読むべきネット記事なし

  ネットの記事を見すぎて頭がおかしくなりそうだ。自分の気持ちがわからなくなっていくのがわかる。感覚の伴わない実践が頭の中に増えてくる。もう何もかもわからないのだ。ネットの何が楽しいのかもわからない。物事を決めてかかっているものばかりじゃないか。どれもみんな物事を分かったつもりになって記事を書いているのがよくわかる。取材なんかしないでネットで拾った情報の寄せ集め。疲れた。だからどうした。不倫したからどうした。世の中の反応を見て喜んでどうする。もうどうでも良い。ネットなんかやめちまえば良いんだ。自分で考えれば良いんだ。ネットの情報は最終的には何の役にも立たないじゃないか。今のことを知ったとしてどうする。

自由

とーん、日が落ちて

空が真っ暗になれば

自由の音がきこえる

虫はなき、月はひかる

みんな眠って、私一人起きる

寂しささえ眠ってしまって

私一人起きる

自由は私に退屈を申し上げる

そして、悩むのさえ自由に

限界もなく、制限もなく

血を夢見る私を

自由は喝采する

風呂場で倒れて、血に浮かぶ

見上げた天井は、アクリル板

人間であるのを、やめて

肉体からさようならをして

さて、どこへ行こう

さまよえますね

私はいっこうに、暗い

ないもをねだる

今の自分を憎む

どこへ行こう

どこへも行けない

自由は、

水でもがく私を

助けてはくれない

死ぬのも自由

 

現代について

 人目をひくようなタイトルにはよく見ますが、あまりまともにかけているとは思えません。何年か経てば、色あせるような意見ばかりです。話題も、そうです。今はインターネットですぐに10年前の世の中の反応なんかを調べることができますが、わざわざそんなことを人間はしません。今ある対象について何か述べてそれを公の記事かなんかにするほうがよほど楽しいでしょうから。面倒なことは、他の人に任せて自分は取材して人間から得た情報で世の中を語るのです。ときに、それは間違ってもいません。しかし、間接的な情報であるのですから、その情報は私たちを欺くために流されているデマの可能性だってありうるわけです。例えば、覚せい剤を打たれて意識が混沌としているときに、警察官がやってきて、それがゾンビに見えたから逃げるといったように、デマは、デマを流した人間の思うように情報に反応する人間に対して非常優しいのです。それが、世間です。学歴が良ければいい会社に入れる。いい会社ってのは、そこで働いている人間にとって快適であるだけであって、その下請け業関係者の努力なりがあってなりたっているわけですから、だれしもいいところに入りたいと、トイレの掃除なんかしたくないと思っているわけであります。そして、そのような仕事をする人間を無視するのです。なんと悲しい話でしょう。私は今でも忘れないのが、道路の交通を仕切っているおじさんの肌の黒さからかその苦労を思いそのような仕事にはつくなよと言ったある人の言葉です。職業により人間を差別するのはよくありません。自らに偏見があるのを知らないで生きるのほど苦しいことはありませんから。今の時代、本当に偏屈です。過ごしにくくなりました。少し前の記事に、韓国の結婚式で友達をお金で雇うという記事が流行り、私たちはびっくりしましたが、もはや、遊び友達をレンタルできる時代です。要するに、文化は均質化しているのです。もう、外国なんんてどこにもないのかもしれません。とにかく、アメリカ、欧米、並びに韓国とは同質化しているように思われます。私にとって面白いのは、断然東南アジア並びに南アジアです。景色から何から違います。文化も文字も違います。タイ語は非常に難しい言語を持っています。私はタイ語の文字の区別がつきませんから。分からないことに首をつっこむのが私の生来備わった厄介な性格です。わかっているようなことが、その分あるのかもしれません。私は、わかっているようなことを分からないと言ったほうがよっぽどマシなように思われるのです。何が良くて何が悪いのか私にはわかりません。では、人殺しは悪いのか悪くないのかという質問がありますが、例えば、それが北朝鮮の装飾であれば、英雄になるのではないでしょうか。もちろん、その後戦争に突入すれば余計なことをしやがったとなるのでしょうが。しかし、目立ちもせずのろのろ歩いている人を殺すのはどうでしょう。これは、殺されて悲しむ人がいるからダメです。しかし、金正恩が殺されたら悲しむ人もいるでしょう。悲しむ人を基準にはできません。要するに、善悪の判断で人間は動いていないということです。あれが良いとか悪いとか、後からのこじつけ次第です。もし、あなたが素晴らしい作家であれば過去の思い出も全て楽しいものにできるはずです。記憶は何度でも再編集されるのですから。記憶はいつも、編集されるのを待っているのです。なぜでしょうか。思い出す必要があるからです。その必要性は誰の要請によるものでしょうか。多くは自分の欲望を減退させること、そして少しの自慢話でありましょう。人は自慢したがるものです。相手の話を自慢と捉えれば不愉快が残ります。相手より自慢することが多ければ鷹揚に構えて相手の話を聞くこともできます。そのくらい人間は自分に気を使って生きているわけです。そうでなくちゃ、とてもじゃないが、怒鳴らずにはいられないでしょう。冷静に物事を見るのは本当に大変な作業です。

