女 

あー、クソ死にてえわ。腹いてー、女の子とわかったふりしてんじゃねーよ。お前なんかに女の子とわかりっこねーから、まじふざけんな。女はな。理解なんてもとめちゃいねーんだよ、女は常に俺についてこいってやつが好きなんだよばかしねわかれ。あーしにてーよな、男からしてみればそんなお荷物ポイポイポイだよ。やってらんない。趣味も価値観も合わせて脳みそ奴隷にしやがってっていう、怒りがぶち上がって火山噴火、火砕流に飲み込まれる前にとっとと、トンズラこいてやれってのが女だよ。商売上手だ、金を巻きとっといて、それをあいだあいだと叫びやがるんだから。男の方も楽な商売だよ、金さえぽんぽん与えとけばあいだとかほざいて互いに商売じゃないようにみせかけられる。なにが、風俗禁止だよ、金のやり取りでセックスしてなにがわるいんだ。自由恋愛だとかふざけたこといってんじゃねーよ。ホームレスと付き合ってセックスする女がどこにいるかってんだ。月の裏側にもいねーよ。

 ま、絶対ってことはないから、すくなくとも2、3人そういう嗜虐的なプレーをお好み表せれますマダムさんはいらっしゃるかもしれませんが。にしてもだよ、みつかんねーよ。ホームレスとただマンしてくれる女なんてよ。

