アウトプット

相手の視点に立ってみよう

自分

 自分は難しい。自家中毒に陥る。仕事をしていれば自分と付き合わずに済むから幾分楽だ。友達がいればなお、自分は乱れ外ばかりに目が行き己の不憫さを忘れられるから友達の存在はこの上なく素晴らしい。友達は必要だというのは弱さからくるものであり、友達がいないコトを広言し、友達などいないと考える奴もいないことはないだろう。ただ少し奇異に映るものだから少々目立って女どもに気持ちが悪いと言われる程度だ。女が何を言おうと一向に気にすることはない。女は自らが欲するものさえも自ら欲することができないのだから。なぜ、女はあんなに獣のような様相をして仕事をして微笑むことができないのであろうか。彼女らはありもしないものをあるように、装うことに気が滅入って疲れ果て夢の中で悪夢を見る。そもそも友達のあるなしで人の優劣をつける思想に吐き気がする。友達が多いほど、友達なんて相手は思っちゃいやしない。思い込みが激しいほどに気持ち悪さは増し、それを周囲も同じように思い込みの激しい輩の集まりであるから自らの弱さを救うために絶叫する。自分がいかなる人間であるかの自己言及をする必要さえまずないのである。面接を仮定してどう言い訳しようか考えあぐねるのが嫌いでしょうがない。ハプニングでしか人は本音で話すコトもなければ、偶然が人間を必然性の拘束具から解放してくれる。気まぐれだと自分で思うのもやめればいいと思う。何一つ私を言い表す言葉がないように常に私は逃げなくちゃいけない。何一つ私は私を言い表す言葉に出会わなくて結構であると思う。そう思えるのも一つの思想であるけれども、それに幾らか性格上の傾向が顕著になるときに私が出来上がる。世の人の生き方を真似しようとするよりも、自ら考え動いたほうがよほど自由である。どこの馬の骨かもわからないものを拒否する考えは必ず持っておいたほうがいいのも確かである。私は人を相手にする商売が向いているか知らないが、あまり相手の欲望を手にとって眺めるのは虫が好かない。私は怠け者でいつまでも変わらず太陽は昇っては沈む世界に生きている。それだけに何か意味を見出してテーマを持ち計画し実行しぶっ壊す生き方が近代人の行き方とすれば、今を生きるよう努めるのが現代であろう。将来どうなるかわからないという古代人の気持ちを近代においても持ちながら得ている人間が時代によって行動様式を変えたとしても人間の本性であるからして不思議でもない。何ら不思議でもないコトをさも、おかしなことだと研究する人間がいるのもそれは好き勝手にやったらよろしいのだ。もし自由になりたければ人に自由を与えなければならない。そうでなくちゃ私はきっと自由を手に入れることができない。いや、確信である。私は自由を手にするために私は裏切られなければならない。信用を破壊しなくちゃならないそれこそが自由への道である。この道がいかなる末路を私にもたらすかについて凡人が考えるような恐怖を鵜呑みに生きるほど私は愚かで馬鹿なのである。自己卑下をするなと言い聞かせながらせずにはいられないこの気性を根絶やしにしてやりたい。人間は思い込みではなく真なる動機から動くものである。そうでなくて何も動けやしない。やる気が出ないと嘆くのではなく飽きたのだから別のルートを探せばいいだけの話で効率を重視すれば人間のほうが非効率的になるという相関関係にあって、一体どうすれば素晴らしく生きられるか謎と愚問を叩く暇があれば本を一冊でも読んで少しでも外へ歩いて見ればいい話にすぎない。未来は我の手にありと自惚れるほど陽気でもなければ占いにあるほど私は自由を愛しているわけでもない。それが普通の人間であると言い切るほど私は普通の人間でありたいと欲している証左になるわけでもない。私は私を語りたいとも思っちゃいない。人々の思考が固定化しているのを感じるだけだ。私は諦める力があるが人々は努力が実らないことを嘆き恨む。それを感じる私はただ疲れるだけなのだ。しかし、立派な感受性とも言えない。感受性など私は持ち合わせているのだろうか。おそらく持ち合わせちゃいない。感受性といったとき私はもう感受性を捨ててしまっている。入れ物を見つけても中身を伴わない軽いものなのだ。一体どうしてこうなってしまったのかよく知っているのに動きもしない。動くのは私ではなく他者であると思っている。他者はきっと動きはしない。だから、私はダメなのであると太鼓判を押して自暴自棄になる程の面倒なこともしない。どうすればいいのか。嘘ばかりついて生きていれば嘘もまことになるのがこの世の習いならば嘘ばかりついてしまえと、踏ん切りがつけば私もくだくだしく誰も読みもしないこのブログに熱心に肩がこるほど文章を書きあぐねる真似もしないだろうと鷹をくくっているだろうけれども、私ほどに私の言葉を信用しないものもいないのだ。