アウトプット

相手の視点に立ってみよう

車が飛ぶか?

 車が飛んだ。対向車線に走るバスに突っ込む。飛んだ車に乗っていた男性は死亡。嫌な事故だね。居眠りでもしたかな。62歳なら、年の功の居眠り運転、中央分離帯に備えられたちょっとした勾配の斜面をなぞって向こう側に行っちゃった。医者だったらしいが、せめて人を殺さなかったのが不幸中の幸いとまでは言わないけれども、事故で人が死ぬのは悲しい。追悼などしないのがテレビで、事件がどのような経緯で起こったのかさえ追及もせず、だらだらと映像を垂れ流しして視聴者を白痴にする。テレビは嫌いだ。非常に危険だ。テレビのニュースに一喜一憂し始めたら、まず、おかしいところの入り口だ。買ってもいない株の値下がりにショックを受け、世界経済の行方を心配する。ああ、おかしいったりゃありゃしない。言うだろう、株が下がれば、金持ちは消費をしなくなる。売り上げが落ちるじゃないか。話のネタにもなるじゃないか。役に立つ、そうかそうか役に立てば汚い泥水でも飲みますか。私は飲みません。就活中の若者。嘘のつきまくりに疲れて疲労困憊。人事に切れても良さそうなところ。それをしないのが社会だと、バカな大人たちはバカでいられる社会を全員で作り上げようと必死。学ぶのが金につながり、その金で何を買う?美味しい料理、妻の満足、どれもこれも自分でできないか。うっぷん溜まって物を買い、うっぷん溜まって土地を買い、家族の平和を買い、家族は平和のもと知らない男と通じ合う。ああ、世の中嫌になるなんて嘘ばっかしついて、自分も片棒担いでお神輿騒ぎの常連なのに。さてさて、つまらない話はよしましょう。梅雨入りしても雨降らず。曇りの天気に心は穏やかさを取り戻し、濃い夏の色を煙たがる。北九州の灰色。なんて素晴らしい!思っちゃいないけれども、口に出たんならそれが本心?知らないね。論理的じゃないから、話を聞かない。イエスキリストは神じゃないというのなら、話を聞かない。みんな都合よく嘘を聞いて本当のことなどどうでもよさげ、私は?心を捨ててもはや何もなし。感謝もなければ、あるのは内的動機。その弱さも知っている。外から来る動機は強い。が、束縛感がある。不自由だ。結局様式にはまる。自分を貶める。さて、車が飛んだ。どこに飛ぶ。バスの上を走ればよかった。作家がテレビで言っていた。それくらい自由に物が言えたらいいのに。今は老害の時代。じいさんばあさんに感謝しながら話を聞き流そう。戦争話は聞いてやろう。それ以外の説教は聞かないよ。その説教で億一千万の金が発生しても、かっさらって逃げていく。

イギリスの選挙

 対して変わらなかったね。対して。思っていたより温和に終わったね。テレビでも対して注目されちゃいないくらいだから。それより大変なのはトランプ大統領だね。こりゃすぐやめちゃうかもな。トランプの性格なんてあったことないし、あってもわかりっこないけど、やめちゃっても笑ってそうだからすぐやめちゃいそうだな。それに比べて、オバマさんのインスタ見てるとストーリーがあるよね。雰囲気がある。トランプはただの金ぴかやろうってわけだ。大統領に期待するってほど暇人じゃないからこっちが先に動いて考えて大統領の名前なんてワスレッちまったくらいがちょうどいいのかもしれないね。アメリカの大統領以外名前なんてろくに知らないしな。日本の報道が偏っている悲しみよ。偏りはしょうがない。商売だから。しかし、生きるために商売してるんなら悲しいよな。生きるってのは、強いられているわけだから。強制的に何かをしなくちゃならないって考えだよ。ああ、やめたやめた、めんどくさい。こんなめんどくさい思考に付き合うくらいのお人好しだからダメなんだよ。つまらないことはハナっからおさらばして、電車の中の意地悪なおっさんを無視するように、哀れみさえ投げかけずに、それを気にしない自分の魂を褒め称えるくらいの変態になりゃ、どこでだって生きていける。