世界情勢

 北朝鮮が9月9日に大陸間弾道ミサイル発射の実験をするかもしれない。どの方向に向けて発射するのかが重要になる。もし、グアムの方角であればアメリカはどう北朝鮮に圧力をかけるのだろうか。いきなり有事になることはないであろうが、北朝鮮の陸地のどこかにミサイルを発射するかもしれない。しかし、ロシアが話し合いにより温和に解決しようとする姿勢だ。一体どう事が展開するのか全く分からない状況である。危機感は今の所ない。食料が不足しない限り人間は大して危機感を覚えないように遺伝子に書き込まれているのかもしれない。私自身、北朝鮮とアメリカが戦争すれば、その時の日本人の空気感を見てみた気もする。むやみに戦争をして人が死んでも、日本人は誰も悲しまない。なにせ、日本人は生きるのがとうの昔に嫌になっているからだ。死んだとしても、それが、生きることと比べてどちらが辛いのか比較検討してみればすぐに答えが出る。死んだほうが楽だ。格安航空が空を飛んでいる。値段が安い分、どこか機体が壊れてるんじゃないのかと思わないでもない。しかし、墜落したとても、旅行先についたとしても、どっちでもいいじゃないかと思うのだ。それは、たぶん私だけだろう。私は飛行機がちょっぴり苦手な飛行機大好き人間だ。私は、前の記事にも書いたが、二つの相反した意見を常に頭の中に持っている。この二つに誑かされ前に進む事ができないでいるのがいつもの私だ。果たして、進むべきか、それともとどまるべきか。果ては、引き返すべきか。いくつも暗算しなくちゃならない。どうせ、振られるのならここで楽していようだとか。振られないように勉強しなくちゃだとか。勉強もしなくても振られないだろうとか。勉強しても振られるだろうとか。優柔不断であるのは確かである。人に合わせたほうが楽だ。つまり、何か自分の行いを言いか悪いか言われるのに耐えられないのだろう。いつも思うのだが、人が何か行動をしているときそれにお伴するなば、全面的にその行動を後押しするべきであって判定者になるべきじゃないと思うのだ。そうは言っても見ても、人はどうしても判定してしまうものだから、人を変えようと思うような気持ちは捨ててしまって、さっさと自分についてあれこれ考えて悩んでいるほうがよほど気が楽じゃなかろうか。自分を抱いてくれるのはやはり自分が一番うまく抱けるわけであって、オナニーに関しても、人の手では加減がよくわからず、自分の手がよく強さをわきまえて射精してくれるものなのだから。注意するべきは、私たちは本当に感覚をもっと表に出して書くべきだということだろう。写生文と言って、見たものをそのまま書くのかと思えば、夏目漱石曰く、子供を見る親の目で世の中を眺め見渡すことらしいので、なかなか言葉とその言葉の実践の内容が想像もつかないので、とりあえずは、写生文とは、冷静な気持ちでなおかつ稚児をみるようなあたたかい目で、色眼鏡を捨て去り、あるがままの心情に浮かぶ景色を書くことであろうと思う。そうすると、本当に見たものを書くという意味の純粋性により近づくのであろう。夏目漱石の注意喚起したところによれば、人はどうしても自分の都合のいいように、もしくは、悪いように書いてしまいがちであり、どうしても、もっと落ち着いてものを見ることができないという。これがお金になるのか、ならないのか。自分の役に立つのか、立たないのか。そういった目で物事をみてしまう。元来、原始人であった私たちは自分の生活の役に立つ道具を発見しまた、作り出すことで生活を楽にしてきたのだ。楽にしたい気持ちが、ものを役に立つか立たぬかで見る目につながるのである。しかし、役に立たないものをどうみろというのだろう。非常に難しいではないか。考えてみれば、自分に関係のない役にも立たないものを書いて何になるのだろう。空き缶を熱心にスケッチするときに、私は、自分がよくものを見ていないのに嘆いた。じっくり見なくてはいっこうにものは見えてこない。