アウトプット

相手の視点に立ってみよう

最高の自分へ

 自分が惨めだと決めつけるのは偏見に他ならない。他人から見た自分を気にしていれば何もできない硬直状態になる。筋肉全体がこわばり動けなくなってしまうのだ。他者の目を機にする害について述べるの初めてである。どうして今まで書かなかったのだろうか。おそらくは啓発本のように安っぽい文章になってしまうから書きたくなかったのであろう。自分の書きたいことしか書かないから私には無理なことだ。そう、私は他者を気にしているという自分を認めたくない一心で黙殺していたのだ。稼ぎもなく女の家に住んで、親からの仕送りで生きている自分を社会は決して許さないだろう。私に干渉してきては隙が大有りと見えて私を蹂躙するのが目に見えるきがするのだ。実際にそのような人物に会ったこともないのに危惧感を抱いた私は私の一切を話すのを放棄することで、同じゴミは不良回収として私のところへ舞い戻ってくるのだ。受取人不在人すれば私も少しは楽なのだろうけれども。私自身がいなくなればいいという話かもしれない。細くも敗れ目も見えなくなれば、私は一級の社会障害者になって少しはその痛みの代償としてこの気楽でもない身分を気楽に感じられるかもしれない。私は自分自身を情けないとは思わない。なぜなら、と人は理由を述べたがるが私にはその述べるべき理由などないのだ。ただ、直感があるに過ぎない。小林秀雄も述べたように、好き嫌いは、知識をうわまり、孔子曰く「知るものは好むものに及ばず、好むものは喜ぶものに及ばず」といったところだ。孔子など現代に通じないと考える若者の固定観念といったら現代にまるで生きていないじゃないか。このバラバラになり個人個人が好きなように時間を消費できる世の中において現代は集団化するのが一つの目標になっている。己の魂と向き合わずに集団の中に埋没するのを願う。己の魂を意識すればいつだって自由を求め勝手悪あがきを始める。それを殺してしまえば無表情になり悪口はのさばり生きるのに充実は失われ灰色の朝を月呼びに迎えビールが瞳孔を開いて色鮮やかな世界が目に見える。私は瞑想を通じて世界を感じる。わからぬ因果関係を世間的な表現で言い表すのはしない。私を滅するあらゆる手段を講じるであろう。私が語るときエネルギーがあればいいのだけれど。自己言及は何も意味をなさない。不可能ごとだ。自己に何も存在しない。自己は単なる何者かの

自分が惨めだ

 惨めで仕方がない。感情よ、消え去ろうともしない。滞って、腐臭を放ち周囲の嫌われ者に我をのし上げる。一体どうすればいいのか。興味もない。どこへ行っても心は付いてくる。心を捨て去ってくれ。踊って踊って心を捨て去ろうじゃないか。役に立つか立たないかで物事を判断する人にブチ切れよう。だって、それは俺の考えでもあれば、君の考えでもある。ああ。タバコがちょっと吸いたいな。

