アウトプット

相手の視点に立ってみよう

世の中は常に変化し続けますから、結局のところ何一つわからずに人間は墓場を掘り続けて、一体何年立ちますことやら。どう見ても、世の中は腐っていると愚痴もこぼしたくなりますけれども、あまり語気の強い言葉を使いますと、あの人はきちがいだから相手にしないほうがいいと噂が立って、どうしたことか、誰も寄ってこないということにもなりかねず、そうなると、私は一体何を誰に話せばいいのかちっとも見当がつかない事態に陥りますので、困ったことになっていまします。一体誰が私を救うのでしょうかと問いかけてみても、人の声ひとつしませんし、聞こえてくるのはノリもしない電車の音ばかり、仏教本を読んでも、確かに、理想の境地ではありましょうけれども、遠い過去の理想の境地でありますから甘美な香りも味もしますが、どこか、強く惹かれるところがありませんので何回も読まないと忘れてしまいます。忘れてしまうということはどうでもいいとうことだろうと、一人頷いていると、いや違う、もっと本を読むべきだ、読書が足りていないからそうやってつまらないことを考えるようになるのだと念を押さなくちゃなりません。私は意識が押し寄せてくる前に、逃げるようにして波を避けなければなりません。ちっとも私は私自身を信じようとは思いませんからね、どうすればいいのかと考えあぐねるよりも何も考えないほうが私の性格に合っていますし、おそらくは私もそのように生きているように思えてならないのです。どうすれば人間は生きる上で悩みもなくのほほんと生きられるのかと自問自答していますが、本人は案外本当に疑問も悩みもなくのほほんと生きているのだからしょうがありません。とにかくは、私に考える隙間を与えないくらいに指を動かしてこの言葉を吐き出してしまわないと、囚われて二度と私はものを言えなくなるでしょうという不安に襲われるという風雨に書けば少しは気分が楽になるかもしれないという淡い期待も少しは持っておりますけれども、それに期待をすることはないのでもし裏切られたとしても大して私は気分を害して投げやりに海に身を委ねシヌようなこともありませんし、横浜の赤煉瓦倉庫が爆薬子だという秘密を頑なに自分に対して守っているように、一体あそこに何があろうとも、外から見れば、大したことのないただのレンガです。要するに、私は自動筆記のみを新時代のでございます。文書は常に私の鏡でありますし、私自身であります。鏡といえば、ものを反対に移しますから決して私自身を写しているわけではない、世の中は私にとって常に反転しているのでしょう。それにしても、今日の曇り空は私にとっていきやすいように思われます、鬱屈した気持ちいるのも慣れましてそれが普通になってから私はもはや、何もする気力が起こらないというわけです。やる気というのは常に嘘ですから、あるのは、虚無感だけでありましょう。ということで、私は今から本屋さんへ行きたいと考えております。以上・