見えたと思っても、まあ見えたりない。特に、グラデーションについて微細に白と黒で陰影をつけ立体感が出るが、それでも線は歪んでいたり、大きさがおかしかったりするものだ。年をとるにつれて、世の中のことが少しわかりかけたなどと思って、すいすい得意げに泳いでいると足をすくわれる。何歳になっても、努力はするべきであるし、努力は楽しいものである。何も知らないでいるという自覚がいかに人間を豊かにするだろうか。何かを知っているといううぬぼれが、知っているものにしか脳が働かないで世界を狭めてしまうのもどうしてであろうか。例えば、今日見たはてなの記事である。「20年引きこもっていた友人が就職する」である。20年はあまりにも長い、就職は非常な困難が付きまとうであろうが応援する。20年が無駄ではなかったと証明してくれ、などと言っている。価値基準が彼方にある限り、もうこちらはお手上げである。第一に、友人もまたバカで、おごってやるといわれているのだから奢って貰えばいいのだ。少年ジャンプのセリフのような幼稚なことを言うくらいなら、いっそ食べまくってやればいいのだ。男の尊厳を少年ジャンプなんかにおいて欲しくはない。嘘なんだから。文章を読んでもらえるかどうか、大きな割合を占めるのは見出しである。タイトルは、文章を大きくまとめたものだ。今私はのつけたタイトルをみると「世界情勢」とある。世界とは、私の周囲の言語環境を言うのであろうか。私は、自分の体験したことのないのを口にするのをためらうたちの人間であるが、それはあまりにも人間の想像力を狭くしているように思う。経験は、ときに人を盲目にもさせる。太平洋戦争に勝っていれば日本はいずれもっと大きな失敗をして立ち直れなかったと思うのだ。負けてしまって、ようやく日本は正気を取り戻したかと思える。そして、狂気は北朝鮮に綺麗に温存されていたと見るべきであろう。ヒステリックさを北朝鮮は象徴して実際に行動に移している。この点は、本当に面白いと思うのだけれども。北朝鮮が嫌われる理由も、人間が嫌われる理由も大して変わりないのではないか。あそこは、国家体制は悪いがここ人はいい人間だと言われることもあるかもしれない。逆に、国家体制は良いが人は悪いと言われることもあるだろう。しかし、国家体制などを表に出すような国はやっていけない。内輪揉めを、隣近所に見られて恥をかいているだけだ。恥が多すぎて厚顔無恥になっているのが今の北朝鮮であろう。非常に繊細な国であるのは確かであるように思われる。バカみたいな顔したブスを将軍などと呼んで、とてもじゃないが、あれじゃまともに戦場で活躍できそうにない体をいかに駆使するかと思えば、部下の手柄を拍手で迎えテレビが将軍の手柄だと騒いで国民は唖然としているのである。北朝鮮国内に住む人間の動向が全く入ってこないのが、私たちにとっても苦いところであろう。いずれにせよ、北朝鮮が明日ミサイルをどこに向けて発射するかである。もしかしたら、ミサイル発射さえしないかもしれない。気まぐれだから、北朝鮮はやりきれない。

偏狭

 僕の精神史について書くね。でも、とても長いと思うんだ。だから、書けない。書いてもそれは正確じゃないからちっとも僕じゃない。でも、そんなつまらないことを書こうと思い立った一瞬の気まぐれが僕であるのは確かだ。僕は気まぐれだ。そして、世界に無関心を貫いてやっと生きてる。もし自分が世の批評に立たされれば、たちまちにして恨みを買うだろう。ズルしてるってね。いかにも、僕はズルしてる。だから、ずる賢いというわけか。自虐にしてはつまらない。生きるのに血眼になるよりも、あっさり死んじゃいたいね。真剣に考えるから行動もできない、仕事もできない。あれこれ計画的に物事を考えすぎるせいかな。じゃゴールってなんだ。計画がなければ、達成もないものだ。ゴールはないのだろう。先にゴールはない。ゴールは常に今ここにある。今ここでシャワーを浴び外へ出ればいい。だから、外へ出る。