嘔吐

 虚無になれば価値観を見出せずに雲をつかむように気も体も軽く生きていけるのだとすれば、なんと気持ちの良いことだろう。すべてを森羅万象と一括りにするほど私の目は荒くなっているのも確かなことだ。外にいる人たちはまさに、病人で、人身事故現場をカメラに抑えようと必死だ。なんと愚かなと言いたいところだが、人の好意に甲乙つけて自分の存在を云々したくはないのだからやめておこうじゃないか。不安だ。不安なのに動けない。誰も助けてくれ養い。気持ちをわかってくれるなどというつもりはない。私自身わかってあげられない気持ちをたくさんそこらじゅうに散らばっているのもわかっている。私がは垂らして彼女にバイクのを買ってあげれば彼女はとても喜ぶに違いないのに僕は今の生活に満足して中毒になり一向にバカになっていくばかりで、金回りも悪くなり生きているのが辛くなって今日の人身事故に舞い降りるわけであるけれども、一体全体生きるのが辛いと言って何を使用にもこうして文字を書き書を読んで批評することしかできないのだけれども、それも最高の楽しみであるのを誰かわかって欲しいと思わずにはいられないのだ。いろいろなものを見てきたけれども、それをみて感動することは無くなっていくときに人間は精子卵子にり受精した卵子が着床し子を宿した母体は福祉社会のベッドに横たわりあらゆる現代の最高度の楽園を手にするのだ。福祉福祉と言ってもしょうがない。私の存在について云々するのも馬鹿らしいのでやめようじゃないか。自家中毒になって自分を毒まみれにすることはない。自分の過去を一切責めないし僕は自分を忘れるように努めたのも確かじゃないか。大いなる虚無が僕を人が死んでいる踏切に向かわせたのだ。僕は傘を掲げ見ないようにした。ビニール傘でも少しは遮蔽になり私の心は両手で目を覆い隠していた。友人だったものたちの生き様を思い描くたびに自らの惨めさを思い知らされる。私はどうして皆と違う人生になってしまったのかという愚問に苦しめられ、回答もしばしば先送りをしているうちに行動を起こさない自らに全くもって希望を見出せずかといって、自暴自棄にもなれずに何事もなかったように今を生きているのに不思議であるというよりも恐怖とやりきれなさを感じないわけにはいかない。私の実家はお墓の中。決して、私の実家は二階建てではないのだ。いつか土に骨は帰り、筋肉は蒸発して君たちの肺に潜り込むのだ。魂があるとして、人間はそれをあまりに画一化して生きている。冷たい霙の降るくらい商店街を鶏肉求めて歩く自分は主婦にしてはできすぎている。誰もが僕の死を願ってくれさえすれば、僕は生きる気力も沸くのにね。

酒が飲みたい

 酒くさい人は嫌いだというが、辛気臭い顔した人間のほうがよほど嫌いなのは私だけではないはずだ。なるほど、酒以外の手段でハイになれというのか。もちろん、タバコは論外である。非常に難しい。仕事にやりがいを見出せというのか。クビになってもいいというのなら。やりがいのあることはことごとく待遇は悪いものさ。自分に言い訳して仕事しているに決まっている。何ら楽しくもなんともない。無の境地で仕事に打ち込む姿を恐ろしいとも思わなければ楽しそうであるように思えもしない。私はこうして無駄に時間を過ごしているのだろうか。無為自然とはよく言ったものだ。何もないのが一番良いのだ。それを断定するほどにつまらない人生だから困ったものである。そうだ。