馬鹿

 まず怒りくるうにも健康であらねばらなぬ。私は馬鹿である。私は馬鹿であるから今からの方言は完全に無視してもらって構わない。いや、馬鹿の独り言だと思って無視してくれ。願わなくたって、レスポンスがないんだ。一人劇場。目の前にはなんら観客がいないんだ。でもね、僕はいうよ。今の社会はクソだ!そうだろ。そうに決まっている。そうじゃなかったら、俺はもっとまともに生きている。そう、俺はまともに生きちゃいないんだ。どうだ。分かったかい。他者の目がないと、何一つ発言できないんだよ。なぜだろうか。考えてほしい。社会がクソだと言った時。こいつはおかしい、そんなはずはない。こいつは視野狭窄だ。いろいろ考えただろう。それが社会だ。いいか、お前らの考えていることなんて筒抜けなんだぞ。というとき、俺は完全に馬鹿だ。最初に言ったろ。俺は馬鹿なんだ。どうすれば馬鹿から脱出できる。答えは簡単だ。もっと馬鹿になるがいい。社会の既成概念、あえて、規制と書かせていただこう。馬鹿も天才もみんな等しくさせられるんだ。道路工事をみたことあるね。大きなローラーが道路を真っ平らにしていく。社会は道路だ。真っ平らにさせられて頭もクソになって、ついに、天才的なひらめきは社会の害悪として処理されるのだ。言わせてもらうよ、特に、女という装置によってね。キンタマ握られた男はどうしても、性欲から逃れられない。性欲の実現は社会においてマウンティングの材料であるのだ。女を物にするのは、家を買うだとか、車を買うだとかと同じ意味を持っているんだ。嘘だというのなら、君の女から生殖器を奪っちまえばいい。顔が可愛いからというの付属だ。どんなブサイクな女であっても、そいつが生殖器さえあれば価値がある。さて、俺がどんどん馬鹿になっていく。俺のような考え方は、悪魔だ!最悪だ!最低だ!下劣で人間性のかけらもない!そう言いたいだろう。現にそういう声が聞こえて来る。自覚している。しかし、これを言わなくちゃ気が済まないんだ。お前らの似非恋愛を見ていると特にそう思うんだ。えーまじでこれおもろくね、うん、めっちゃおもろい。俺は男なんだなとつくづくおもう。マウンティングのためにあらゆる戦略を講じてついにめんどくさがりから何もしないで、価値観の転換を図る典型的な人間だ。それをダメ男だと世間でどういうのかは、世間に結局は疎かった俺がどうこう言えることじゃない。世間がなんと言おうと、俺は世間を振り払って孤独に家族もみんな死んでしまって砂浜に一人、波打ち際で社会的なさざ波の音、つまり孤独、貧乏、貧弱、汚れを一身に身にまとって遂には朽ち果てるのだ。これが俺の人生だとすれば、俺の人生は最初からもう遊ばなくちゃ元が取れないじゃないか。真面目に生きて犯罪を犯す予備軍だったのかもしれない。最悪だ。これが俺だとしたら、最悪だ。精神分析的にあなたはこういう人物ですと言われて、俺は素直に喜べない。お前も素直に喜べない。ひた隠しにして死ぬまで墓場に持っていくか、酒の席で友達に診断書を見せて罵詈雑言を浴びせられヘラヘラ笑うことしかできない。つまり、俺は糞尿だらけになっても俺を愛してほしいんだ。それくらい、最低の男なんだ。だから、献身的にもなろう。ただ、世俗的な理性は持ち合わせていない。あの不満顔が、糞尿よりも耐え難い異臭を放って頭がくも膜下出血になったのかというハンマーで殴られたような不快感を覚えるのだ。スーパーの店員も、セブンイレブンの店員も、俺の目を見ようとする。まるでロボットのように、同じセリフを吐く。それを見ていて吐きそうになる。不快になる。俺もいつか、ああなるのだろうか。夜のイトーヨーカドーにいたミスドの店員のおじさんのように、俺もいつかあーなるのだろうか。夜まで働いて生活はかつかつ、友達もおらずさて、この国にいる意味が果たしてあるのだろうか。そう考えないではいられない。ある詩人を思い出す。ランボーだ。ランボーの地獄の季節。店員は死んだロボットのようだ。ロボットにしちゃ燃やせば焦げた匂いがする。タンパク質で合成されたロボットだ。意思があるのか。蹴りたくなる。意思はあるのか。やめたらいい。店の前には時給九百五十円で雇いますの文字。誰が時給で雇われてやるものか。イトーヨーカドーなんてクソだな、セブンイレブンもクソだ。そういう安月給で働かせてでも利益を出したいんだ。にしては、仕事に正社員並みの神経質と時間的拘束を求める。給料は雲泥の差だ。馬鹿らしい。そんなことするわけがない。公園で寝ているホームレスが清々しい。彼らの話を聞いてみたいくらいだ。ああ、世の中を嘆くのに僕の環境は適している。僕はどうしても弱い立場にいる。資本がないからね。おまけに親は大バカ者。この心知らず。この話は君たちには全く関係ない。どうすればいいのか。どうすれば君たちが僕の話を聞いてくれるのか。馬鹿らしい。君たちと同じ社会的な馬鹿にならなくちゃ、コミュニケーションはとれない。つまり、コミュニケーションんはある種の保守的な人間たちが生き延びるための社会的生命装置なんだ。コミュニケーションには共通感覚が必要だ。会社に勤めていて、上司がうざいだとか、電車が遅れるとイライラするだとか、そういうお話をするために感覚も同じじゃなくちゃならないんだ。特に、この国においてはそうだ。特に、趣味のない奴は金を稼いでも金を使わないどケチだから国を貧乏にする。大バカ者だ。そういう奴らを見ていると蹴りたくなる。本当にケチだからね。

