あまりある人生において

 人生について考えるときに人は生きてはいないということを自覚してみたところで、やはり人生という言葉を吐かずにはいられない。このままでいいのか、そうでないのか。その疑問がわいてくる理由は明らかであるからして、ひとつは別の道を歩むことか、もしくは、今を新しく解釈し直すことのほかにない。私の人生はどうしても一人占めしたいという独占欲の塊から物事を把握しているから、物事が私にあって進まないと気が済まないのである。この感覚を私は良くないとは思わないが、その結果としておかれる環境と戦うハメになることに疲れてもいるのだ。いったい私は彼女の人生のある時期に存在して都合のいいときに思い出される人になるのだろうかと考えると、とてもつらい。それだけで死んでしまっても構わない。死が、彼女への復讐であるように彼女は捉えるであろう。私の動機に彼女への訴えがないといったら嘘になる。実際にあることからして、私の死が彼女へ与えるのはただ、私の情念であったそれは憎しみや恨みだと彼女はおもわずにはいられないだろう。だから、わたしは死んではならないのだ。しかし、どうしても死ぬときには、彼女に黙って死ななくてならない。彼女が葬式に来ても、彼女は幸せではないからだ。僕が彼女の幸せを願いまたそれを至高のものであると考える動機がどこからきたのかを言うこともそう難しいことではない。案外単純な動機で、彼女を愛することで何かを忘れることができるのだ。また、わたしにわいてくるエネルギーは恋からくるもので、その爆発力をわたしは芸術作品に昇華して一人楽しんでいるのだ。
 わたしには、ゆったりとした人付き合いのなか生きる素朴な喜びを持てないでいる。なぜだろうと考えてみれば、一人で遊ぶことの方が気楽であるからなのだ。とかく、他人と交わるとわたしは他人なしで時間を楽しむことのできない人になってしまうことがあまりにも耐えきれないのだ。一人っ子の家で過ごした時間の孤独を、もし、他人との交わりなしに喜びを見出せないとしたら地獄のように退屈な時間であったろう。家へ帰ればテレビをみるしかない。テレビを鵜呑みにするしかない。かくして、一人っ子は言葉をそのままに捉えるからして、他者の言葉の裏に隠された事実を捉えることをしない。それを覚えるのは、家族からではなく他者からの痛みを伴ってである。そうであるから、わたしは彼女の生きた人生はやはりとてもいいものであると思うのだ。それをもう一度彼女が味わおうと欲したなら、恐らくはとてつもない孤独感に陥ると思うのだ。なぜなら、さんざん人々の間で生きてきたので、自分一人で喜ぶことができないでいるからなのだ。彼女は僕の一人で時間を楽しむところに、彼女とは異質なものをもっている存在として、僕をみているのかもしれない。僕はそれを商売道具にしている感じもある。好きなのか好きではないのかというのは、楽しいかそうでないかということなのだ。このままで行くと、わたしは他者に欲望を与える存在から降格して、他者に欲望を与えられる受け身のミイラになってしまいかねない。それが僕の恐れることである。なぜならば、不自由であるからだ。自分で味わえない人にはなりたくない。ただ、彼女がそうであるからわたしは二重に苦労している感じはある。とはいっても、彼女はわりと一人の生活を楽しんでもいる。実に不思議だ。そして、やっぱり彼女は素晴らしい。