厭世的

 人の世が嫌になる。人が大嫌いだ。電車の中で、ばあさんが、品は良さげだが、ドアの前に立ち他人の私に迫り近づいて臭い口から臭気を放つ。品はいいけど、体臭までは隠せない。ああ、そうして人は嘘に嘘を重ねて嘘を塗りたくり裸になれずいつまでもシャワーを浴び汗を流せず不快な気持ちを抱えて生きている。学校へ行けば聞いたような話ばかりでうんざりしてくるし、私は退屈まぎれにアホのようにメモを取るのだが、たまに頭にくる一言を発する奴がいて、そういう人間を見ると笑うしか手段がないのに今更ながら自己嫌悪に陥る。要因は複合的でその一言はきっかけであり原因としては一つに過ぎないのだろうけれどもも。今の私に元気ある文章はかけやしない。文章でハイになるほど元気が残っていないのだ。言葉に関して規制が私の心を押し付ける。心とは言葉に他ならない。言葉を持たぬものに幸福もなければ、不幸もまたないのである。みよ、街中を走るフェラーリを。見よ、街中を歩くスーツを。フェラーリの値段はわかるが、スーツの値段はわからない。幸福とは、値段の張るものを身につけること・・・一番わかりやすい一つの幸福の形であり、気持ちを値段に預けることで硬直化した心の持ち主にとってはその形でしか幸福はありえないのだろう。小さい頃の貧しさが、大きくなって感性に歪みを生じさせる。そう、今の大人は貧しかったのだろう。だから、私にはその卑屈が目について吐き気がする。嘔吐だ。もう酒は飲まない。酒を飲んだ次の日は気持ちが悪く活動する気にならないからだ。私に必要なのは十分な休息と、目的意識であろう。後者に関しては放棄している。目的意識など嘘でいくらでもその場で繕えるのだから安心すればいい。まして、実現のために周囲に目標を口に出して表明するバカもする気がない。立志式など、自白以外の何物でもない。アホは、親への感謝と狭い了見で将来の夢を同級生に披瀝して恥を晒す。百姓根性の純粋さからだろうか。私は一人になって、家族から断たれ死ぬ思いである。自ら死地に赴くこともなくしぬる思いでいきたいとも思わずに、連綿とくだらないことをして生きている。何か第三者の利益になるような行動をして社会参加をしなければ幸福という社会の果実によだれを垂らしてありつく体たらくに身を投じなければ、私は幸福になれないのだろうか。はたして幸福とは社会の果実なのだろうか。そう考える私はいったいなぜそう考えるのだろうか。人間の何十万年と培ってきた分厚い地層が意識されずに私にもたらすものよ。ああ、私はどうしてこうも自分なのだろう。自分なんて捨ててしまって早くあの世に行きたいのだ。あの世にいって自分なんて捨てて、つまり意識を立ちたいのだ。意識を絶ったとて死んだとは言えない。また別の世界があって次元をことにして意識が蘇るのかもしれない。今までは夢だと言わんばかりに。とすれば、いつまでたったも意識は続くではないか。あっちの世界でお線香あげているときに私は別の世界でセックスをしているのかもしれない。もう良い。このような社会はもう良い。遠慮して遠慮して遠慮して言いたいことを言えば、地雷を踏んだと足を吹き飛ばしても良いと、人々は考えているような。もう良い。