ぼくたちは書く事で自由になる

 さて、きょうも面白い話を持ってきた。書かなくちゃ自由は逃れて行ってしまう。君が書く、今日会った事を書くじゃないか。場面が頭を流れる。そして、気持ちが乗る。それが安定をもたらすのだ。ぼくなんて、記憶の中に生きていると言いたいが、記憶を楽しむのは楽しい。記録したがるのも同じような感覚なのだろう。次々と事件が起こっていては相手にできないほどの量を処理しているのだから。きっとそうなのであろう。と、ぼくは思うのだけれども、誰もあんまり興味がないのかな。

 実家に帰ってやりたい事は沢山ある。とにかく走り回ろうじゃないか。沢山記録しようじゃないか。sdカードと充電器は必須だ。音楽も持ち歩いてね。身はひとつだよ。そして、編集してインスタにあげよう。かわいく、音楽もつけてね、そして、本を読みながら生きていこうじゃないか。

 となりのひとの、イヤホン越しの会話にも暖かさを少し感じたね

 みなうつむいてスマホの画面を見ている。

 ぼくのは、われてる

 まぶしいひかりが映る

 ぼくは周囲を見渡した、なんと綺麗な景色だろう

 冬の多摩川、茶色の河川敷に

 太陽はお休みに準備

 また、明日、また、明日

 君とまた会えるだけで 

 さみしいことなんてない

 

 ららぽーとで見たスターウォーズ

 眠くて前半寝ていたよ

 戦闘シーンは最高に気持ち良かった

 あと、かっこ良かった

 身のこなしが軽かった

 あれは、鎧に違いない

 赤い鎧の艶よ

 ぼくは涙した

 憎しむよりも愛を

 憎しみで勝つよりも愛であなたを救う

 自分一人でも突っ込んでいくサクリファイス

 つまらないニュースはタダで家でみられる

 さいこうだね

 ヨーダがあらわれる

 弟子が師匠をこえていく苦しみ

 失敗からおおくを学ぶんだ

外国時な、失敗とうまく付き合っている

ほかにも、テレビで

 君は難しい事をしているのだから、失敗も難しい事をしてからの失敗だ

日本人は、結果主義で皆同じ事が出来れば万歳だ。

こんな個性を殺して、偏屈な人間を作り上げ、常識にすがり、

怯えて怯えて、子供がデザイナーと契約すれば将来が楽しみと言い出す下水根性。ミヤネ屋は、精神衛生上のブラックニュース映像だ。テレビ業界自体が病んでいる。

 究極的に、自殺とは、世の中という幻想にとらわれた人間の覚醒である。

 あくなき探究心は結構な事である。それは、ものへの執着といかほどにちがうのか。ある、女を好きだと言って隅から隅までついていくのと、どうちがうのであろうか。再生医療で、手足がなくなり、臓器も壊れ、目みえなくなっても、大丈夫だと安心できるようになるだろう。それに向けて、科学は進歩するのだ。そして、盲目になるのだ。いったい、何を見ているというのだろう。ざわめきにうなされるだけなのに。それでは、おまえは目をつぶせばいいじゃないか。そうだね、目を潰せばいいんだ。そうすれば、ざわめきがなくなるのならばね。前提として、目があってもなくてもざわめきとは関係ないのだ。目指すは、心の平安だろうか。それならば、目がなくてもいいはずだ。しかし、やはり綺麗なものを見たいきもちがある。綺麗だ綺麗だというが、近頃私は桜を見ても綺麗だと思わない。一週間もすれば散ってしまうから、潔くて綺麗だと思えないのだ。僕の感性が、おかしくなっている証拠だ。なんの自慢にもならない。自分の心がたくさんの規制を作って、じぶんを動けないようにしているのだ。まるで、だれかにしばられるくらいなら、自分で自分を縛っておきたいと思う気持ちとそっくりじゃないか。わたしはどうしても、他人が潜在的に嫌いなのであろう。そうじゃなくちゃ、こういう気持ちになれっこないだろう。そうだとも・・・。と、いいきかせても、頭から離れないのは、学校の教室であり、教師の顔である。そして、未だ見ぬ面接官にどうものを言おうかと思案する馬鹿げた私である。楽に生きようと思えば、生きられたであろう。しかし、それをしなかったのか、そういきるのができなかったのか、能力のあるなしであるよりも、そういう危機感がなかったのである。ところで、それは危機であろうか。いや、ちがうのである。