ぼやき

 ぼやこうぜ。いろんなニュースがとめどなく流れている。どうでもいいと、思えるものがニュースだ。本当に関心のあるのは今日の晩御飯。犬になってみるがいい。君が人間だって、そう思い込んでいるだけだ。何にだってなれる。さて、病院に拘束されたことを理由に女が病院を訴えた。女は、摂食障害と診断されベッドの上で77日間過ごすことに。すばらいい生活。しかし、音楽は聴くことができず排泄も看護士立会いの元なされたらしい。摂食障害だけでこの仕打ちはないであろう。医師は、患者の秘密を守る義務がある。だから、我々は断片的なことから想像を膨らませなくちゃならない。女は精神も相当病んでいたのだろう。自傷行為も、フラッシュバックも、彼女の神経があらかじめそう彼女にさせていたのだろう。今24歳の彼女。当時は14歳。さて、人生はズタボロにされたとメンチを切った。80歳の婆さんの気持ちになってみよう。24歳に戻っちゃった。さて何をしよう!つまらない夫から逃れて毎日夜な夜な楽しく男と過ごしてどんちゃん騒ぎに甘いスウィーツ平らげておめかしして外に出よう。さて、14歳から24歳になった女。不幸のどん底。人生真っ暗。病院を訴える。よく言われる、精神の発達の段階。それが果たして発達なのか、ある年齢にみられる症候に至る段階なのかしれない。健全な男女は、おそらくビッグネームに耐えきれずに怪奇的な殺陣も起こしかねない。一番難しいのは、誰かの用意したキャラを被り続けること。自分はどうだ?社会がそんなに怖いか。日本人は、あいにく日本でしか生きられない。英語もろくにできないと決めてかかって、学ぼうともしない。仕事をできるだけ早く終わらせたいから、揉め事は少なくする代わりに酒の席で相手の悪口を大量生産する。こんな捻くれた性向を持った人間たちの集合体がこの島における社会で展開されている。別の視点から見れば、声が大きく悪口を堂々ということに潔さと捉えることでどうにか、この陰湿な者たちの集合体に清涼さを保たせている。

 24歳で人生がズタボロだと感じるのは、24歳にありがちな特有の将来への不安を、過去の後悔と結びつける非常に古典的な、そして因果的な見方をしているからだ。過去の自分の行いが未来の自分の生活に直結する。それは、一つの生き方だ。それを、ただ一つだと思えないので自らを追い詰め気分は滅入り、人生は文字どうりズタボロにするのだ。原因と結果のつながりを補強するために自らが犠牲になる道を選んでいる。原因も結果も、その因果関係から逃れる道を探すべきなのだ。自分は果たして過去の自分なのか。名前は変わらないが、細胞は入れ替わっているのは確かた。親は変わらないが、親の態度は変わり続けている。怒る時もあれば喜ぶ時もある。全てが絶対という世界は、行事の世界、儀式の世界だ。人間は、やっと、儀式から逃れて自分の孤独を楽しむ時間をもてるようになった。究極的に、寂しがりやなのだ。人は皆こじれている。それをまず自覚するがいい。自分が健常者だと思わぬほうがいい。西田幾多郎は、立派な哲学者であろうが、彼の人生は息子娘に先立たれる人生だった。立派な哲学であるのと、人生の豊かさは関係しない。いや、そうであってほしいという捻くれた、この風土に生まれた自分、そして、周りの反応から形成された自分という存在が、醜くてしょうがないのだ。果たして私は生きる資格があるのか。誰に対して?周囲は私はどう思うのか。見当がつく。もし、私がすばらしい印象であって他人もそれを求めるのなら私は一生そのキャラに甘んじて、自分で物事を考えることをせず常にキャンディーをあたえてくれる周囲の要望に沿って自らを、それだと思い込みすごし、偏見に満ち溢れ。嫌なところには近づかない視野狭窄にはまっていただろう。あいにく、周囲の人間は私に対いた期待はしていないようだから、それに甘んじて自分でも何もしないで流されるままに適当に気分よくいきている。どちらがいいのか、それは判別し難い。また、前者が良いとしてもそうは生きられないはずだ。それこそ苦痛だ。何がいいのか。人間は選択をして生きるという人たちもいるが、彼らにとっって選択が大きな意味を持っていたのだろう。あの時、あの選択をしなければ、という思いがひたすらに強いから、選択するのは大事であると思い込んでいるのだ。どちらに転んでも一生懸命に生きる人間こそすばらしいじゃないか。それで死んだって、それで華やいだとしてもね。つまりね、人間の生活はホームレスも金持ちもみんな一緒だってことだよ。違うのは、視線なんだ。他者から向けられる視線。ホームレスには軽蔑の、金持ちには羨望の。それだけが違う。ホームレスは、このまま長生きだとか病気だとか気にもしない。散らかっているだとかもね。金持ちは毎日嘘ばかりついてつまらない集まりに参加して、結局は金のために働いている。時間的な余裕もなく。池にダンボールの住居を構えたホームレスのように、水面のキラキラをみることさえしない。歩きながら話、マウンティングに長け、酒を飲んではカラオケで騒音をまき散らす。それに群がる、女たち。股を開いて子供ができたら儲け物。働きもせずに子供の世話をして可愛いと絶叫し、インスタに写真を投稿する。すばらしい世界だ。これが俗なる世界か。俗というのは、なんとすばらしい世界なのだろう。