 近頃感動したのは、ちあきなおみの、朝日屋の女郎って歌詞に出てくる歌だね。これは参ったね。ちあきなおみの声に乾いた砂漠が思い浮かんだと思ったら、ほれみた、洋楽のカバーじゃないか。いろいろカバーされてんだってね。まいった。俺もカバーされるような歌を一曲作りたいね。いつも聞いてばかりいるんじゃ、曲がどれも同じに思えるからね。そうだよ、人間ってのは、制作に携わらないと消費すりゃできないんだ。あきっちまう。飽き性ってのは、興味関心の伸ばし方を抑圧された人間の思考の怠惰だね。親が悪いってんじゃないけど、自分で好きなことをできない奴っているじゃん。例えば、損得勘定ってのでね。あれは、実に立派な主義だね。みんな金で動いてるって思ってる。恋愛だって結婚だって学問だって労働だってサービスだって犬のうんこだって、すべて損得勘定で割り切れるって思ってるんだから。立派だね。俺は否定しないよ。割り切れてるのは頭の中だけだろうから。残り、は見ないことにしてるのか。いや、みえねーのかな。俺も見えなくなるときあるけどね。そういう時は大抵顔色悪いね。ああ、体には良くないんだから、損得勘定の逆をいってるんだね。そういえば、精神分析学の偉い人が、思い出せる夢は割り切れなかったのこりだっていってたね。毎日夢見る俺の脳は、脳で睡眠中割り切れないものを量産してるんだね。こりゃ少し心配だな。あと、食べたらすごく眠くて今日はお休み、自主休講。記事見てたら、「死ぬまで働く若者の過労死」ってな記事タイトルを察知。病的な暗さの記事なんて読みたくねーから、タイトルだけで十分。俺は違うな、さすがだと思った。

 んー、この文体なら吐きだせそうだ。文章ってのは初めから何書くかあらかじめまとめるときとそうじゃないときがある。今は何も考えないで書いているようで、そんなことはなくて、キーボード打ちながら何かを考えてる。文章の良し悪しに拘泥されて文字を言葉にしないようじゃ絵が下手だから何も描かないで一向に上達しない絵描きと一緒じゃないか。私の彼女は後者で下手なことは決してしないけど、上手なことはいつまでも上手だね。私なんかほんとすぐ忘れちゃうから、うまいことできてもワスレッちまって、ダメだね。忘れっぽいってのは病気らしいけど、生活に支障が出なければってな具合で健常者とわけてるけど、記憶なんてあれば苦しめられるし、忘れて苦しめられるってことはないからな。苦しんでるのが人間っぽいんだろうな。そういう人間の方が安心するのかな。crown princesも苦しんでるのかな。加油akihito! 

 

別にいいんじゃない

 イギリスでテロ。ああ、イギリスもやられたか。その認識はおかしいってか。知らないよ。アジアは平和だね。でも、タイはやられたからね。ヨーロッパが近いほどダメになってくのかな。まあ、良くわかんないけど、っていうことは、まだまだご立派な意見をぶっとばして椅子に座ってなまくらしてるような真似はできないけど、そりゃ俺だっていっぱしの人間だ、ビシッと一言言っちゃわねーときがすまねえよ、なんて口で言ってるけど口だけで十分だね、いや、口にも出したくない言葉ばかりだ、あまりよくねえことだね。秩序だね。あー仕事なんてなんであるのかね。歯車なんて言われてるけどまさにそうだね。それも巨大組織だね。歯車を回して生きてる。一人一人は歯車だ。だから、まずそうな料理を美味そうに見せる詐術が必要なんだよ。広告だよ。テレビだよ。そこでタレントだよ。いい加減、芸能人の話なんてきかないことにしようぜ。芸能人が結婚しただの離婚しただの知るかって話だよ。芸能人がマスコットになってるね。今つらいよ芸能人なんて、いや、感覚が狂ってる奴らがテレビに出て、出ている時だけまともな顔していられるんだから。いったいテレビなんて一億総白痴化なんて昔の人は立派なことをいうねえ。今の人間は昔の人間の遺産を受け継いで消費しているね。いいものかけないもん。女に酒。それだけが今の人間の楽しみだろ。趣味なんて持ち合わせちゃいない。せいぜい労働で稼いだ金で趣味を買ってる。ああ、嫌な世の中になったよ。まずい料理は不味いんだ。舌がおかしくなってるよ。一度外食をやめたらいい。何にもいいことないんだもん。ああ、どこにも行きたくないね。言っていいのは田舎ばかり。都会に行っても買ってるのはおかしなものばかり。人の話は聞いてくれ。人ってのは俺のことだよ。自分の話を聞いて人の話を聞かないってことはない。自分の話を聞くのに精一杯で人の話を聞く耳がないってことだね。自分が発する声が大きすぎるんだよ。つまり、自分の言ってることが正しいと信じようとする人間の根底にある自分への不信感と自信のなさよ。俺は自分なんてつまらないと思う。自分から生まれ出た声をどうするのかによると思う。俺はなんてつまらない人間なんだと腐っちまってもしょうがない。俺はバカだから、しょうがない。