 ぼくはとらわれている。なにかしなくちゃいけないとあせっている。あせっているうちに、なにもするきもおきなくなり、楽にやろうとすると、なぜもっと早くしなかったのだろうと後悔し、けっきょく何もしないのだ。そう、それでいいのだ。あせることもなく、ゆるやかに、他人の痛みを自分が全て受け入れる事もしない。なにもしないのは非常に難しい。そんなぼくに、みなは、きみはなまけている、怠惰だ、つまらない、信用ならない、もうダメだ、終わっている、ああすればいい、こうすればいい、なぜこうしない、なぜ、と絶え間なくお話をしにくる。その度にぼくは、わらうしかない。きみたちは、そういうことばで、今生きているのだとすれば、それは、ご苦労さんな事だ。世の中で金ほど大事なものはないと、痛切に感じた人間がいるのだろうが、果たしてそうだろうか。ものは買える。でも、アイディアは買えない。楽しさも買えるだろう。しかし、心の中の楽しさはふいっとある瞬間にきえさってしまう。どんな降霊術を使えばいいのかわからない。楽しい神様が憑依してくれたのだろう。いまは、どんな神様が憑依しているのだろうか。貧乏神だろうか。鎌倉ものがたりでは、貧乏神は、あきこのなんともいえない、天真爛漫さに心を打たれしばらく一緒に暮らす。しばらくたって、行くところができたといい、家を出て行く。あきこのる家は貧乏神にとっては毒じゃ、といって、さっていく。あきこは、貧乏神と交換したお皿にのって、最後は夫とふたりで黄泉の国から帰ってくる。「寿命がつきるまでお元気で」と、死神様に言われながら。

 現代について語るのは、ひじょうに難しい。客観的に述べて信用と説得力を得る方法もあるだろうが、詭弁に過ぎない。よのなかが、論理的に運行されるのであるのならば、かならずこの先の未来まで予想できるはずなのだが、人はきまぐれであるから、何に楽しみを見出すのか、そして、集団がどう動き、ある一つの凝り固まった意見に、同調するようになるのか、特に、日本ではチームワークが大切だとされている。あるひとりの、突飛な考えは邪魔される。ようするに、そういう位人間にとっては住みづらい世の中であり、何も考えずに、ちゃらんぽらんに、まわりに合わせて生きているような、キョロキョロしたやつが、生きていくのに最適なのが日本なのだ。そこにあるのは、おもしろさというよりも、村八分である。おそらくは、ぼくがそう感じているだけだという考えもある。そして、たぶん、いや、ほとんど正確にいって、ぼくがそう考えているだけなのだ。ただ、なにをおそれ、なにをおそれないのか、なにをいやがり、なにをいやがならないのか、つまりは、ぼくは、人の目をひどくきにしているのだ。服まで気にするようになったのは、じぶんが、内面を犠牲にしているからであろう。服がきになるのは、じぶんがもはや、周囲に対して内面的な誠実さよりも、外面的な誠実さを重んじて、それを自分だと思っているからであろう。そう考えても、差し支えない。ぼくは、ちょっとつかれているんだ。あまりにも、じぶんばかりをあいていにしているから、じぶんがごちゃまぜになってい、統一をうしなっているんだ。それを、病気だとか言ってみてもしょうがない。みんななにかしらの、病気なのだ。もしかしたら、ぼくが、こいつは病気じゃないと思っている奴ほど、大病にかかっていたりするのかもしれないのだから。つまりは、ほがらかにやっていこうよということで、別段、なにをされたからといって、怒る事もないし、じぶんに、嫌気がさすような事を考える必要もないじゃないか。世の中は、これからもずっと、むかしもそうであったように、ある集団の、ある習慣をとりいれて、暮らすであろう。恋もするであろうし、恋を科学的に分析して相手をいかにふりむかせるのかの、テクニックを量産するであろう。そして、手の内を知っているものにとっては、とてもじゃないが、そんなのは興ざめなのだ。しかし、習慣であると知れば、それを喜んでうけとるにちがいないのだ。プレゼントは、相手を落とす恋のテクニックであるよりも、習慣である。結婚とは、あいての習慣と結婚する事だと言ったのは誰であろうか。一生懸命に、丁寧に生きるのがいい。いや、なにが、いいだとかわるいだとか、それさえ、どうでもいいじゃないか。そんなもの、ありはしないのだ。世の中の習慣にさよならを言うのが、仏教なのかもしれない。あなたには、それがみえるかもしれませんが、わたしにはそれがみえません。それだけだ。ひとはめいめい、好きなものばかりに目がいく、怖いものばかりに目がいく。それを、心の傾向だと言ってみたところでしょうがないじゃないか。それならば、まいにち朝うんこがでるのは、心の傾向だろうか。排便感は、実体のないものではなく、体から出るものであるから、胃腸科に属するのであろう。ようするに、医者だって、人を長生きさせるのも大事だが、楽しく長生きさせるのが大事なのだ。それにしても、私のかかっていた大病は、少しは止んだであろうか。ふたたび、再燃するのではないかと思っていはいるけれども、それが、不安であったりはしない。来るなら来いとも思わない。きたから、やってきたともおもわない。なんともおもわないのだ。まいにち、寿司をたべていれば、寿司の美味しさがわからない。まいにち、殴られていれば、痛みがわからない。つかれているということが、わからないというのが、ほんとうは体に大きな負担をかけているのだと、いったのはマツコデラックスであった。彼女は医者じゃないけれども。