 僕はね、散々こういうことができない人なんだ。相手を騙すのも面倒。生きるのができないんだ。金なんてあるに越したことはない。得た経験がないから喜びもない。時間を拘束されて生きるのこそ辛い。適当に妄想して生きているほうが、現実社会で繰り広げられているであろう、おびただしい幼稚で稚拙なくらい妄想よりもいい。蓮の花が咲いた晴天に布団を敷いて眠っている。それが私の夢。

馬鹿になっちゃったー

 なんかゆるいよね、日本。テレビばっかり見てるからかな。テレビなんか本当はみたくないんだけど。しかたないよね。理由は、書かないよ。プライベートなことだもん。それにしても、ゆるい。同調圧力ここに極まれり。今日はうんと暑い。外に出たくない。髪の毛が多くて頭が暑いから。外に出るとイライラする。でも、お腹が冷えると下痢しそうで怖い。お腹を壊すのが一番嫌だ。我慢できない時は脱糞するしかないんだ。しくしく。涙で喉が渇いたよ。水をくれ。水をくれ。壊れるにも悪くない。みんなも壊れればなおさら悪くない。きちがいが増えれば、生きやすくなる。人に迷惑をかけるなという人もいれば、迷惑をかければ金が儲かるという輩もいる。どちらにも軍配を上げて差し上げよう。ただし、苦しむのには変わらない。どういうことかな。世界はどうも、ゆるくなっている。冷えたお腹のように。いつ、トイレに行きたくなるのかわからない不安。それが、うんだかんだ病だと言われても納得などしちゃいけない。医者に命名されて喜ぶようじゃまだ不自由だ。自由は春の野原にそよぐ風だ。君たちは、どう生きる。嫌なことをし続けて不満顔で生きるがいい。俺はまともだと胸を張って常識という強固な壁の中ぬくぬくと外の様子も知らずに妄想に明け暮れて女の子とセックスもできずに死んでいくがいい。君たちはどう生きるか。勉強もせずテレビばかり見てセックス三昧に土日は金を湯水のように使い明日は明日の風が吹く、金を出さない江戸っ子の宵越しに付き合うがいい。人生は、すぐに過ぎ去ってしまう。あれもこれもしようと考えているうちに人生は過ぎてしまう。同じ日々を送っている人たちはまるで卒業のない小学生みたい。同じように考えて、同じように怒り狂い、そして、死んでいく。いつしかそれを伝統という。すっからかんを伝統という。もはや、伝統という言葉に力はない。しがらみとあきらめが伝統にはある。こうしてまったりと、好きなこともできず、たまに楽しいことがあるとちょっぴり嬉しい。それくらいが人生だと。大井田とか少ないだとかもない。日々を生きるのだ。変化などしなくていい。今が一番いいんだから。余計なことは考えるな。中世という時代から、学ぶこと少なき現代人は何も学ばない。学問は停滞し、新発見は避けられ自由は妄想は精神障害者となる。皆が精神障害者になれるのに、病的で頑迷な人間という人格の完成に終始している。それが今起きている事態だ。まるで中世のようだとは言わない。中世に生きた人間の頑迷さ。孤独が自由になる。集団はもはや、集団としての機能を十分に発揮して、集団の根底にある安定という名の不安を基礎に置いた恐怖を用いた統率を、例えば仲間はずれであったり、例えば老後の不安であったり、例えばホームレス恐怖症だ、それらを利用して集団は概ね自然に形成される。指導者は、憂いている。空に太陽が燦々と降り注いでいるのに、サングラスをかけて世界は真っ暗だと嘆いている。真実を見るのがそんなに怖いか。僕は自分がある種の偏見で世界を構築しているのを知るべきだ。私は何も知らないということをまさに知るべきだ。年をとったから、若い人よりも何もかも知っているといううぬぼれこそ役に立たない。年の功は嘘っぱちだ。散々いじめられてへこたれた人間の遠吠え。生きる術を知らない、赤子のようだ。泣けば母親が寄ってくる、喚けば周囲が自分に合わせてくれる。対して変わらない。比喩としてはイマイチ。書いてげっそり。痩せちゃうかな、五月の後半。暑くてかなわない。髪を切らねば、死にたくもなる。そんな火曜の昼過ぎに授業をサボってこれを書く。

