アウトプット

相手の視点に立ってみよう

THE MANZAI 2018

 面白かった。でも、それだけの芸人に比べたらウーマンラッシュアワーは、それからを作った漫才で面白いのかどうかではない何かデットクスしながら笑うしかないという状況を作り出したようだった。人間、思いがけないことがあると笑うのだ。笑うことで自分を防衛するのだ。だから、笑いはもっと実際的なことに使われるべきなのだ。小学生の時の話だとか、ゲームの話だとか、今がなさすぎる。だから、M1のジャルジャルのネタは確かにやると面白いが、設定は平凡であった。小学生の時の自分たちを思い出す格好でないと国分ゲームができない。別に、今いきなり国分ゲームをしてもいいように感じるのだが。

 あーどうでもよくなった。だいたいニュースを見ることで自分の心の声は聞こえないようにシャットダウンするわけだからいいわけがないじゃないか。ドラえもんそうだろう?せっかく、新しいメディアができて自分の疑問を追いかけていける時代になったのにもかかわらずだ、未だにテレビが力を持っているのが相当おかしい。それに、独裁政権のような風貌で、少しでも悪いことやったら大臣なんてやめたほうがいいのに、国民の代表でもなんでもない。ただ、税金にたかってるおっさんどもが最強の怠け者だと思うのだ。仕事なんて暇人でも務まる。暇なときに何をするのかわからないやつが多すぎる。ゲームだとかレジャーだとか、それすらルールに則ってるじゃないか。もう、自由なんて言葉は流行らないんだろう。どこも自由はない。仕事を辞めても仕事をしていても自由である。信念だ。そうそれしかない。衝突がなければ自分の内奥のものは手に入らない。それが必要か疑問ではあるが。さて、私はどう生きるべきか。人生は乗り越えられるべき何物かである。人生について語るやつが大嫌いだ。人生も人間も乗り越えられるべき何かである。そうでないと、同じところを永劫回帰しているだけだ。同じ毎日は、死んでから再び生まれるときに同じような人生を歩むこと、人を愛したり憎んだりして疲れ果てお腹がすいたり食べ過ぎたり、そんなことを繰り返すのが人間だとすれば、だとすればだ、思想に関しても思考に関してももはや、安定をそれだけ求める社会であるとすれば、人がどれだけ人に対して愛がないのかわかるはずだ。チャレンジ精神が日本にないのは、遺伝子のせいでもない、ただ、日本人が狭い国土で互いに相手を好意的に見るほど馬鹿になれないからだ。だから、身動きが取れない。ああ、死んだ顔をしていきてやろう。それがどれだけ素晴らしいのか。馬鹿はこぞってパーティーをする。それを自慢するまでが欲望である!欲望とは自慢である!

 さて、それで俺が何を言えたっていうんだ。欲望は自慢だ。それがどうした。自慢が見にくいか?自慢させることで相手に欲望を植え付け活力ある消費社会を実現したではないか。何か問いかけるほどの問題提起があるのかね。消費社会で金を稼いでゴミを買うために疲弊している人を見るほどに馬鹿がていることはないね。表現も汚いし誰も聞く耳を持って聞いてくれない。仏説にもあっただろう、他人に合わせて話せとあっただろう。それを忘れたのか。

 忘れてんだな・・・。