そんなことはおそらくは無理なのである

 僕の行き方を賛美してくれる人がいれば私の精神は鈍になってしまうだろう。その一人の人のために私はおそらくは私自身で生きていくことへの自立という道を放棄してしまうだろう。その人なしに生きられない依存が私をさらに不自由にさせていくのであろうから。依存とはその人の一喜一憂に私も一喜一憂させられるという現象であり、その感情が発露する過程で、当然に私が発露するべき感情が抑圧されるということにある。とかく、女性は理性を持って良すぎるのである。そして、男は持っていないから感情というものを発露することもないのだ。男の存在を理性だと思っているのが女である。彼らの暗黙の了解である暴力において女は決して男には勝てないという恐怖が、男に対する賛美となるのであろう。だから、暴力というのはそれを所有する人を確かに賛美もするのだ。女性が見ている世界は実に、男のようなプライドの世界ではないのかもしれない。そうであってほしいと願うのが、また、男である。そんな男はすぐに暴力に訴えることであろう。なぜならば、プライドを女に理解されたらいかに自分が価値のない人間であるかが理解されるからだ。かっこいい男を好きになるのか、優しい男を好きになるのかは知れない。かっこよくて優しい男というのはいい男であるし、どちらかに軍配をあげようとするのは無理であるから、いい男はすべからくもてるのだ。どうでもいいkとばかりいっている。自分が幸せになるためには一人でもまた十分である。問題は、エネルギーの賛美である。力の賛美である。恋愛にはエネルギーの賛美がある。鈍な事故の退屈な時間を過ごすことを拒否すること、生命の賛美よりも行動の賛美を優先させるところに重きをおくことがエネルギーの賛美になるのだ。私が今できることは他者の言葉になりきることである。自己は私が放っておいても喋り出すであろうし。他者になりきってみるにしても、私が手をつけられる他者というのは労働者くらいである。芸術家のみ私の言葉で捉えられる芸術家はおそらくはどんな人間であろう。私であろう。私は芸術家である。なんの支持もそこにはいらないのである。何もいらない、誰も私を支持しなくていい。誰かの指示なしに私が生きられないのならば、私は私自身を殺したほうが自由に生きられる。すぐに殺すだとか死ぬだとかいうのも、おそらくは私が夢見る幸福な家庭という幻想がもたらす害毒であることもまた十分に知悉している一方で、私の将来の性癖である一つの理想を追い求めまたそれをはかしているかのように見える行動への賛美を私が私に強いることで私の一つの行き方になっていることになるのだろう。おそらくは、私は私に対する啓蒙よりも私の立場からものを言っていることを十分に認識することが必要なのであろう。私は私を批判する人間を的だと思いがちであるし、またそのように思い相手に言葉を返すことで自分の立場が明瞭になるということにつながるのだから、明瞭に語るためには立場が語らせるところの自分が何であるかを知り、そこを批判しなくちゃならない。批判精神はいずれ、世間の人々のなかに理解してくれる人を見つけるだろう。誰にでも理解できるような批判こそ、すばらしい。誰にでも理解できるようなことを、では、私が言わなくちゃならないのかと考えると、そんな面倒なことはできるならば他の人に言ってもらって自分は自分のことに関わって他人にもできるようなことはしたくないと考える。

 おそらく彼女の友人は彼女と付き合っている私にあまりいい言葉を投げかけはしないだろう。彼女もおそらくはお世辞でもいいから何かいい言葉を待っていたのだろう。実際に人間はお世辞でも褒められたほうが相手を気にしないで済むものだ。相手を何かひきつけたかったらお世辞よりも、相手と関係している人間を批判することでしかないのだろう。ひきつけたい感情の奥にあるのは、相手に対する変わらないでいてほしいという拘束であろう。依存すればするほどに、それ以上相手が変わってしまえば私はもう依存できなくなってしまうということになる。依存できなくなってしまった私は心にぽっかり穴が開いたように、また一から始めることに疲れを見出すであろう。一体人間の疲れを心理的に洞察したからと言って何になるというのか私には知れたことではないのだけれども、彼女とはこういう話でたまに互いに納得し合うことがあるのだから彼女もなかなかな人間である。無理に言葉をひねり出そうとするから思ってもいないことを言わなくちゃいけないことになり、その点を見破られもするのだ。私の育った環境について私はいくらでも文句を言うことができるけれども、その文句は人に聞いてもらうだけの形をしていないのもまた確かなのである。どんな人も不満があることをただ口にしていないのだから、私がそれに与することはないとうことだ。汚いものばかり見ていては疲れることと何ら変わりない、自分とばかり付き合っていたら、自分はおそらくはかわっていってしまうのだろう。そんなこともわからないわけじゃない。わからないわけじゃないけれども、経験したことがあまりなくそれを経験の感動から冷静に文字にすることが無理であることもまた事実なのである。冷静な感情は冷静な状況から生まれるものだ。

 私が最も嫌うの話、私自身に興味を抱くことである。それは、私に対して何か不自由を迫るものであるか、もしくは、私に言葉を吐かせる。その言葉は決して他者に受け入れられるものではない。それを知っているのならば、言えばいい思うだろうか、受け入れられないことを頭でわかることと、実際に受け入れられないのを目の当たりにするのとではえらい違いである。交通事故に遭って足を骨折するのと、それを想像するくらい違うと思ってもいい。私は骨折などしたくはない。骨折したい人間であるならとっくに天井から縄を下げて、わっかに首を突っ込んで、足は床から浮いているだろう。

 知行合一というのは、行動の後に言葉がこなくては決して成り立たない。言葉が先にあれば、決して知行合一で行動することはできないであろうから。なぜならば、このなぜならばも私には感覚的に理解できていることを文字で表現することであるから実に難しいのである。論証なんてものも、人間が皆同じような感情を持っているという前提にたっている。もっと言えば、そのような感情を前提にするという虚妄である。その虚妄のうちに人々は楽しく暮らしているのだと思えばそうでもない。私はそのような世間の人々の感情をまともにみてしまうバカな人間だと思うことがある。虚妄を信じているのだから弁護士になり何でも言えると思ったのであろう。おそらくはその虚妄を信じている人間は信じていない人間よりもずっとよくそれと接しているので、利用するにも巧みであるに違いない。なまじっか、力があるので、この万人の感情というものは、だから、説得されてもなんら悪い気はしないものである。