はてなの気持ち悪さ

 何を書こうが自由であるというのは、間違いだ。それは俺にとっては非常に間違っている。読みたい記事を読むのであるならば、何も得られない。すでに、読んでいるのと同じだから。人は寂しい弱い存在だから、大きな存在に自分の意見を見出すのを好む。ツイッターで同じ考えの人に共感するという情けなさ。それを考えれば、現代人は予め、ネットにおいて全体で意見のある程度の共有ができており摩擦が起こることもない。そして、摩擦からイノベーションが起こることもない。現代は、新しいことよりも思いつきが重視される。つながりで、経済を回そうとしている。もちろん、談合も日常茶飯事になるに決まっている。自由な競争では、得をするのは金を持っているものであり、金を持たざるものはかつかつの生活を強いられる。

 はてなにおいて、ニュースの事件を取り上げて、分析する馬鹿を見ると、そんなことをやるにはてぬるい分析しかしていないし、読もうとすら思わない記事ばかりだ。だから、記事に何も求めない。自分の感情だとかを求めないのだ。そもそも、人はなぜ記事を読むのだろう。ニュースを知りたがるのだろう。マスメディアはあの手この手で読み手を獲得しようと嘘ばかり、刺激的なことばかりいい続けるうちに視聴者の感覚は麻痺して日常生活が不愉快な環境に知らず知らずのうちに変わっていくことに鈍感になっていくのだ。

 自分の熱情から出た記事であるならば、人も読んでくれるかもしれない。しかし、話す相手を考えるべきだ。ネットは時間、空間に関係なく記事が晒される。10年前の記事もまるで昨日のことのように読むことができる。その間、事件が変質し、人間も変わり世相の移り変わりを感じられないことはないであろう。人々の持つ当時の環境が記事に現れてくるのだ。一体どうして僕は生きているのだろう。僕にとって気持ちのいいことが、不幸であるとすれば僕はいったいどうしたら幸せになれるだろう。僕にとって不幸が当たり前のように、幸福なのだから。僕が幸福になれば、もちろん不幸も実現しているのだ。

 ある人は言うだろう。意味がわからない。何がいいたいのか。きみの想像力を働かせてみればいい。一度自分という枠を超えてみたらいい。捨ててみたらいい。対して値打ちのあるものでもない。金にもならない。世間の見えないつまらない常識に従っている自分のちっぽけさとくだらなさ、矮小さ、弱さを見たくないから、君は言う、意味がわからない、何がいいたいのか。この手のテンプレートなお返事には何と答えても差し支えない。わかりやすい言葉で話すことだ。この手の人間が嫌いだ。否、自慢話でもしてやろうかと思う。しかし、自慢話をすればそれは自慢でなくなる。自慢話は相手がそう捉えたら自慢なのだ。自分のひがみ、妄想、劣情を自慢話と呼んでいるにすぎない。

 現代は、死んでいる。自然の恵みを物にして人々に売りさばく。さて、どこが健康的であろうか。自然環境保全を訴えるのならば、経済は縮小しなくちゃならない。自然なしに、物は作れないのだから。つまり、現代人は地に足が付いていない。つまらない人間の総体を現代人というのだ。小さな派閥をたくさん持ち、本当の友達というのがあちらこちらでみられ。互いにつまらないルールで縛り付け合う。近頃、男が皆ホモに見えてきた。グループがそうだ。縛られる必要があるだろうか。女は男のグループに参入して積極的に金として役割を持つ。お世話をし、価値を見出した男達は女を欲する。女もうまくいっているうちは、機嫌よく愛想よく振る舞うだろう。その後に、男に気に入られれば美味しい話だ。馬鹿な男達を褒めたり、労ったり、たまには、下半身の快楽に誘ってもらったりと、好き放題。さて、どうだい、世の中をみわたしてみれば、しまりのない空気。現代は、平和な時代である。こんな時代の貧困は、貧困でも何でもない。つまらないので、死んでしまいたい、という気持ちになるのも当然だろう。ところで、気持ちというのを多用して使用するのはよくない。どんな気持ちであるのかを書くべきだ。最後は戒めで終わる。自分に対しての。記事は最悪だ。なぜなら、私が気分よく記事をかけていないからだ。何が書かれているのかではない、どう書かれたかだ。以上。

