アウトプット

相手の視点に立ってみよう

そう悪くない

 そう悪くない。そう悪くないのでこのままでいいような気がする。このままであれば少しは落ち着いている。落ち着いているのでつまらないのだけれども。つまらないというのは強がりで本当は落ち着きたいのだけれど。とは言いながら、やはりどこか危険も求める。要は、僕の今までの文章はある結論を持って先を考えずに書いていた。どう書いてもしょうがなくなってきた。つまり、どこに行くのかわからない文章になってしまった。それでいいのだろうかと自問することももうしない。自ら問いかけたところで、その行為の意味を認識できない。何がいいのか悪いのか判断するくらいなら、悪いこともいいこともどれも同じように見る目が必要なのかもしれない。酷く穏やかだという時の酷くという言葉の持つ響きを僕はどれだけ知っているだろう。僕は言葉から離れて生活したいとどれほどに思うだろう。言葉の持つ君を理解しないように生きることもがどれだけ簡単なことであるのか。簡単であろうか。そうではなかった。様々な困難と不快な気持ちを伴って得た境地である。境地というほどのものでもない。習慣から解き放たれたのか、堕落したのか。どちらかでしかない。飛行機がまた落ちた。近頃は飛行機が落ちても大してニュースにならない。それよりも、スイーツを取り上げた方が経済効果があるという。人も賢くなった。金を動かす分には随分と楽をするようになった。しかし、知識はどうだろう。自ら作り上げる能力はどうだろう。金は動かせるが自らの感情はうまくコントロールできない。自らを外部に任せる。依存傾向の良し悪しを論じるのではない。自律の優越を得わけでもない。誰も聞かないだろうから。ただ、静かな境地であることを静かに語ることだ。語る音さえ不快だ。こうしてキーボードを打つようになってどれだけの漢字を忘れているだろう。どれだけの語句を知らないで生きているだろう。昔の人は偉かったと、つまらないことも言いたくなる。今の人が嫌いなわけではない、今の人は今しか存在しない。しかし、過去に存在していた人間であっても今の人よりはるかに存在感を持っている人もいる。今目の前にいる人よりも、過去の人に思い入れがある。それは今を否定しているわけでもなさそうだ。リアリスムとあるが、今目の前を過去もなしに見ることができるだろうか。そうすれば、恋は成り立つのか。三島由紀夫がわからないという人がいる。そういう時に私は優越も感じる。三島の方が明らかに繊細だ。語彙も豊富だ。また、何を言っているのかわからないという無い物ねだりをする感覚がまた盲目でもある。何を言っているのか、彼自身もわからないだろう。ただ、言葉は遊ぶためにあるんだ。言葉遊びというけれど言葉で遊べる人は限られる。遊べる人は実に少ない。代わりに、ゲームでならすぐに遊べる。その代わり喜びもまた少ないものだ。長く続けていればそれだけ味わいが出てくる。食べ物の咀嚼と一緒だ。噛まずに飲み込めば、腹は満たされる。気持ちは一向に満たされることはないだろう。腹が満たされて心も満たされるものもいるだろうが。何を言いたいのか、自分自身もわからない、どこへ行くかもわからない。この感覚は小林秀雄の晩年である。晩年と言ってもそれから十数年は生きたであろうが。晩年も、年で決まるのではなく相対的なのだ。物事が相対的であるから絶対的なものを求め、絶対的であれば相対的な方へ向かうことを望むのである。現在は、あまりにも相対的なので絆という言葉のもと一つの価値観を追い求め共有する絶対的価値観が先行する。世の中はそんなもんである。世に定まる価値観はないのだから。信じるということだけは例外である。信念は変わることがない。変わることがないものは世間にはない。世間は変わり続ける。それでも変わらないものがあるとして私はそれに魅力を感じるか。煩わしさを感じるのではないのか。心配である。私自身が定まらない人間になればなるほど、私は定まった生き方を強いられるから。自由であれば憎まれ、不自由であれば好かれる。人は似たものを好きになり、下位のものを愛でる。下手に出れば喧嘩は起きない。ただ、卑劣さを残している。宿している。喧嘩はしない。喧嘩をできない。後者の方が正しいだろう。喧嘩の仕方を知らないわけじゃない、ルールのない喧嘩などない。なんでもいいのである。しかし、習慣はどうにもならない。失われれば戻ってこない。戻す気力も起きない。行くところまで行き尽くすのだ。それだけである。