根本的に文章で暴れたいのだ。そこらへんのバカは、記事に反応するだろう。たとえば、不倫しただとか。そして、不倫はいけないのだとか、不倫されないためにはどうすればいいのかとか、私も不倫されているかもだとか、俺の不倫がバレるかもしれないだとか、そういうことばかりやっているのが、メディアじゃないか。リニアモーターカー必要か?それよりも、将来かかるであろう東海道新幹線の線路の整備に金をかければいいんじゃなかろうか。リニアを作って大量に人を輸送できるようになるまでいったい、どれくらいの時間がひつようだろう。どうせ、山ばかりの道を走るのだ。何が楽しいのだ。1時間で名古屋について、それが自慢になるのか。それにたかって、建設会社は、自分たちが家を作れるからと言って、すこし、横柄になっても構わないと思っての談合事件だろう。まったく、そういうのが人間だとしたら、そして、そういう話に付き合わされる国民はたまったもんじゃない。トランプが大統領になって、それが普通の世界になった。つまり、トランプが大統領になっても、アメリカの政治は壊れやしないし、まして、アメリカという国なのかなんなのかよくわからないが、大統領がなにをしているのか、よくわかったのかもしれない。アメリカという国家が相手を利して自分もりすると考えていればいいけれども、日本にミサイルを売り込んで、戦争が起きたら自分たちで自分の国を守るんだよっと、言われ、アメリカが中国と連携して北朝鮮に日本を攻撃するように仕向ければ、日本はこれから自分たちでこのアホくさい金の周りに付き合わなければならなくなったのだ。欲望を肥大させ、いかに女と寝るのか、いかにかっこつけられるのかが、今の日本人のカンフル剤だ。それは、全人類に共通するかもしれない。そして、男に。せかいは、本当につまらない。そのつまらないのは、私の頭の中にある世界なのだ。てっていてきに、恬淡洒脱の自由闊達に筆をふるうのが、この文章のなかでいきるのにはもってこいの処世術のような気がしてならない。ほんとうのところ、特に言いたいことがない。魂がない。何か言いたい。これに我慢がならない。というのがない、もちろん、話しながら頭がハイになる時期もあった。しかし、その状態ばかりを追い求めていれば、世の中の周りのことい首を突っ込みすぎてしまう。あまりにつかれる。わたしの相棒はひどくふつうのひとで、わたしにとってなんでもないことをふつうに驚いたり、怖がったりするからそれがうつるのであろう。人のせいにしちゃいけない。人は自分というものの鏡だ。人は私だ。だから、けっきょくは自分のせいなのだ。だから、人のせいにして相手が変わるのを待つのは、自分の頭の上にあるメガネを永遠に探しているようなもの。だから、あいてがかわるのをまつよりも、まわりをよくみることだろうね。そして、じぶんから動く事。自分さえないということに気がつくべきなんだと思うんだ。じぶんは、どこにいるだろう。いないじゃないか。総合的に自分なのだ。どれひとつ、かわらないものはない。きのうおぼえたことも、きょうはわすれている。それなら、じぶんはおなじではない。では、きのうおぼえたこと、それをおぼえたのをじぶんというのか。そうじゃない。きおくも、なんども、いったりきたりしている。どこにも、かわらないものはない。寝ているときは夢を見て、夢は映像だから、とどまることをしらない。じぶんが家にいても、何かしらしているので、同じ事ばかり繰り返しているとしても、その動作は別の動作の組み合わせなのだし、その間に世界の状況は変わり、細胞は活動がおさまっていく。恒常的なわたしはないのだ。ありがてーはなしだ。じぶんからかわらなくても、かわろうとする意志、やる気をもたずとも、かってにかわっていくのだから。なんとも、ありがてーはなしだ。にんげんっていうのは、ありがたいな。