くるしゅうない。

 怒涛のゴールデンウィークが終わって一安心しているような気がする。自分の気持ちを判別するのは非常に困難で、確固とした意志を持って生きるのは非常に難しく、相手のことが好きであるのか嫌いであるのかはちゃんとわかるのであるが、私に分からないのは、どうして僕はこうもダメなんだろうと考えることなんだ。自分がダメであると考えるときは必ず、何かと比べているわけだ。そういうことを暇なくしている自分が情けなくも愛おしくもある。相手を、想定して常に喧嘩しているのである。なんという暇人だろう。まあ、いいのであるけれども。自分が何を考えているのかわからない時の手法として、とにかく喋ってみることが大事である。声を出してみるのも大事であるけれども、声には声色が伴うのでそれに拘束されてしまう。どうしても、本音が出てきにくいところがある。声色に、励ましを得られることが大いにある。どうしても、感情というのは作られたもので、好きだとか嫌いだとかも嘘であることがある。楽である。つまり、どういう思い入れを作るのかは本人である。怒涛の一週間はこれでひとまず終わりを迎えたわけであるけれどもね。

 しっとりと、自分の考える道を歩んでいくのも大事なことではないだろうか。自分以外の人のこと考えすぎである。大事なのは話を聞くことだ。しかし、あまりにも話を聞きすぎると自分が消えて無くなってしまう。言葉は、自分という架空の存在を維持させる生命装置だ。人は眠れば、自分で無くなるのも容易なのだ。言葉は、私を構築する機会でしかない。詩歌に含まれる、甘美な言葉も実感がわかないのは、自分の感情が枯渇しているからだろうが、感情が枯渇するはずもないのだ。常にあ、源泉は感じられている。それをせき止め制御している仕切りがあるだけなのだ。それは、緊張だ。筋肉のこわばりだ。筋肉は、記憶する力と関係していると言われている。多くの人は、記憶力はいいほうがいいというだろうが、嫌な思い出をいつまでも忘れられないでいるのはどうしたものだろうか。けろっと忘れてしまえる人は、人生楽であるし、力が抜けてしゃだつで、思い込むこともなく、自由に、涼しく、淡白にいきていられるのではないだろうか。いったい、自分が言い間違いをしないようにするために人間はどれだけ、自分の感情とは違った言葉ばかり喋っているのだろうか。学問とは、しらがみからの解放である。その解放された場所でさえも、拘束されている。小説では、社会を変えずに完全に、自分も変わらずに、ただ、環境を変えようとする。哲学は違う。自分と社会を変えようとする。小説は、あくまでもお酒であるが、哲学は、どうしてもお酒の延長線上にある。お酒を飲まなくても酔えるのだ。最高の美酒は水なり。そういうことだ。一体社会は、つまらない倫理観とか秩序を持ち出して、会話を成立させる。マスメディアも、ソーシャルメディアも自由な意見は、多くの大衆により監視され異端視される。それは、なぜか君たちにわかるだろうか。テレビでは、ある突飛な意見、例えば、山口メンバーは悪くない。という意見があるだろう。確かにそうだ。キスぐらいでわめく、女もどうかしている。酔った勢いで無理矢理に相手を押し付けてキスをしたのかはしらない、いったいどういう内容であったのかはちっともわからない。にもかかわらず、山口メンバーをせめるせめる。そして、今謝っておけば、そして、今山口メンバーについてとことん話すことで、山口メンバーは生き続けれられるのだ。君たちの心の中で。本当に変なことをしている。悪いことをしたのなら、誤って終わりじゃないか。金をはらったのだろうそれでおわりじゃないか。それを根掘り葉掘り、アル中なのか、性格がおかしいのじゃないか、大人としておかしいじゃないかと、とにかく、人々の様々な思いを投影させるスクリーンになっている。これくらい、おかしいのだ・・・。非常に難しいと僕はよく口にする。簡単に物事を解決するのは、難しいことではない。ただ、相手が拗らせようとしているのが見え透いているのだ。はい、と言えばいい。僕は別に嫌な要求は一切していない。金があるのならバイク一台くらいかったらどうだ。買わない。なぜ?別のことに金を使いたいからだ。おわり。これくらいシンプルな思考なのだ。しかし、これじゃものはうれない。ものを買ってからの環境を売りつけなくちゃならない。バイクを買えば遠くの美味しいものが食べられるとか、具体的に言えば、パトカーなんてぶちぎってやれるという話だ。どうしても、今の社会の置いて、公務員というのがあまりにも理想的な職業としてあがっている。現代の人間は、群れたがる。それくらい、見知らぬ他人との生活環境が、そしてルールが違っているのだろう。個人が持ち出した価値観に沿って生きている。それくらい、狭いのだ。狭いのは、社会じゃなくて、友達の中にいることじゃなくて、自分の考えている内容であろう。社会とは、私の心の中に出来上がっている生活形態でしかないじゃないか。どこに社会があるというのだ。自分の中だろう。決して外にはないだろう。体重90キロの脂肪がぶよぶよした女が女優になりたというときに、シンデレラは不可能である。しかし、エキストラとして出演して、エキストラ目線で自分が主人公になれれば、それはシンデレラではないだろうおか。それを、誰かに話すのはおかしなことである。誰かなしに成り立たないシンデレラに拒否されて、さらに自らも同じ位置にいるために、僕は何を言っているのだろう。山口メンバーのことなのに、国分太一があやまる。素晴らしいね。これだけ、相手をかばってやることができるのも面白いね。

