アウトプット

相手の視点に立ってみよう

話題になっている事柄について何か得意そうに書く人間の不幸を考えてみる

 イスラム国がなんだ。理解しようってのが間違いだ。隣の人間さえ理解できないのに。深淵の淵をまだきみは覗いた事はなにのか。ないとしてももっともらしいことをもっともらしいと振る舞う事は不誠実であるのか。直覚で得たものを振る舞いとして表現する事も大いにあり得る。しかし、ソクラテスにかかってはそのようなものさえ解体される。矛盾点をついていき曇り空に晴れ間を、日光が海を照らし天使のはしごを私の眼前にひろげる。美しくもあり、努力の成果の無惨な時間の浪費。私は時間を有効に使う為に何をするべきなのか。自己との対話読書こそがそうであるにちがいない。資格勉強にも対話のような性質をもたせないとやるせない。食べてばかりでは体を壊すに違いないのだから。

 さて、私は今故郷にいる。やわらかい日光が私の体を温め何を書いてもいいようなきにさせてくれる。書けば金になるとしたらそれは果たして幸福な事なのだろうか。私にはわからない。なぜ、金にこだわるのかもしれない。私の趣味を金に絡めて役に立たせようと言う小賢しさからくるもののように私には思われる。

 いつものように、私は起きてこの天孫降臨の地で穏やかな太陽に恵まれたこの地で、ものを書く。書いたところで何になる。何にもならない。しかし、書く事で私はかわるのだ。私という文字の仲に、人々は私をみるのだ。誰かが、私と書く。誰かが私という。だんだんと、私という言葉が本来はある人をさすことを忘れて自分の事のように思えてくる。だから、小説というのは他人の力を借りて自己の思考をすすめる事にある。これは卑怯なのだろうか。いや、卑怯であるとすれば大いに歓迎するべきなのだ。人は皆卑怯なのだから。卑怯であることを認識しなくては卑怯から距離を置く事はできないだろう。誠実にも慣れないであろう。自己の主張はアピールであり、また簡便に相手に自己の能力をみせつける大道芸人と同じだ。そのアピールで雇った大道芸人と毎日暮らしてそれが苦痛であることも大いにあり得る事なのだ。

 私はもう何もわからない。わかりたくもない。メディアの役割がそもそも正義とは縁もゆかりもないものなのだ。

 果てしなくどうでもいいのだ。おそらくそんな事は嘘に決まっている。一つの態度だ。なんだって許せるわけではない筈なのに、しかし、何も起こらないから何だっていいということになるのだ。変化がないとはつまりなんだっていいという態度につながるものだ。なんだっていいのならば、すべてを楽しめるしそしてすべてが色あせるという極端な話なのである。無欲は大欲ににたり。

 果てしなく広がる空は今も昔もこれからもありつづける。夢破れて山河あり。言葉がなくても鳥はさえずり、太陽はプロミネンスを放出する。梅の花は咲き誇る。文明は労働者のためにある。合理性さえ。私は合理性をみたいものだけをみる生活態度ととらえる。誰かが出来合いの作品を作り出し、それを再び再現する。再現する事でさらに作品を堪能する。堪能し酔いしれ堪能にしびれ私はただ受身の態度で持って労働の受難さえも耐えうる身となるだろう。

 果てしなく空は住んで刻一刻と闇が訪れる事さえ人間の区別にすぎない。自然的な態度。人の目に映る景色と虫のみている世界が違うからなんだっていうんだ。虫の身にもなってみろということか。それはそれでばからしくっておもしろい。おもしろいってことはいつだって馬鹿らしいのだ。バカは学生の頃に卒業したよ。そんな言葉を吐き出す、心底バカな勤労者がこの世にいない事はまことに素晴らしい事だと思う。立場でものをいうのは、家族を養う為の不誠実な嘘にすぎない。食べ排泄するために人はいきている。運用されているのだ。運用の目的はが、運用の維持にある事の循環構造。山中に転がっているマリモのような。誰かに見つけてもらう事ばかりを欲して、認められる安心感に支えられて、人々は私の言葉を失い徒党を組み賛同しかしないようになる。

 これまではそうであったし、これからもそうであるのだ。不快の原因は因習による。因習を断ち切るのに個人的な勇気では足りないから、徒党を組み乗りこえようとする。ただ、それだけのはなしじゃないか。