アウトプット

相手の視点に立ってみよう

ソクラテス

 彼が恐れたのは言論が不自由になることで、人々から議論がなくなり慣習の奴隷に喜んで陥っていくことを戒めたのだろう。習慣には冒険がないから失敗もない。失敗も出来ないような堅苦しい社会を生きていることが、また、失敗を笑い飛ばせるような雰囲気じゃないところがこの日本の生きづらさにあるのだろう。俺は失敗の塊だから、親も選択して失敗してきた人間だから、両親ともに共働きだなんてそんなことはどうでもいい、人間個人の問題に社会的な事柄が関わり当人の性格を形成することを私は否定はしないけれどそんなものを剥ぎ取ってもらわなくちゃならないんだよ。そうでなくって、どうして人間でいられるんだ。芸術のないところに人間はいない。人間は仕事人間ソフトウェアのプログラミングに気兼ねしていきるだなんて不思議な話だ。必要なものはたいていが儀式で、ハンコだってそうだ。仕事ゲヘルかと思いきや増えて労働時間も長くなるという不幸を現代人はどう思っているのか。日本人は仕事が大好きだし生き甲斐だから、欧米で生まれたパソコンと言うものが、決まった仕事をさっさと終わらせる為にあるとしたら、金泥棒のエコノミックアニマルjapaneseは、もっと多量に仕事をこなせる道具として扱うことになった。おもしろいじゃないか。さっきの糞記事よりも深い洞察がここにあるんじゃないか。しかし、そんなこと誇示したってしょうがないだろ。分析なりは結局は誰も分析していないんだよ。あってもない人に着いて悩んで、同一視して、まるで私がそこにいるようにテレビの奥で活躍しているように感じるんだろう。活躍していないまでも、糾弾されているように感じるのだろう。だから、俺はテレビなんてみない。あんなものみない。テレビの他に話題がない人間なんていかにもつまらない人間に決まっているんだ。嫌なものをみないでつまらない嘘偽りを魅せられるんだよ、視聴者は。まあ、視聴者は置いといてバカは置いといて分かりやすい心理学とかいう統計の中で処理されて機械的に生きればいい。人間として生きる苦しみを免れた人間が社会システムなり慣習と折り合って生きるこの世界が、クールだって言うんだからおかしい。感情もない、明晰もない、ただ、習慣があるだけ。セルスイッチを押せばバイクのエンジンがかかるように。