占いで私は自由人と出た。それを受け取ったのも私の自由である。理由がないこともまた自由である。言葉に対して不誠実であることもまた自由である。気の赴くままにつかづはなれず動けるように筋肉は弛緩させる。自由を体得できるかどうか。なんてつまらない議題だろう。みんな寝てしまう。寝るなら家がいいから、会議室から出てくる。会議室なんてものからしていらない。椅子もテーブルもいらない。そんなものがあるから、箸休めにおしゃべりする。立たせていればすぐに終わる話し合い。肉体労働だけはしたくない。したくないことはしたいこと。そう思うだけ僕はひねくれているのか。それとも間違いを犯したくないだけなのか。間違いを犯さないようすればするほどに人は動けなくなる。間違いなんてないと思い込みたくもなる。間違ったことは世間が決める。私が決めるのではないという時、私は奴隷になる。世間を見ながら歩く。走ることは許されない。寄り道もいけない。家に帰る。次の日が待っている。夕飯が美味しければよかったのに。僕は自由に物事を考えられているだろうか。そう考えることがまた型にはまっていやらしい。いろんな言葉は知っておいたほうがいい。同じ風景も変わって見える。東京にいろんな顔があるのではなく、自分の目がいろんなものを見ているといっていい。何も見いだすなんてことをする必要もない。自分に注意を払っていれば物事の変容は見届けられるだろう。風景画のほうが好きだったけれども、今は違う気がする。気がする程度なので今思いついた突拍子のない、文字数を埋めるだけの提案である。僕はひねくれているのか。そうだとしてもそうじゃないとしても構わない。何がいやかって。自己アピールも嫌だ。自分で自分の首を絞める自傷行為の強要。この感覚のない人間が人事をやっているところもあるのだろう。何が大事かって。なんだろう。履歴書が大切なんだ。何をしてきたかが大切なんだ。それも、決められたことをしてこなくちゃならない。案外日本のほうが自由だ。外国はいろいろやかましい。ただ、執着心は外国人のほうがないようだ。自由への憧憬が強いのも外国だ。制欲も何もかも強いのが外国だ。つまりそれだけ不自由しているのだろう。憧れないほうがいい、身元がバレる。無関心がいい。それは心の平安のためにである。日本に住む者のほうがよほどに自立している。他人の助けを借りることは恥なのだ。外国では友情のきっかけになっても。外国と仕切りに言うが、私の頭にあるのは青い目と白い肌の人たちだ。肌に色が付けば違う。人種差別でもあるかもしれない。差別ではないと言い訳しなくちゃならないのなら、区別だという論法というほどでもない使い古された定型文でしかも一番覚えやすいものを使えばいい。おあつらえ向きに。日本人は嘘つきである、とよく言われる。嘘ではない。誠実でありたいがために、嘘をつくのだ。自己主張をしないのではない、分かって欲しいのだ、いわずとも。言わないとわからない人間は求めちゃいないのだ、初めから。日本というのはそういう場所だ。いや男がそうなのかもしれない。誓約的な集団を形成する。互いに尊重し合う。女々しい卑下は恥ずかしいことだ。恥というものがなくなってから、日本の男はただのわがままな子供のように見られる。近頃はそんな男見なくなった。自分がそうである気がする。日本男児なんて言われたくもない。非常に難しい。何が難しいって。まず捉えられないことを言葉にするのが難しい。おしゃべりばかりだ。おしゃべりのどこが悪い。悪いわけじゃない。むしろ称賛されている。しかし、それもまた煩わしいのだ。人から勧められる時、その人に気に入られたいから乗るのであって、まさか、納得したからというわけではない。まずは気に入られたいからである。私が本当に好きなことは、他人の好きなことでもある。他人の好きなことを尊重すれば、自分がしていることも大いに好きになれる。こんな簡単なことをわかっていてしないのはなぜだろう。わかっていることとすることは別だという。そうだろうか。わかっているということはすでにやってしまっているということではないか。飽きたのではないか。大人になっているということではないだろうか。早く大人になりすぎるとそのギャップに耐えきれない。賃金の発生から逃れること。それが僕の目的なのかもしれない。不潔だ。しかし、それなしには生きていけない。糞尿処理だ。それを体現しているのがトイレ清掃だ。小学生の時はトイレ清掃が好きだった。それは私が好きなことであって、他人は好まないことだったかもしれない。