美しい景色を見なくちゃ、気が済まないなんて、少し贅沢ですわ。美しい景色は、外に広がっているのでしょうから。目から入った光線を美しいと感じるのでしょうか。それとも、私の心がそれに感応するからでしょうか。私にはちっともわかりません。あれをしなくちゃならない、というのは一体誰からの押し付けがましい要求なのでしょうか。そして、それをしないばかりに苛まれるのは私ばかりです、あまりにも馬鹿らしいので私はあまりそういうことを考えないようにしています。しかし、考えないようにばかりしているとなまじ相手から小突き回されているようです。軽いジョブも積もればダメージになります。おそらく私の心持ちが私につまらぬ文章を書かせているのでしょう。格調高い文章というのは、格調高い人から生まれるものです。格調が高いのか低いのかは文章に現れますけれども、文章の格調の高さと本人が周囲から格調の高い人だと思われるのは関係のないことです。一向に関係がないので困ってしまいます。一体どうすれば楽しい文章が書けるのでしょうか。ずっとそればかり考えてまいりました。まずは、他者を設定することであろうと考えられます。相手がいなければこの文章は支離滅裂になるでしょう。なぜならば、相手がいなければ自分のつまらぬひとりごとで文章をいっぱいに満たしてしまうからです。おそらくは、読書により培われるのは知識では決してないのです。それは、フィーリングなのです。仏教関連の本を読んでおりますと、もちろん、仏教に関するの本でも、中村元先生のブッダのことば(スッタニパータ)は、すとんと心持ちをやさしくさせてくれます。世の中には、心理学やら、精神分析学やら、やたら、分析しなければ説得力を持たないだろうと考える著者と読者によって構成された面倒な世界があります。すべての事柄に客観的な根拠を求める態度は非常に疲れますし、そもそも、説得よりもある種の自己肯定をそこに見出すのではないでしょうか。世の中すべてのことに理由があるわけではありません、なぜ地球ができたのかについて誰かの意図であるのかないのか、それを考えてみてもしょうがありません。物質的な運動が地球を作りましても、私の今の気持ちは一体いかなる物質によって構成されるのであるならば快活に生きられるのでしょうか。脳の物質と言いましても、それには限界がありますし、なぜ恒久的に快活でいられないのでしょうか。おそらくは、人間の体の恒常性に原因がありましょう。眠らなければ、人間は次の行動をやめてしまうから、眠るのです。つまりは、過剰な生の後には、永遠の眠りが待っているということかもしれません。快活に生きていればその時は楽しいでしょう。誰もを凌駕したような気持ちになり、世界を我が物にした全能感に浸れることもあるでしょう、世界はこれっぽっちかと悦にも浸りましょう。おそらくは、スッタニパータのブッダは優しいわけでもなく、弱いわけでもなく、殺すなら殺すが良い、私はこの安らぎの境地を楽しんでいる。という、気持ちがあるのではないかと思われるのです。残念なことに、現代の粗末な分析学的趣向でこれらの精神を記述するには非常な工夫か必要で、私はもうインターネットの効用をちっとも認めたくないのです。パソコンができてよかったのは、相手にメッセージを瞬時に遅れることでしょう。大多数の人に自分のつまらない偏見に満ちた意見を、客観的であるから真実であると博識ぶり、相手を説得させようとする人間には、私は手を叩きながら君の言う通りだ、と称賛するでありましょう。なぜなら、彼らの求めているのは、称賛だからであります。それにより、彼らは安定するのであるし、彼らは世の中で犯罪を犯さずに済むのだろうからです。世の人々はみなさんご病気ですから、お互い様に相手を受け入れる寛容の態度は必ず必要でありましょう。相手を拒否すればその分だけ、自分が息苦しくなるのが世の常です。非常に面白くありませんか。生きづらいので同じ仲間とばかり話し、狭い了見をわざわざ自分に無理やり強制して生きるのですから。私はこのような生き方に賛成とも反対ともしません。第一、物事が明確に二つに分かれることはないのです。そして、別れたとすればおそらくはどちらも間違っているのです。国会も、与党野党というからよくないのです。野党も与党でありますし、与党も野党であります。相手を互いに監視するという態度よりも、個人個人がしっかりしていれば、このような対立軸を作り出して政治を行う必要はないのですから。競争社会において、自分のしたいことを我慢して競争に勝ったとすればそれは敗北でしょう。必ず、自らの欲望を捨て去った先に勝利があるのでしょうから。一番の勝利は、競争に負けることでしょう。なぜならば、競争に勝とうという欲望がすでに敗北を有しているからです。これがまったくの持論ですから、ちっとも誰も話を聞いてくれないのですが、世には、結局は奴隷には奴隷の愚痴話、王様には王様の世間話が流行るわけであります。馬鹿正直は、その名の通りバカですから、正直です。自分位正直であり他人に正直であるのは裸で相手の前に現れるようなものです。そうニーチェは、どこかの文章の文句に残しております。要するに、熱中こそが本物でございましょう。それ以外の情熱は一切認めません。情熱は決して松岡修造のような、情熱の形をしているだけの道化者に譲り渡してはいけません。なぜならば、情熱のない人にこそ情熱を求める気持ちがあるからです。

