私、そこには孤独がある。断絶がある。他者を排除してまでも自らを立てなければならない衝動がある。その衝動の正当性を自らを証明しようと躍起になりもしよう。その矛盾に挑む煩わしさを捨て去り風の中髪をなびかせ遠目に海をながむる。

 私、と書く時、私は孤独で私は一人。私を支えるのは私で私を突き放すのも私。私が思う時、そこには他者も同じように共感してほしいという願いと、共感するに違いないという確信がある。確信は傲慢とさえもいえる。傲慢さとは責任となんら変りない。我一人舞台に立つ時客の拍手を信じる傲慢さであり、願いも混交しついに叶う。

 私の前に道があるわけではなし、私はただ広い野山を駆け巡り綺麗な花を見つけては喜ぶ。その花の寒空の下に過ごす晩を思い、ついに風に引きちぎられ空飛ぶを夢見るは悲しげ。

 私というとき、私は私以外の他者の現象から産まれる私をなんとなく感じる。私は他者との差異である。私とは何か。性格ではない。私とは何か。この執着。私は私を感じる方法を見出す。私が死んでいると零す者がいようとも私にどうすることもできぬ。できるとしてもお節介、ただ私が他者の願望を実現するほかない。私は他者の願望を実現させれば他者はそれを与えられたと自覚し私を欲するだろうか。私は皆のために死ねるか。死ねるとすれば、私はもう死んでいるのではないか。

 池田晶子、さて、死んだのはだれか。