暑い

暑い日が続くねー。外に出たくないよ。最近生きてるのがよくわからなくなった。自分の人生なんてアホみたいなことも言いたくないし、しゃべるだけ喋って何も別に結論に達しないのもそれでいいんだと思うけれども、やはり何か行動を起こしているときの私は興奮を伴っていい気持ちで居られるんだ。それが嘘だというのなら、嘘であっても構わない。私は人を説得するために文章を書かない。それが技術的にできるかどうかよりも、私の文章に引っかかる人間は必ずどこかにいるわけだから。この広い世界のどこかにね。映画のタイトルみたいな文末になったけど、許して。誰に請うてるのか。

 

哲学者 君は人生について話せ

私 唐突だね。文字なんて信用していない。いつだって文字から逃げられる。逃げられないときはお縄さ。獄中で死んでくれたら検察も楽だったもんだ。仕事が一つ減ったしね

哲学者 君は法律をかじってるけれども心は腐ってるな

私 どうだか、心が腐ってるってのは君の心が腐っているからそれを僕の心に投影した結果君が反射的に受け取った、君自身の客観的な心のことを腐っていると事故表明したに違いない。

哲学者 君というめんどくさい存在がいるせいで社会は生きづらいんだ。

私 社会というとき私は別に公正んであったりなかったりするくらいの存在だから影響を与えることもないと考える輩がいるのは確かではあるけれども、いつの日かそういう人間の疑問に答えられずに懺悔してまだまだ勉強が足りませんでとか言いながら、勉強する気などもなく日がな過ごして金もらい適当に生きている奴らが社会の中枢に勘違いした使命感を持って生きているのなら、私は彼らに嫉妬しなければならない。私こそその場にいるのにふさわしいと、私自身が考えるからだ。

哲学者 でも、君を評価するのは君で貼ってはいけないんだ。

私 そうである。しかし、そうでもない。なぜなら、私は必ず他人が私の中にいるからだ。いきなり裸にならないのは、裸になったときの羞恥心が露出を止める体。恥ずかしさは、他者のことかもしれない。他者の視線、他者の評価、それが恥ずかしさだ。恥の少ない人生は、自由もなく息苦しく顔はやつれているだろう。

哲学者 僕は自分が哲学者である自信を失いそうだよ。

私 世に何かしらの職業的名称を方外にしている人間は病院のカルテに名前はないにしろ何かの病気にかかっているようなものだから、君はその死に至ることのない病気を楽しめばいいのだ。

