アウトプット

相手の視点に立ってみよう

私の嫌いな人について、私が語ることに何か意味があるとするならば、そう思えることがまた幸せであるからである

 私には嫌いな人がいないという人が嫌いであるけれども、そういう偽善を平気で言ってのける呑気なところは嫌いではないというのが私の嫌いな人に対する一つの意見であるし、自分についてあれこれと考えてみることをするのも私の得意なことではない、自分なんてものはどうでもいいとは思ったことがない、周りがどうして自分に合わせないのかその不満ばかりならいくらでもはいてみせることができるけれども、近頃は自分でも自分はとてもつもないわがままでそのうちに社会的制裁を加えられるだろうとビクビクもしているのである。お金がないから嘘だって博士そのために心地よい人間関係を構築できるなどと言って見せる自分の嘘加減がなかなかに気持ちが悪い。私は私を信用しちゃいないし誰も信用しない、それでこそ一流の人間不審者であると自負することもなければ明日することもない私はまたこうして付き合いたくもない私自身の告白と付き合いを続けるのだ。他人と付き合って自分を忘れてしまうくらいがちょうどいいのかもしれないが私にはその感覚はついに掴み損なってしまったのであまり期待もしていない。私にできることは徹底的に私は私自身を否定することであると頭では理解しておきながら決して実行することのない理論ばかりを頭の中で観念していることにいい加減頭がイライラしてくるのである。しかし、金がないがために実践できないというのもまた悲しいのだけれども、いや、悲しくもなんともないのだただ私はもう自分がよくわからないのであるし。自分がどういった人間であるのかを誰も教えてくれないから、どんな人間でもありうるというつまらないことになっているのだ。どんな人間でもいいというのなら私は如何なる人間にでもなれるのだ。私は何か悪いことをしでかしてしまいそうな自分がある意味で怖いのだし、現実化しないそれを恐れてもいるのだろうと思われる。私のここ最近の夢は取り残される夢である、一人っ子を自負して孤独に慣れっこで人嫌いのする坊ちゃんでも演じていればもっと楽だったろうけれども、それも演技に慣れっこになって退屈してしまったので、ただ惰性でやる誰も見ない演劇でしかなくなってしまった。そう考えると、もう常識だとか奇抜な考えだとかそういったことはなんの意味もないし考えられなくなってしまう。そうやって私は一人の人間として生きていくという時に、私は人間であるという重荷を背負って生きなくちゃならないような気がするからしばらく私はやはり人間であることを避けて通りたいと思う。私は別になんとも思わないでいいのだ、私が他者に持っている観念は全て間違いである。なぜならば聞いたこともないからだ。それはそれで素晴らしいと誰も言ってくれやしない子の承認を欲することがどうしても私の生きる原動力だし、生きることそのものである。商人がないのであるのならば、またその奴隷として生きていくことを私が許されないのならば一体何の奴隷になればいいというだという時に、彼女が私の眼の前に現れた。やはり彼女は美しい。残酷さも、軽薄さも全て彼女に属するものは美しい、誇張してどこか私の言葉には皮肉笑さえ見られるような気がする。それは、悲しい。いかなる形容詞を持ってしてでも彼女を表すことはできないのだろう。とても、悲しい。