生きていて申し訳ない

 もう少し身勝手に振る舞えられれば、私も生きていて申し訳のない人生など歩まずに済んだのだろうと思うのですが、私も立派な日本人だなあとつくづく思うわけであります。人の人生を誰かに気を使って生きるのは本当に嫌なことだと見にしみて思います。まして、ご機嫌取りのために労力を使い果たして気疲れするなんてありえません。飲食業がやたら多すぎるのです。料理くらい自分で作ればいいじゃないですか。なぜ、外で食べたがるのか全くわかりません。たぶん、自分で料理をするというのができないのでしょう。実に、かわいそうなことだと思います。それよりもずっとかわいそうなのは私です。私は、いっつも世間から私を見ています。もう言い訳の余地もありません。私が働いていない理由は、私の身から出た錆でございます。それを、私は人のせいにするのですかららちがあきません、お先真っ暗です。ニートでもなんでもないのが私です。学生ですからニートではない、といっても歳は食ってるわけです。留年はしまくっています。それをなんと嘆けばいいのでしょう。世間の側の常識に自分を当てはめて考えれば、私はとうの昔に終わった人間なのです。そんな終わった人間と一緒にいてくれる人に対して、私はつれない態度を取ってしまったのです。なんともまあ、身勝手なことでしょうね。あんなによくしてくれているのに、私は自分勝手に振る舞ったのです。ある意味振る舞うべきして振る舞ったのです。私は嫌われたいのでしょう。なぜならば、彼女はもっと金持ちでいい男を探すことができるからです。私はもう金はないし、これ以上に優しくもできないと思います。さて、私が限界を超えられないと感じた時そこで身をひそめればよかったのです。いささか早急な考えに聞こえましょうが、そうなのです。いったい私には長生きしようという野望もなければ、何かを買うために汗をかいて努力するような、人参を目の前に一生懸命走る馬になりきれないのです。なんとか衣装のないことでしょう。これじゃあ、救いようがありません。暴れてくれればまだ、見世物として金は稼げたでしょうが、何せずっと眠っているのですから見ていて面白いはずもなく、それでいて、不幸そうな顔をしているのです方近寄りがたいのは確かなはずです。ところで、私はの読書遍歴という本を三島由紀夫やその他の作家が本を出しておりますが、私が思うに、どんな本を読んだのかでその人の性格は一応はわかりますが各々理解に差がありますので、読んだ本の傾向がどう表に出るのかはわかりませんから、一応互いに話してみる必要があると思われるのです。最近は、とんと本の面白さがわかりません。どうして自信を持ってこうだと言えるのだろうかと、そう思わずにはいられないのです。占いによれば、私は矛盾を抱えて一生を過ごすようにできているらしいのです。他人の意見の矛盾をついたからといって、その他人はどこ吹く風で矛盾を矛盾と思わずに生きる世の中ですから、ちっとも役に立たない性格を持って生まれてきたわけです。ソクラテスが矛盾論法で人々の楽しいおしゃべりを邪魔して白けさせた時、ソクラテスは言葉が持てあそばされているのに憤慨したのではないかと思います。いいえ、ソクラテスは言葉が弄ばれて本来の意味を失い、言葉を言葉として感覚の上に呼び起こすことができなくなったのだと思います。語感をなくしてしまったのです。なんという悲劇でしょう。言葉を生業に生きているのに、言葉を感じられなくなるとは。悲しい話です。彼は、死刑判決をもらいました。もらったからには、その死刑を受ける。逃れることはもちろんできたが、言葉の意味するところを忠実に自ら再現したのです。例えば、国家の警察機構が機能しているのかを確かめるために自ら犯罪を犯すような人間がいるようにです。自己懲罰的な性格であると周囲は見るのでしょう。しかし、実直なのはそのような人間です。彼らには、世間がないのです。世間が馬鹿馬鹿しくてしょうがないのです。それは、世間を見下しているからなのかもしれません。理解しようとしないところからきているのかもしれません。事態はどうでしょう。わかりません。とにかく、私は何一つ自信を持って物事を言えない立場にいるんです。では、何か立場を与えられたら物が言えるのでしょうか。言えるとすれば、そんな精神でいいのでしょうか。例えば、被害者になったからといって加害者の顔のまずさまでけなしてもいいものなのでしょうか。現代のせいんしてもいいのでしょうか。あまりにも、自分のせいにしすぎた時反動として他人のせいにしてしまいます。しかし、一面的にその批判が間違っているわけではないような気がします。私がそのように世界を見ているということでしょうから、当然に、世界について語ることは自らの認識を公にするということです。ですから、私は世界について話すことで回り回って自分についても話しているのです。そして、何一つ私が確信を持って文章を書けないことに苛立っているのをここに書き、なぜ、他の人間が自信があるように見えるのかを考察するべきではないでしょうか。つまり、自分に自信がないのです。私は、周囲を欺くよりも自分を大いに欺いているのです。ですから、私は何を言っても私がそれを信じないという事態に陥っているのです。この処方箋としては、計画を立て行動に移すことでしょう。これのみ、私が救えるのは、唯一それだけです。ある事件についての感想を書いて他人の意見を求めるようでは、性格を他人に預けるようなものです。他人抜きに自分について考えられないのは、とても不便なことのように思われます。例えば、私の考える周囲から見てなぜこの人は退屈なことに悩んでいるのかと思われる時があります。しかし、それについて理解をするのは、自分ももちろん不安になることでしょう。そこに、同じ世界に行きながら全く違ったような考えを持った個体に出会うわけです。それは、宇宙です。違った世界が私の世界の地平に開かれるのですから。不安でもありましょうし、新鮮でもあるように思われます。