 女がトイレに入ったのを茂みから見るや、男は周囲を見渡して女のトイレの裏に回った。明かりがついていて、女がトレイのドアを閉める音がする。それを確認して男も女のトイレの方に入る。足音を立てないように靴を脱いで裸足になった男は、冷たいトイレの床に躊躇なく手をついて顔をトイレの隙間に近づけ女の尿から立つ蒸気と、トイレットペーパをくるくると回す音が聞こえた。女は用が済むとおもむろにたちパンツを履こうとする。その瞬間、わっと奇声を出して女は叫び、男は逃げる。

思考の場

 今日も街は坂を登る人たちと降る人たちのせめぎ合いで賑わっている。帰ってくる旦那の飯を用意するために買い出しに出かける。ふと横を見ると、黒い影の男がいた。

「 貴方のご主人は大変に素晴らしい人です」

 そういって、男は野菜の中に飛び込んでいった。人参の袋がわずかに凹んで穴が空いた。奥さんは、その人参の袋を買い物袋に入れてこそっと外へ出た。しばらく歩いていると。

 「奥さん、あなたは悪い人だ」

 と、あの黒い影の男の声がした。公園に着いた奥さんは、ベンチに座り人参袋を破りじっと眺めた。

 冬の風に枯れ木が人間の骨のように伸びている。水をいくらやっても枝に葉っぱは生えない。

 奥に、トイレがあるのが見えた。公園の公衆と異例の周りには誰もいない。住宅の真ん中にある公園だが人はおらず、少し古そうな公園のトイレの男子トイレに入り鍵を閉めた。便座は冷たかったが、興奮から奥さんは息を弾ませ今にも堪えきれそうもない声が反響しそうであった。奥さんは便座に座り大きく太ももを広げて茂った股を突き出し人参をそろりと入れた。その瞬間、影の男がやってきて、トイレの上から奥さんを見ていた。サングラスをしていて顔は見えない。シルクハットをしている、スーツを着た男性だ。顔色は黄色人種

 「奥さん、私はここですよ」

 そう言って男は消えた。

 

 たいてい、僕の話は役に立たないから。だーれもきかないわけだ。話のつまらなさを私が一番理解しているので、絶望しているのだ。自分の頭の中にある秩序に従って文章を書こうとすれば必ず行き詰まる。文章は熱情のうちに出来上がるものである。決して計画的に何を書こうかなぞと考えてみても、一向にまともな文章は作られない。だから、何も考えないで打ち込んだ文章が良しとされる。もしもこれが法律文章であるのならば書くのは非常に容易なのだ。相手のが突っ込んでくるであろう批判を先取りして、書いていけば結構な文章になるのだから。法律文章についてそう悩むことはない。しかし、自由に何か書けと言われるのは非常に苦しいのだ。何も書けないでいると私が存在していないような気がするからだ。とはいっても、私は一向に自分が存在していなくても構わないような人間だから、何も書けなくてもそれでいいと思っている。だから、私は、書きたいから書いているのではなく書くことに喜びを感じているのでもなく、書くことは思考の場所だと考えている。ここは常に、清書を書く場所ではなくアイディアもしくは思考する場所なのだ。つまりは、天下一武道会であって、その結果表ではないのだ。もちろん、他人に読まれるためにはある一定の読み手に都合の良い文字を並べてしまえば、読み手も流し読みするだろうが、結局はトイレに行っている間に忘れてしまうような代物なのだ。何にも心に残ることはないだろう。空を見て晴れている。ネットで記事を検索してもやはり晴れている。ああ、晴れている。そう言った感じだ。現代人は自分の感覚を信じられないでいる。特に、直感が失われている。あれをすればこうなる。そう言った秩序や常識に臆病になっている。常識を疑うことなく受け入れるのが素晴らしいと考えている。全くその通りに、素晴らしいのだ。ルールを守れるのが素晴らしいと考えられるくらい幼稚なのは非常に残念なのだが。例えば、交通規則がある。なぜ、この交通規則なのか。なぜ、この法律はあるのか。考えることもないだろう。だから、非常に幼稚なのである。だから、犯罪に巻き込まれた時に冤罪が増えるのだろう。今の時代の若者は、議論しない。全くだ。そうだね。それだけ言っておけば、どれだけの退屈な場面で退屈な時間を過ごせることだろうか!別に、私自身は友人と楽しもうとは一向に思わない!私の趣味は完全に私自身で成り立っているからだ!私の趣味をビジネスに直接的につなげようとは一向に思わない。そういうのは、嫌いだ。今、鎌倉に興味がある。鎌倉の寺に興味がある。あの雰囲気は血の匂いがする。幾千の兵士の血が岩に染み込んで土色に乾いている。坊主は読経をあげ、寺の屋根の燃える匂いを嗅いで線香をも香ったであろう。つまりは、人生は短い。君がしたいことをしろ。これに、理由はない。君のしたいことは、これこれだから、私はこれをする。それでもいけないのだ。人生は決して君が計画したように進まない。進んだとすれば計画が進んだのであって、人生は一向に始まっていないのだ。最後にひとこと。ざまみろ!