哲学者 私は深く考えているつもりでそれを演出するのに声のトーンを変えたりしている。

私 いわゆる話し方が第一ってことだね。わたかるよ。話し方さえよければ、それが本質的であるかどうかはどうでもいいんだからね。

哲学者 お腹すいたよ。

私 私もだ。何か食べよう。

人生が終わる日

やめっちまえよ、くだらねえ。女がどうだ、親がどうだ。そいつらの気にしてたら俺は死んじゃうね。あー死にたくなっちゃうね。俺は女のために生きてんじゃない。まして、親のためにいきてるんでもないんだな。近頃はうるせーよ。自分の姪ができたら他人に自慢だ。自慢する材料ばっかり探して、自分は本一冊読まずバカになっていくのがわからんのだから。言わせてもらうよ、バカだよ俺なんて存在は。親からカネをもらうのは一流に罪悪感のいることなんだよ。不具者と同じだよ。働いてる不具者以下の存在なんだな。そう社会が声がけしてくるのがわかる。社会のスローガンが国民総生産のためにあるなんて考えてるからな。いったいなんで他人の飯作ってそれが金になるんだよ。飯ぐらい自分で作りやがれってんだ。美味しい飯が作れるんなら、振る舞えばいいじゃねーか。それを金にして儲けようなんて魂胆が卑しいね。周囲を見渡せば卑しいやつらばっかりだよ。黄金稼いでクソまずい酒飲んで次の日に気分悪くしてまた働いて。反吐を出すために苦しんでる。どうしようもないよ。一方でカネをためて将来の不安のための貯蓄が鬱憤した無意識の引き出しから出て行くってこともあり得るんだね。ああ、世の中が嫌になったなんて俺は言いたくないけど、今俺の頭に浮かんでるのは世の中が嫌だってことだ。なんでかって。俺が思っていた世界と違うからだ。邪道俺は世界を見ていたんだ。おそらく今と変わらない。小さい頃から今になるまで、俺は世界を同じ風に見てきた。じゃなんだって嫌なんだ。小さい頃に死にたくならなかったのか。それは俺が変われたからだろう。大人になりゃ経済がのしかかって変わる機会を剥奪されるんだ。男女差別も年齢差別もあるんだ。それを嘆いたってアホらしい。道はあるんだから。独学だよ。独学ってのは自分で自分の疑問に答えるってことだ。この意見は本居宣長を書いた小林秀雄の公演からパクってきたもんだから、偉そうに言えないけど、疑問を持つってことだよ。発見なんてものはないんだ。人間を分裂的に見ちゃいけないんだ。わかるか?僕は以前と違って、随分複雑になった。複雑ゆえに私は分裂すると書くのは容易だ。分裂するって意識が分裂するのかい。それならば文章なんて誰にも解読できない。自分さえも後で読み返してみて分裂しているゆえにわからない。文章は事実を書き留めるメモである。事実が何か?自分の心に思い浮かん多ことだろうが、それを書きとめて半数もせずただ移ろう心を描いていけば何か一つのまとまりが見えてくると信じるところに文章の信ずる所以があるが、私は文章について従来言葉の次に来るメモ程度のもの、思い出すのに必要なキーワードの書かれた記憶を托する場所であると考えるのだが、記憶は文章の形で思い出される。一定の記憶を一定の感情を伴って思い出すのが文章だ。文章は変わらないが解釈によって変わりうる。解釈は、私の頭に起こる。それをまた文章にしてどこへ行き着くのかわからない。目的地を持った文章がない。私はいったいこれが金になるから書いているわけでもないので目的はないのだ。ある程度小説かなり新聞記事を描く身になれば、書く文章に規範も出てくるだろうが、そう規範にとらわれても面白くないだろう。書いていて面白くないような話は、書かないほうがいい。私は書くことの意味について少し今わかりかけているような気がする。書くとは、つまり、自分が言いたいことを書くということだ。そこに何かしら、利益だとか目的を持たない文章こそ私が書きたい文章なのだ。私の独り言を聞いてくれる人はいないのだからここに私は書くのだ。ラカンは、自慢話で第三者の存在を認めるが、私は知識のひけらかしをしたいのではなく私の中に知識とやらがどうまとまってきているのかを知るために書いているのだ。記憶の定着で同じことを何度も繰り返していれば、私はそこに何かしらの目的なり意志があるのだろうと感じてしまう。すべての目的を金銭に置き換えて解釈するのは容易な手段であるが故の誘惑である。私はいったいこれからどこへ漂流していくのだろうと思ってもいない、けれども、そういう可能性がない今の状況において人間は不安から行動を起こし不安と同居するがために秩序を維持する本能を見出すのだろうと考える。