 日本語をやめよう。すべての言語の垣根を越えたらどうだい。日本を出発点にすればいい。インドネシアも、スペインも、サンスクリットも、日本語の中で考えればいい。否、それ以前に、私に付随しているものだ。男は垣根を作りたがる。土地を主張したがる。だから、知識は横に繋がらない。自己完結するか、枠のなかで互いに戯れ合うだけなのだ。だから、新しい風は吹かない。吹いて欲しくもない。自分たちが先人のように生きられたら、それが不幸でもいい、戦争を起こした世代であれば、リベンジを心にかけているのかもしれない。もっとも、戦争で日本兵はガリガリに痩せて東南アジアでしかばねとなってしまったのだが。女は、いいね。横につながるから、ネットワークが楽しい。今を生きている。未来は、男の財布を性的な魅力でうまく釣られればいいのだから。それに、そうだね、どこまでも枠がないから、応用が効くと思うんだ。男の真似をして、やり方だとかにこだわらないほうがいい。男のこだわりは、まずもって、こだわりであり執着であり儀式でしかないので、本質はどこにもない。男は、女を通して自分の本質のなさにいたるのではないだろうか。女を通じて男は自分を忘れ、自分から離れ、ちっぽけでつまらない男という自分に課せられた世の中の様々な義務と偏見である、男が稼ぎ、女はか弱く、男が女を守り、女は男に従うべきだという、ある人たちに受けつがれてきた一部の慣習を絶対視して自分の教条にしていきるつまらない考えから、いかに逃れるべきかを考えるほうが、よほど、気が利いている。女は、好きなように生きられる。男は、そうはいかない。いろんなルールを敏感に感じ取りながら、それに沿った生き方しか想像できない男にとっては世の中は閉塞的であるし、暗く、どうしようもなく救いがないのだ。だから、男を捨てるべきだ。人間を捨てるのもアリかもしれない。意地はけっして、見栄とはちがうだろう。見栄で男は女に許されるのだ。君を守るだけの用意と準備はしている、ただ、足りないのは君を脅かす何かであるし、君を本当に守ろうとする意志だ。浮気に走る男がいる。大事な女を守るだけの余裕を他の女の救済に当てようというのだ。馬鹿な話だ。男は女を守るだろう。しかし、女は男を平気で捨てもするだろう。二度も捨てられたい男の気持ちは、嗜虐的だ。変態だ。だから、浮気する男がロクでもないのは、女に弱いからだ。文字通り。他の女をとりこにしないと、自分が男として大事な女と対峙できていないきがするのだ。男女について、話すのはちっとも面白くない。自分の人生について話すのはどうだろう。かつては、面白かった。わが心の流れを文章に書くのは、神秘的でさえあったのだけれども、こう、ふらふらしていると文章も完結せず風のようにあてもなく流れ着いて、どこかの川面にひらひら落ちる枯れ葉のようだ。ゆるやかに川のながれに、身をまかせるわけもなく、ただ、流されて、どこかの茂みに引っかかり、いつのまにか、枯れ葉は粉々になって胡散霧消するのだ。それが、人生だ。なにも、人生を特別視する必要はない。特別な人生は、つまらない人生である。

ああ、どうでもいいさ。好きにすればいい。ぼくは、それに協力はしないよ。好きにすればいいんだから。目的地が同じなら、どういう道順で進んでもいいんじゃないかな。そう思えるんだ。僕は。だから、許してとも言わない。神がいなくなれば、だれも許されない。みんな許されないことがわかった。だから、もはや、悩みがなくなる。好きなことをして、好きなように生きて、それがいいのか悪いのか知ったこっちゃない。ただ、それが、楽しいのかといえば、そうとも言えない。充実感が欲しいのだろう。あまりにも、満たされているとエネルギーが充満して疲れ果てて行く先は女の膣の中に白濁を注ぎ込む如雨露。