アウトプット

相手の視点に立ってみよう

よかった

嘘も方便である。それについて私は何ら立証する気も起こらないのである。経験的に知った事実に着いてもう一度文章化することで味わえるかと言ったら、無理があるようにおもわれるからだ。もっとも経験をすべて文章化すれば、経験はそもそも文脈的な意味を持ち公共の場で経験を語ることに意味を見出せもしよう。しかし、私は公共の場において自らの経験を出しに商売をするようなことをしようという気にもならないのだ。それが私には疑問なのである。いや、私の疑問ではなくて他者の疑問である。他者の疑問に常に答えていくことが人生なのかもしれない。何故かときかれて何も言えないようでは、私という人間は排除されてしまいかねないからだ。しかし、楽天的に考えれば何かしら嘘でもいいから話せば排除されることはないのだ。何を人間は求めているのか、それは嘘でもいいから話す人間だろう。人間は話したい欲求の持ち主でもある。何か真実やら真理だけを話すような人間についての浅はかさを持ち合わせていなくちゃならないようなこのめんどくさい世界において。言葉を選ぶということは相手に気を使うことである。相手に気を使わなくていいというのなら、私はいくらだって話せる筈であるし、そういう気軽な状態で話せる聞き手をもつことは非常に大切なことである。

 おもう、について考えてみた。これは、自分の発言がどこかしらで正当化されるだろうしその可能性はある、勝算もある。しかし、その発言を自らの意志において実現しようとすることは放棄する人間は、おもうと言いたがるのだ。どうなるのかわからない、自らの発言が間違いであるかもしれない可能性について責任をとらないということだ。言葉に責任をとらずに、ただ、うまく行けば自分の実力のおかげであるといい、うまく行かなければ自分の実力の性ではなく環境のせいにするのだろう。この生き方を徹頭徹尾貫徹することが人生のうまいやり過ごし方であると私は結論付けすることは決してない。その後に来るのは、結局は自分のせいにしても誰のせいにしても、どうにもならなかったという事実が残るのみなのだ。その処理できない具体的事実に人間は物語を適用して流すように処理する。そうでなくては、不条理な物語に埋没して努力が実らず偶発性に身をゆだねることになる。近代的な人間の恐怖とは、時間通りに事が進まないことにある。楽しさや感受性を犠牲にしてまでも、時間通りの厳格さと正確さをもとめた。それらは、力である。感覚は排除され理性はとことん信奉された。理性は、感覚に基づかない言葉を人間の口から大量にはかせた。もうはくものがないというときに、理性は暴走してさらに硬直化していくことになるのだけれど。

 私の話が個人的であるかどうか、正確無比であるかどうか、私は待った杭に介さない。他者の意見を力に変えて文言にすること程依存的なことはないし、また、自分の言葉を吐くことに確かに自由はあるけれどもそれが、疲労困憊をも自由に呼び起こすことになんら気づかないわけにも行かなかった。自由とはいいこともわるいこともなにもかも一緒くたんにすることである。だから、どんな人生を送ろうとも自由の名の下に生きることを神に誓えば、自由であることの幸せを享受できるというものだ。しかし、そもそも自由であることが幸福であるかどうかの疑問を差し挟んで悶々と悩むようにならないまでの時限つきのである。

 それにしても、私はどうしてここまでえぐるようなことをいうのだろうか。おそらくは、幸せは相対的であるという世間の前提を受け入れることを私は拒否してまで、世間を蔑視しているところが、私にはどうしてもある。それがなぜなのか、自己分析してみたいのだが、自己分析についてここで述べておかなくては、みなさんが疑問をもったまま、また、疑義をもったまま私の言葉を聞くだろうという私に偏見や先入観が膨大する一方なので、話させてもらいたい。

 私は私に着いて話すことが出来ない。なぜならば、言葉は私のものではないからだ。しかし、言葉にまとわりついてくる価値観についての半のなり感受性をコントロールすることは出来るだろうと私は考える。まるで、毒を盛って毒を制するように。公共に属する言葉であるけれども、公共でも利害がそう反することはある。そういったことばかりである世の中は私の心よりもずっともっといろいろなことが繁茂しているのだ。公共の感受性を私はみとめたい。私の心が広くなるということは、世界も広くなるのだ。広い心はいろんなものを楽しみまた好奇心を持って、それに接することができる。楽しい感覚を鈍らせてはいけないのである。それは、恋においてもそうで。愛もである。

 話が大きな方向へと変わろうとしているので私は私を引き止めた。私の書くことが次の日置手渡しが私の文章を読むと、まったく理解できなかったりすることもある。また、理解に時間と寛容さが必要な場合もある。このようなことがたびたび起こると、分析とははたしてなんなのかといいたくなる。しかし、本来言葉はそのようなものだったのかもしれない。しかし、物語は残り続ける。物語は言葉が唯一と気を肥えて生き生きとする場所なのだろう。