人に好かれようとする努力はすべて、無意味だ。人生に何ももたらさない。嫌われるくらいの勇気を持て。嫌われて傷ついてそれで笑えばいいのだ。決して人に好かれるような人間にはなるな。人に嫌われるようになったらしめたもんだ。一番は人なんて気にしないことだ。自分は自分である。

やめよう

 テレビを見るのはもうやめよう、あったこともない知らない人の意見を追従するのは。行ったこともない外国の風景ばかり見て近所の店も知らないなんて。食べたこともない料理を好奇心から食べられもしないのに芸能人の反応を見たりするのも。変な日本語とイントネーションを生まれてから学校で強制的に身につけたアナウンサーの奇妙な声も。声を文字にして色をつけるのも。私はアホですと言わんばかりに嘘八百の笑顔を振りまいてゴミを売るCMも。カネを貸すのにダジャレを使うバカも。ああ、世の中が嫌になってくるからテレビよ無くなれ。

 

厭世的

 人の世が嫌になる。人が大嫌いだ。電車の中で、ばあさんが、品は良さげだが、ドアの前に立ち他人の私に迫り近づいて臭い口から臭気を放つ。品はいいけど、体臭までは隠せない。ああ、そうして人は嘘に嘘を重ねて嘘を塗りたくり裸になれずいつまでもシャワーを浴び汗を流せず不快な気持ちを抱えて生きている。学校へ行けば聞いたような話ばかりでうんざりしてくるし、私は退屈まぎれにアホのようにメモを取るのだが、たまに頭にくる一言を発する奴がいて、そういう人間を見ると笑うしか手段がないのに今更ながら自己嫌悪に陥る。要因は複合的でその一言はきっかけであり原因としては一つに過ぎないのだろうけれどもも。今の私に元気ある文章はかけやしない。文章でハイになるほど元気が残っていないのだ。言葉に関して規制が私の心を押し付ける。心とは言葉に他ならない。言葉を持たぬものに幸福もなければ、不幸もまたないのである。みよ、街中を走るフェラーリを。見よ、街中を歩くスーツを。フェラーリの値段はわかるが、スーツの値段はわからない。幸福とは、値段の張るものを身につけること・・・一番わかりやすい一つの幸福の形であり、気持ちを値段に預けることで硬直化した心の持ち主にとってはその形でしか幸福はありえないのだろう。小さい頃の貧しさが、大きくなって感性に歪みを生じさせる。そう、今の大人は貧しかったのだろう。だから、私にはその卑屈が目について吐き気がする。嘔吐だ。もう酒は飲まない。酒を飲んだ次の日は気持ちが悪く活動する気にならないからだ。私に必要なのは十分な休息と、目的意識であろう。後者に関しては放棄している。目的意識など嘘でいくらでもその場で繕えるのだから安心すればいい。まして、実現のために周囲に目標を口に出して表明するバカもする気がない。立志式など、自白以外の何物でもない。アホは、親への感謝と狭い了見で将来の夢を同級生に披瀝して恥を晒す。百姓根性の純粋さからだろうか。私は一人になって、家族から断たれ死ぬ思いである。自ら死地に赴くこともなくしぬる思いでいきたいとも思わずに、連綿とくだらないことをして生きている。何か第三者の利益になるような行動をして社会参加をしなければ幸福という社会の果実によだれを垂らしてありつく体たらくに身を投じなければ、私は幸福になれないのだろうか。はたして幸福とは社会の果実なのだろうか。そう考える私はいったいなぜそう考えるのだろうか。人間の何十万年と培ってきた分厚い地層が意識されずに私にもたらすものよ。ああ、私はどうしてこうも自分なのだろう。自分なんて捨ててしまって早くあの世に行きたいのだ。あの世にいって自分なんて捨てて、つまり意識を立ちたいのだ。意識を絶ったとて死んだとは言えない。また別の世界があって次元をことにして意識が蘇るのかもしれない。今までは夢だと言わんばかりに。とすれば、いつまでたったも意識は続くではないか。あっちの世界でお線香あげているときに私は別の世界でセックスをしているのかもしれない。もう良い。このような社会はもう良い。遠慮して遠慮して遠慮して言いたいことを言えば、地雷を踏んだと足を吹き飛ばしても良いと、人々は考えているような。もう良い。