ばっちい感じがあるように思われたのは高校生の頃だ。小学生の頃は水やホースを扱ったり、白く泡だつ洗剤に心が浮かれたものだ。見飽きた教室清掃よりもずっと楽しく思えた。ところで、その過去は自分だろうか。何が自分だろうか。今ここで語っている私が自分なのであって、過去は何一つ自分ではないものなのだろう。そこを見定めている人たちは、生涯において何が自分のものになるのかを考えて行動する。それを動機にするように説得する啓発本で奇妙な文章とであう。ひどく納得がいくし説得力はある、だからと言って人を動かす魅力は何一つない文章。あったとしても、続きやしない。売れるか売れないか。それだけだ。説教が売れる時代だ。よほどうるさい人が減ったのだろう。静かな場所はうるささを求める。さらに静けさを求める人になりたい。静けさの先に何があるのか。また定型文だ、雛形だ。なんて情けない。この切り口も紋切り型だ。新鮮なものはどこにあるのだろう。恐らくはここにある。今目の前にいる。古いのはいつも自分だ。自分の目だ。自分の頭の働きだ。あるのは音韻だけだろうか。音に快感が付随される。音符のように和音があるのだろうか。日本語の文法にも音韻があるのだろうか。よほど自由であろう。規則を知るよりも、感覚を身に付ける方がよほど大事だ。規則に沿った人間がいたとしても、それを感覚として見についけているのとないのとではまったく違う。文法を知るよりも、その言葉を使ってみればいい。使いもしないのに、勉強だけしていて満足というのもまんざらではない。ただ目的を常に考えれば、言葉を使えることが大事なのだから、少しでもいい動いた方がいい。私もまた啓発的である。誰かの書いた本より自分の書いた本を読みたい。どんな物語を私自身は秘めているのか。それに魅力があるのかないのか。怖いから、誰も文字を書かない。書けないことを予見しているからだ。それによって傷つくことを恐れるからだ。恐れない人間は何でもするだろう。何もしないよりかはいい。しかし、それで形ができるだろうか。それもこれから先の私に引き継がれる。自分で自分をつないでおかないと誰かに繋がれる。また、繋がれるように動く。自由人とは拘束されることだ。まず、自分に一番自由である。こういう論理である。論理というほどでもない。感覚の流れである。語彙の持つ流れである。説得力のある文章を書くにはまず自らが説得されなければならない。その時に、批判的になれるか。批判を自らに課すことなしに文章を読めるか。批判とはまず何か。潔癖性である。批判とは潔癖である。汚れを見つけて指摘する。そういうものだ。人間は疲れていると休憩を求める。価値判断は本能なのかもしれない。何が良くて何がいいのか。トランペトの音が聞こえてくる。いろんな音楽を奏でるよりも、一つの曲を完成させる努力をして見たらどうだろうか。しかしこんなアドバイスも自由人には程遠い。何だっていいじゃないか。どうだって。誰も知らないんだから。誰も知ろうとしないんだから。黙っていればいいじゃないか。ただ、興味のあること、好きなことを忘れちゃいけない。気持ちのいいことを忘れちゃいけない。それだけである。セックスであっても構わないのだろう。それだけ喜びが増すのならば。あの疲労感でもいいのかもしれない。落ち着くのならば。いや、理由も排除しなくちゃならない。全てを否定しなくちゃならない。そうでなくちゃ物事の本質は見えてこない。本質がみたいのか。それさえもわからない。欲望なのが義務なのか。どちらなのか。言葉遊びなのか、肉体的労働なのか。ホモルーデンスは馬鹿らしくなったに違いない。だから、全てを遊びといったに違いない。彼もまた価値判断を身につけられなかったのだろう。あまりにも押し付けがましいので。下手くそなトランペットが聞こえてくる。電車の音にかき消される。ざまみろ。何てうるさいんだ。気まぐれな音楽は。気まぐれな曲は。聴いてられない。そして、俗だ。アニメや映画の曲ばかり。ここで私は女を語る。女は俗なものが大好きだ。俗とは女の異名かもしれない。何が新しいのだろう。温故知新の新しい方ばかり見ているだけだ。新鮮で潔癖なのだ。自らがそうじゃないから、それを求めるのだ。しかし、そうも思いたくない。そうでない。私は鈍っていなくちゃならない。相手の純粋さをみたいのならば。女がどうだといってみたところで、女は自分自身だとはきっとおもわない。言葉に捉えられない。遊びだから。自由である。しかし、自由とは他者の拘束を必要とする。