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壮大な地図を前にして自分の占める位置の小ささよ
愛は全てを壊して進んでいく。万物は愛のもとに怯えている。
音楽は僕の体を動かす。
愛ってやつは・・・・。
脚本家になりたい奴を軽蔑する。お前は脚本家になるんだ。作品なんか作れやしないよ。
自分の過去を売り物にしたくないね。
売り物にできるものならとっくにしてたさ。できないものばかりに興味がいったんだね。
貧乏してたらできない芸当さ
僕は世の中さえ、アホらしいと思っている。思い込もうとしている。そして、そうできれば。なんとアホらしい世の中よ。死ぬことのアホらしさよ。政治のバカらしさよ。地上波のテレビの白痴さよ。アホと馬鹿を愛してこそ。世の人は疲れ果て思考は外部に任せる。
危機と遊びが男を男にする 開高健
なるほどなんて言葉は使いたくないね。どこか、長文で言い返してやりたい気持ちになる。難しいほど楽しいものさ。簡単なことはすぐに飽きるもんだ。
凝縮された文章と、短文は違う。
僕は、バカ。
これは平明な短文にして無駄のない事実。
おそらくは、小説は想像では書けないはずなのである。想像で小説を書くことは難しい。人間の内的感覚の言語化に他ならない。その技法をうまく活用すればいい。精神分析の自動筆記は、そのものの思いつくことを吐かせるが、その簡素さを前に抑圧を見出すのだ。言葉が豊富であるほどに、人の精神は落ち着くもの。しかし、ものが二つになるのは、悪しきことであると葉隠にはある。また、一点集中は人間に安定性をもたらしアノミーの収束という現象として片付けられる。自分を見失うとは感覚的に自分の存在を感じられないということである。自分が普段の生活で地平を失うという状況を自らを喪失した感覚というのだろうが、もし存在の確かさを求め続ければ危険にさらされ2度と戻ってこれない場所へ連れて行かれることだろう。同じ場所にいて毎日が違う異質に耐えきれるのか。自己を見失うとは、安住に同居する退屈の別名であろうか。
人は否定され続ければ、起き上がることができぬ。耐え続ければ人は柔軟性を失いよだれを垂らしながら動き回る動物と変わらなくなる。そういった人間をたくさん知っている。目を交わし続けるほかない。見られているという意識を潰してやる気持ちでないとやっていけない。
僕はだんだんとおかしくなっていく。どうだろう。周囲と比べて僕は全くダメだ。周囲があまりにも立派で。僕は言葉を失い続けることになる。またそういう位置にいるべきであると納得した内なる自己は自己保存の法則しかり、本能からというよりも秩序の名に従って自らを地に貶める。
なぜ、小説も書けないのか。なぜ書けないのか。もう僕には想像力がないのだ。経験しかないのだ。いたずらな想像が何をもたらすのか僕は知っている。それは生きることへの恐怖だ。想像は危険とスリルを求める人間に備わった高貴な遊びであろう。安住していれば想像してその具現化に努め実際に体に症状が現れるまでに実態化させることに熱中するであろう。想像の貧困は、実際に不安を払拭するためにくるものである。しかし、お笑いは違う。周囲の理解を支えにしている。
僕の目は死んでいる。僕は僕の言葉に傷つきすぎている。もっと傷ついて最後には殺しちゃうだろう。僕が僕を殺す。自殺。自殺に芸術性を持たせる装いなど必要だろうか。僕は存在を欲していないのだ。荷が重すぎる。