私は現代人が嫌いだ

 彼ら現代人のものを考えず始終スマホをいじり倒す哀れな姿を見ると飽き飽きする。飽きもしないでオワコンコンテンツを一所懸命に夢中になって寝転んでまでいじっている姿を見てペニスをいじり射精感覚を味わうガキのようにみえる。私がおかしいのか。おかしいのか、おかしくないのかはそう大事なことか。ユーモアを忘れちゃいけないね。私のはユーモアではなくて気持ちの悪い比喩だと認めなくちゃならない。それで自分自身酔っ払って気持ち悪くなってるんだから、少しは代償を払ったつもりでいるが一体誰に払ってるっていうんだろうね。一体全体人間というのは常に動き回っていないと死んじまう生き物なのかもしれない。頭の活動だって、体は少しも動いていないけれども、ちょっとは死んじまうということかもしれないね。将棋なんて、棋士は一勝負で3キロほどやせてしまうそうだ。羽生善治曰く、集中しすぎてこのまま帰れなくなる気分になるらしい。困ったもんだ。そういえば奥さんは評判が悪い。伊良部の奥さんも評判が悪いね。いや、本当のワルだったね。羽生さんの老年期が心配だ。人の心配なんてするくらい楽なことはないね。自分の心配なんていくらでもできる。人の心配ってのは気持ちのいい悪いじゃなくて自分についての心配の気をそらすって効能がありそうだ。独断と偏見でものを言っちゃいけないって。そりゃ失礼しました。なにせ直感なんてものは一回性の出来事を大事に把握するのが必要ですからね。お話に科学性を持ち出しているのは、あなたですけれどね。人が話す内容がすべて科学に則っていなくちゃならんと考えていることにご自身で気づいていらっしゃるのか、どうでしょう。そうですね。話を変えましょう。私は何者でもないので、何者でもない話し方をしましょう。ユングなんて人が居まして、彼は性格を作り出した。人の言動のパターンと言いましょうか。人が人を生業として生きてる商売の傾向を見たのです。別段それ以外に性格の使いようなんてありません。性格は商売道具と言っても過言じゃありません。純粋であるとかないとかを論じている間は決して純粋になりえません。それがわからない!そんな奴がごまんといます。私は純粋に何かをしている、ってのは宣伝広告としては一定の効果がありますけれども、何か脅迫を感じますね。そう感じるように強制する言い方であります。なぜ私はものの言い方にうるさいのでしょうね。勝手に言わせておけばいいじゃないかという人間もいますよね。彼らは、おそらく相手の話なぞ聞く度量を持たないのです。それは構わないんです、なぜなら、例えば消化不良を起こす食べ物を食べようとはしないほうがいいのですから。しかし、私は消化不良を起こす食べ物でも一応は食べてしまうのです。それが、優しいからという理由でなしに、相手が私に話をしてくれるということが非常に嬉しいからです。好意を持っているのかそうでないのかというのとも違います。私は非常に孤独なのでしょう。孤独な老人生活を今私は送っている気がしてならない。誰でもいいから、そばにいてほしい。誰でもいい。貧乏生活も楽しもうと思えば楽しめる。ソクラテスの時代に、テレビもない時代に、ソクラテス彼自身は実に対話を楽しみ時には酒を飲み大いに語らって昼間は友人と遊び暮らしていたのですから。現代は古代ギリシャ時代よりも一層に暮らしづらいと言ってもいいでしょう。人々の言論はレジャーに消費されてしまい、真の楽しみを失っています。真の楽しみは決して大きなものではなく繊細なものです。パンとサーカスの楽しみは、なんら楽しくはないのです。集団できな楽しみは本当に楽しくないのです。今の人がわかりません。虚数にいると、友人にこぼしたことがあります。行く先は派遣でしょうか。親に言われました。親が子の未来を占ってどうする。子は、親と共に歩かねばならぬのに。この自由を保障する育児放棄をいかに肯定しようと躍起にもならないで、私は植物状態と成り果て文章を書く悦に浸りながら夕方を待つ主婦の憂鬱を毎日忘れる夜の楽しみを感じ取るのです。街がよそよそしく私に冷たい風を吹き付けます。ポケットに手を入れ歩く姿はなんと貧相この上ないでしょう。私は衣服を買い、髪を整え、バイク趣味にうつつをぬかさなくちゃいけません。私を見失う経験につきものな過眠に悩まされ、熱中するべきことに人の同意を求める間決して自由にもなれなければ同意も得られないのを承知するべきであります。いかに金の使い方を教えようとしても、その教えが正しいのかさえ疑問に伏せばいいのです。そうすれば必ずやってくるのが暴君です。とにかく命令に従わなくてはならない。苦痛です。テレビのタレントの名前をすべて忘れたいです。彼らの人生は私の人生とは無縁です。無縁であってほしいです。もう終わった人たちです。彼らは英英んと猿真似をしてテレビの前で間抜けヅラを晒している。今すぐテレビなんて腐った生ごみは捨てるべきです。ニュースなんて、低俗な連中がみるものです。案外悪といい奴は紙一重ですから。そうです。もうこの世の中の区別がつかないのです。死んでいるのに影響を与えている書物もあれば、生きた人間が書いたものでありながら、糞のように垂れ流されている文章もあり、そんな記事を読みながら時間を過ごし、不快な気持ちと半端な知識とも言えない情報の断片を信じ切って検証もせず、しかし、宗教は嫌いだと抜かすおおよそのゆとり世代のバカ達のゆとりのなさにこの国の将来なぞ考えもしないでしょう。国を代表するなんて真似はゆとりはしません。そんな疲れることをしなくてもいいじゃないの、と。それで結構です。誰かが代わりにするだけです。そしてそれに順応して、嫌なことでも、笑顔で対応し愚痴はネットに書き込んで不満タラタラの朝を迎えるんです。生きているとおおよそ言えるでしょうか。否、私同様生きる意味を変えたいのです。仕事をして疲れて家に帰りビールを飲む。部活を終え疲れて家に帰り飯を食って寝る。学校が教えるべきは、勉強の内容でもなかったようなのです。失望しますね。社会主義に教養のある人物はいないのでしょう。制度がなければ崩壊するような国なのです。人と人は嫌いあっているのが、この国です。否、ヨーロッパはどこもそうかもしれません。法の統治下にある限り、暴君を押さえつけもできるでしょう。権力の集中を。しかし、とりまきが法を自らのものだと言わんばかりに改変すれば暴君の誕生です。法律の改変などして粉飾をごまかして黒字黒字と口外し国債を買わせて貨幣の流通我田引水を始める、経済はまやかしです。一度夢から離れると山河あり。どうして、目の前の事象を愛せないのでしょうか。目の前の出来事を愛せずに、ステータスばかりで生きている。それは、決して粋に通じちゃいないのを知るべきです。粋ってのは、元気であることで、虚構の中にも虚構を作り出しそれが現実化したとしても虚構として生き抜くことです。すべてはまやかし、脈絡もなければ、矛盾さえ愛おしい。ハプニングバーで淫部を露出する女に、舌を引きずり出して愛液を舐める男の剃り残したヒゲが、チクチクと肌を傷つけ、家に帰るなり女はクリームを塗りそれに感じ入り手淫に耽る頃白ボケた朝の電車に黒づくめの眼光鋭い粗暴なる男が股間を膨らませて女に目配せし、姿勢よくカッコつけてホテルの予約を取り付けわけもなく愛もなくセックスにふけ、我が物顔で東京の夜景にワインを注ぎ込む野暮。