感性の話

 小さい時から胸がざわめくことが嫌いだった。新しい世界への扉に興味はなく、冒険は周囲の話す漫画から掠め取ってような甘っちょろい嘘じゃ気が済まなかった。本当の冒険は近所の田んぼを自転車で走ること。いくらページをめくって世界の海の果てまで行ってもそこにあるのは、人間関係。誰が好きだとか、嫌いだとか。新しい発見への思い、絆、共感。以上のことに興味を全く示さないのが私であるという確信が少しできた。まずもって他人に興味を合わせるのが無理なわけではない。ウェルカムだ。相手はそれでペラペラとしゃべってくれる。それは本当に嬉しいことなのだ。喋りすぎても大丈夫だ。しかし、反応を求められすぎるのが疲れる。ぼやきはいい。自己閉鎖的だから。何も言わなくてもいいくらいのことをぼやく。声は小さくボソボソとしゃべらなくちゃならない。嫌いなのは、ハキハキ喋るバカだ。自分が快活なやつだと自惚れている。加えて、恐怖と不安がある。人と比べることはしない。どうでもいい。自惚れていようが、落ち込んでいようが、それが自分勝手の結果だからでもなく、それに酔いしれいているからでもなく、それに関わりたくないという方が近い。あ、うん。の呼吸で通じない相手を説得させるだけの取ろうと努力をして相手が変わっても結局は一時的なものに他ならず相手の興味関心の対象を絞るくらいだ。考え方までは変わらない。とはいうものの、対象が変われば見方も変わり考えも変わるだろう。すこしはね。はや、考えすぎるのは病気だから、やめにして、日本語がいかにして紡がれていくのだろうかと考えている方がよほどいい。どのように感情表現すればいいのだろうかとか、恋愛相談だとか、結局は、相手のことを知らないから、相手を正座に落とし込んで牡羊座であるならば、牡羊座の性格的傾向を彼に当てはめて、彼を理解しようと努めているにすぎない。そのうちにその見解が、現実になるのも、その占いに書かれた内容を引き出すような行動を私がするからであり、結局は占いは、当たる当たらないではなく、励ますものであるという見解、人間は多くの見解を持ち、結局は何にもならない。どうすればいいのだろうか。わからない。歴史は人間の道しるべとはならず、人間の思考の痕跡の発見である。過去から今まで変わることなく同じような考えを、別の対象に向けて発散しているにすぎないのだ。人々は意識を保とうと必死になる。ああ、そうすれば好きなことが心から楽しめると思っているがそうではない。腹が減って飯を食べても美味しくないという状態に近いであろう、現代は。本当の喜びが苦しみの先にあるのを避けて通れば喜びも悲しみもない。それこそ、究極であるし、ブッタの目指した境地であったのではないだろうか。私にはブッタを語る資格もないのでくだらないおしゃべりはこの辺にしてさよならしたいと思う。つまり、自分が一番自分の文章を読むのであるから、自分が読みたいことを書くのか、それとも、自分が人からどう意識されているのかを自分がどう意識しているのかを考えた文章しかないのだ。つまりは、そういうことだ。自己だとか、どうでもいい。それよりも、自己を忘れているときの方がよほど私だ。だから、今の環境は良くない。自己を捨て自己を忘れよ。