残念ながら僕は常識人だ

 君たちが思うほど、ぼくは非常識な人間じゃない。むしろ、常識的でありすぎたから、君たちの非常識を笑うんだ。僕は、いたって、常識的な人間だ。退屈なほどに。多くの人は、常識的であるとかないとか言ってその人の行動を判断する。価値基準として常識を採用するのは、弱者の最後の武器だ。強者は常に社会的な立場を持つ。自らを空っぽにすることで社会の壁の中に埋まっている。哀れなのは確かだ。しかし、金と名声という基準を持っている。役にも立たない、ただの、哀れな価値観に違いはない。死んだら忘れられるのがほとんどだ。にもかかわらず名声を得ようとする、貧乏人同士が金の多い少ないを比べて自分を安心させようと懸命に金を稼ぐ。社会は哀れだろうか。私には哀れに見える。貧乏人に暇なし。それは事実だ。学問は、何もしないのが専門だ。何かしようとすれば、なんでもすることはある。それをしないで生きられるのが素晴らしい。がんばって、ゴミ拾いをして儲けはコンビニ店員の時給よりも少ない。そこにやりがいがあればいいという社会である。個人的だ。私は、かん集めなどしたくない。海外に出る勇気もなく、日本社会にしがみつく輩のなんと多いことか。人の不幸を自分の利益に換算する意地汚い女みたいな男が増えた昨今だ。相手を憐れむ心情をなくし、相手の事情を聞く度量をなくして、いったいどうして男たり得るのだ。金はあるだろう。女に物を買えるだろう。高級車も買える。広い家も買える。散らかり放題で、ろくに運転も上手にできず、君は女のATMになる。それでも構わない。俺は心の広い男だ、女の好き勝手させるのが、男として価値があるのだ。手を出したのは、女子高生か?人妻か?色気もなくて性欲だけがある。余裕がなくて、細かいルールばかりある。そんな人間は常識的である。自らも自負するほどだ。さて、君はどう思う。私は、こんな男は死に値すると思う。死んだほうがまだマシ。バカにもなれない、賢くもなれない、醜い男は死ぬしかない。そう、自分だけ得している気分の男は嫌いだ。男は傷ついて、死んでなんぼだ。それだけが、男を男にする。