 つまらない話はよしましょう。退屈な話は時間の無駄です。すぐにやめましょう。

否定

 否定する精神すら否定せよ。価値がないと判断して、何も見ない味あわない経験しない。それで得られた妄想がアニメになる。アニメのカクカク動く絵。不自然なセリフ。異様にテンションの高いキャラ。どれも架空。作り手が対象にみている虚妄。人への幻滅がアニメになる。宮崎駿なんてそうだ。彼は人が嫌いだろう。いいこと悪いことが頭の中にある。まあ人は人が嫌いだ。基本的に。だから警察官も軍隊も裁判官も拳銃も必要になってくる。猿と変わらない。猿は互いに殺し合うのだろうか。猿が殺しあったとしても、人間の地位が上がるわけじゃない。そもそも人間の地位が上がろうが下がろうが、人間様は自惚れなくちゃ生きていけないので、そんなちまちましたこと考えもしないもんだ。

 この意見すら否定せよ。物事を独断と偏見で判断していい理由があろうか。それが、正しいとしても全く面白くないではないか。そんな言論を吐くような小さな頭しているような人間とはおさらば。坂爪さんが言ってたが、「この地球を言えとするなら、みんな同棲している」このスケールの意味わからなさ。人は必ず意味のわからないものに惹かれていく。意味のわかるようなものは興味がない、魅力もない。興味と魅力だけで生きるわけじゃねーと叫びたくなる主婦もいるだろう。

 要は、自分の考えが正しいと考えている時に、一番孤独で、一番退屈で、一番何もなしえないということ。主婦はその傾向が強い。自分が悪かったと決して言わない。ああ言えばこう言う。それが主婦ってもんだ。なぜかって?自分の立場の弱さを強く自覚しているからだ。また、自分を貶める社会に根本的に嫌っているからだ。

 例えば、バカ右翼が自民党に投票して、バカ右翼を取り締まる法律を作るだろう。ヘイトスピーチ規制なんかがそうだ。政治もそろそろ退屈になってきたから、そういったバカどもがどこに行ったのか知らないけど。自分が疑いようもなく支持している人間に平気で裏切られる。ドキュメンタリーで沖縄の島から出てきた少年が東京で巻かないとして働き、接客に嫌気がさして独立を目指す先輩に引き抜かれ、その先輩を追って店を出たが、新しい店には客もこず昼間からyoutubeをみている先輩をみた少年が呆れるというストーリー。笑い転げてみたよ。

 人間は裏切られるんだよ。だって、期待しているから。期待しなければ裏切られない。当然の道理だって考えるよ。期待していた分安心しているんだからその見返りに裏切られたら、即さよならだよ。そうじゃなくちゃ、自由になれない。