気の病

 俺は病気だぜ。将来性なんてないね。いらないだ。旅は軽いほうがいい。わけがわからない。アイドルが死ねば死んだアイドルで時間つぶしのテレビ番組。知りもしないのに知っているかのように話したがるコメンテーターの勉強不足。姑息に生きれば上出来と言わんばかりの啓発本。無表情に電車乗る一流のサラリーマンたちの余裕ない志。ものを買ってばっかりですぐに捨てるゴミ拾い。経済は貨幣の流れのように。誰かのもとへ流れていき、我田引水を図る。ああ、お金が全ての元凶と言わんばかりの論調に飽き飽きする私。お金の好き嫌いでなしにそういった考えに鬱々と、日々を過ごすストレスにアドレナリンさえ休憩して私の怒りは存在を消し去り人畜無害と成り果て何処に捨てられる。人に魂ありとすれば気が重くなり、生きるのも嫌になる。若者のゆとりのなさが目に余り、生き急ぎ手に入れ他人を蹴落とし誰とでも繋がり快楽にも飽き飽きすれば、全てが地獄。他人に委ねたツケが回ってくる。考えればいい。私の考えを誇示するために誰にも話さず否定を恐れて誰にも話さず。否定こそが唯一の非常口。行き詰まった際の否定は、突破口に違いなし。私の文章に脈略がないとすれば私は全人格をかけることはできないのはもちろん、その気もなければ、仕方もわからぬ。わからぬことをしているが金が入ってくるのが物書きのいいところで、わからぬものはわからぬと断定し、何処がどう分からず、わからぬなりにどう理解しているか書かねばならない。否定と非難を恐れてはならない。有頂天ほど気分の悪い場所はない。持ち上げられて今更、嬉しくもない。それが平静というもの。再来年には年号が変わるらしい。

ファッキンジャップだぜ

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