜ばれるのは搾取する会社の社長であるし、また命令される側であろう。真面目な人間というのは過不足がない為に非ぬ事をしでかす心配がないと思われている。しかし、それこそ真面目さの中に人を閉じ込める卑劣な行為であると私は言う。どうやら話が乱雑になってきた。つまりは、思いつきで書く文章こそが至高である私物切れの文章は糞だってことだ。