だから、近頃はもっぱら沈黙によって真実なりとも自らの態度を表明しようという行為にうつつを抜かし言葉への反応を失いつつあるのだけれども、考えてみれば意味が統一化すればそれは言葉が人間を枠に生えて踊り出す世界が浮き上がってくるのである。カテゴライズすれば人間は必ず安定し社会において安定をますます求めくだらない些細な規則を多く作り、それを重宝して次第に神経質になり生きるのも嫌になって川に身を投げることもないのだ。電車に身を投げて体が砕けたとしても、言葉は残り続けるしかないのだ。一体言葉に身を捧げるのを誰が進んでするだろうか。言葉とは私の代理であるとすれば、私自身の出る幕がないではないか。私はセリフを吐いてもそれを相手がどう受け取るか私が甘受しなければ全く意味がない。言葉は受け手の反応なしに全く意味がない。言葉をここにいくら書こうが他者に読まれることなしに私は何も書いてないのに等しい。以上の理由によって自らの言葉を自ら添削しなくてはならないことになったのだ。私は私の言葉を添削しながら模索しなければならない。他者は私自身となりうる。文章は素直に描かれる必要があるのだ。そうでなくちゃ私は私を他者として書き出すわけにはいかない。私は本音を重視しない。本音がいかなる形を取ろうともそれは理想と何ら変わりないと考える。疲れたといわれたら、眠ればいいと返すだろう。私は一体基地外になりつつあるのかもしれない。この世からニュースがなくなれば世界は平和に違いないのだ。怒りだとか我慢をしている人間ほど怒りっぽい人間はいない。優しい人間は忍耐力があるのだ。そして、優しい人間が増えてそれで社会をよくしようなどと考えるのは基地外の発想だ。一体人が優しいだとか怒りっぽいだとかどうでもいいことじゃないか。好きなように人を殺せばいい。できるもんなら、やってみろと言いたくなる。しかし、挑発は気持ちがいいと思えるのも、悪い酒に酔うのと変わりなく、何かこう静かなところに行きたいのだ。静かなところで静かに過ごし自らの精神を休めてあげる必要がある。私は私の人生からうるさいほどに次何をすればいいのかと聞かれて殺意が沸くのだ。私は、人生にうんざりしている。それは死を意味しない。死は憧れである。老人になるのが嫌だ。こればかりは私以外は皆嘘で塗り固めて素敵な老人になるのを夢見ている。老人なんて付き合うほどに老獪な奴ばかりでうんざりしてくる。奴らにあるのは、使い古されたビンテージと呼ばれる面の皮の色しかない。私は一つの結論にここで着地するかと思えば、飛翔する。決して止まることを知らない。止まれば爆発し私は永遠に凍結され動かなくなるであろう。私の姓が硬直化すれば私は実際に生きている意味を失ってしまうだろう。誰か私を助けてくれと心の底で思いながらも気力も体力も耐え目的は根こそぎ失われ愛のためにいかなる苦痛の元にいようとも私はこの苦痛を愛し続けると決心したのだから。私は彼女を愛している。彼女が妊娠していれば私は子供を育てる。何を当たり前のことを言っているんだと、私自身思う。しかし、その決心をここに書くことに何か意味があるような気がする。私はすべてのことに意味を持たないし意味は人の思考力を硬直化させユーモアの精神を奪わせる地獄への扉のようにしか思えない。どうして人々はユーモアの精神を忘れて子供のように退行して金をもらってはくだらぬことに投資し個人のすることだからいいのだと、胸を張って言い切るのだろうか。私は他人の趣味に大いに口を出すのも自らの趣味に絶対的に自信があるからに決まっている。またそうするのも、好き勝手しているからいいだろうと考えている連中などいなくて、大方相手を見下げているのだから。これは偏見ではないのだ。偏見というのはありもしない相手の感情を私がでっち上げることだ。これを私は糧に相手に対して挑みかかっていくのだから私のとってエネルギーであることに変わりない。私はいかなる精神を持って今後生きていくのかを自問自答するほどの気力も体力もないのが今の状況である。いかに生くるべきか、そう考えるとき私は人生が遠くにあるように考えられる。人生について忘れたとき人生は私のところにやってくる。相手が好きであればあるほどに相手は去っていく。これほどわかりやすい人間の素晴らしい関係について、集団と群衆で友人関係を偽装するある種の群れは、彼らの噓いつわりを飯を食べる儀式やらバーベキューにて確認するんだろう。焼肉が焦げ、誰が焦がしたのか犯人探しが始まり、俺じゃないと否定しながら戯れる。何ともつまらない世界がそこに展開されるのだ。ただ信じられるのは太陽のみだ。太陽と肉と炎。それだけが私を救う。私のとって絶対である。私は人間関係を信じない。人を信用しない。それは私を信用しないでくれという意味と同じことである。なぜならば、私は人から信用されることである種の義務を背負うことになる。私の背中にからうものは私が決める。以上。さらば、青春!さらば、人生!人生などちっとも美しくなければ、人生の良さを説く連中の性根は腐ってる。人生は、君らに教え込まれなくても輝いていたというのに!