福井県池田小中学校生徒自殺事件について

 福井県は学力がいいらしい。副担任を導入して学力向上を・・・といえば、聞こえはいい。田舎はある価値観に固執する。村人の価値観を結集して一つの大仕事をやり遂げる。生徒の声は小さい。学力を追いかけ、ゆとりをなくし、どこに幸せがあるのか。落ちぶえていく町。何回も当選する町長。町がなくなれば失職。そんな町長のつまらない欲も見えてくるような町だ。

 教師は雑務に追われ、生徒は教師の言葉を拡大解釈し、学校の中で通用する価値観にどっぷり浸り苦しむ。自由の空気を吸うことはない。田舎ほど、アニマル浜口ばりの気合い一辺倒で物事を進める。卒業式になれば、嫌な思い出もいい思い出になり、生き延びた生徒たちは卒業ソングを歌いながら涙を流す。

 私は思う、周囲の生徒はこの男子生徒を助けられなかったのか。目の前の人を助けられないのなら、何のための教育か。学力向上しかないはずはない。ある生徒は叱責が理不尽であると感じていたらしい。そう思うのであるならば、周囲の生徒の力をかりたり、彼の話を聞いてあげることで、彼を助けることもできたかもしれない。

 メディアの落とし所は教師と管理職の意思疎通を問題にして終わらせるだろう。報道として終わっても、生徒の自殺がほのめかす周囲の雰囲気は終わらない。落とし所が決まった報道などやめてしまえ。
 しがらみや、自分の生活という私利私欲の方便を使って大人は責任逃れをする。生徒もまた私利私欲に従って行動する。生徒会の責務から逃れればよかったのだ。しかし、彼もまた高校入試で有利だとかいう利益を優先して止まったのかもしれない。それは、家族の喜びを彼が背負ったとも言える。たとえ、家族が無言で彼に接していたとしても。大人たちは自らを棚に上げ彼の自殺を非難するであろう。

 説教は人格が優れた人間の行うのが相場であろうが、教師は仕事に追われて本を読む暇もない。読む習慣もない。合コンへ行き、教師同士の集まりの夜に男女でセックスをしたり、くそもすれば、化粧して町に遊びにも行くのだ。

 良い先生なんてのは、絶対にいない。いない方がいい。それは、その先生を良いと思うことで嫌な思い出も良い思い出にしようと人間の頭が働きかけているにすぎない。教師は慕われるのがまず第一なのだろうが、それは授業の楽しさにあるのではないだろうか。注意するときは注意し、褒めるところは褒める。それで十分ではないだろうか。生徒の良いところだけを見ていればいいのではないだろうか。

 教師として生徒を指導できない力量のなさを、説教で生徒を統治する。ときには暴力も必要だというが、それは相手次第。生徒もバカではない。そのバカではない生徒の親という問題もある。親は子供に味方する。親も学校に入れたらいいのではないかと思える、人間もいる。

 抽象論が長くなりすぎた。抽象論の中に具体的な例を当てはめて結論を出してみればいい。生徒一人を読んで説教するよりも、さっさと仕事を終わらせて帰ればいいのではないだろうか。生徒の性格をいじるようなことはせず、どの生徒にも公平に接することはできないものか。教師も人間であるから、お気に入りの生徒がいるだろうが、そこに安住するには如何なものか。教師が、教師の立場を利用して生徒にとって不快な教師になるのは常套手段だ。

 ここで、付言しておくべきは過去の教育のあり方を賛美する声だ。殴られて当たり前。それが将来ためになった。これほどの嘘をつくような生徒を世に出した先生と、自己正当化した生徒の嘘にあまり関わらない方がいい。誰であろうと、自分の生きた時代を肯定し、ノスタルジックも多少込めてあのときはよかった、いい時代であったと言いたいものなのだ。今の学校は悲惨である。公立の学校に碌な教師はいない、生徒はゆとりで出来損ないだ。日本の未来が心配である等の嘆きである。勝手に嘆いているが良い。メディアは煽る。

 自殺した生徒は今頃気が楽になったのであろう。息子に先立たれた母親の気持ちは計り知れない。祖母の気持ちもまたそうだ。しばらくは喪に服して、ゆっくりと静かに過ごしてほしい。疲れているだろうから。

「ねえ独り言って嫌い」

「どうして」

「一人じゃないもん」

「そうだね。ひとりじゃない」

「だから独り言って嫌い」

 

さらさら雨の日。世の中は静か。しとしと聞こえる。雨の音。

「私の見解によると、基本的に雨の日はテンションが下がる。君は世間のテンションが下がるので、君の下がったテンションと融和しているように感じる。だから雨の日が好きなんだろう」

しとしと雨の日。空気も眠って。私も眠る。深呼吸。

 

「嘘は嫌。行動の後に言葉が来る。嘘は絶対に嫌。言葉は行動の後に来る」

三島由紀夫を読むと精神が安住する。この文体だってね。虚飾だろうが、わざとらしかろうが、美文であろうが、三島由紀夫の文章は好きだ」

好き嫌いを論じるのは、最悪だ。そこに何の理由をもった言葉が見つからない。言葉のないところに何がある。

物事を決めつけてはならない。ただ、自分が拒否されている。ただ、観察者になる。それも嫌だ。活躍したくてたまらない。その気持ちが君の背中を引っ張っている。君は活躍などしたくないのだ。可能性の世界では生きない。ただ、欲望の世界でのみ人間は生きられる。もし何かを不可能だと感じるのであるならば、そこに他人の欲望を欲する自らを見つけるが、それを受け入れるのに自らが拒否しているのだろう。つまり、欲望に身を委ねるのが不快であるだろうと感じているのだ。それは直感だ。直感があれば、人間は道を間違うことがないだろうか。適当に歩いても目的の場所につかない。目的の場所は今ここにある。だから、人間は将来の不安をするとき、自分の甘い果実を捨て去っているのだ。それを見たくないのだ。だから将来を不安に思うんだよ。だって、君が今の状態で最高じゃないか。それを認めたくないんだ。日に日に年を取るんだよ。病気の人は?元気ないだろう。しかし、そこなった体になる環境から出られたんだから、最高じゃなかろうか。

浮わついた心じゃ

なにも楽しめないよね

もうこの世の人じゃないように

いきたい

そういきられるなら

苦労しないだろう

ICU症候群

理屈はわかってもね

ちがうんだちがうんだ

いや、ちがわない

そう、今僕は矛盾に苦しむ

矛盾しているのか

アクセルとブレーキがどっちかわからない

きゅうにブレーキがかかる

アクセルは弱い

こういう感じ

疲れを取るのに

休むのは

次に動くのに大きな力がいるね

どんなに考えてもいきつくさきなどないんだから

面白い

 

僕の頭の中ってなんか変。もう、終わりそうなことわかっているから。シエスタシエスタ。気軽になれるんだ。頑張ろうって思ってもやる気なんて出ないよね。一生後悔するのかな。それもしょうがないかな。シエスタシエスタ。人間はやりたいことなんてできないよ。やる気ってないらしい。行動しないだけなんだって。って、話を聞いてもどうもこうもならないよ。だって、やる気がないんだもん。それって、もう動きたくないってことじゃないのかな。動ける場所がないってことじゃないのかな。つまり、いい文章が書けるのかどうかってのは血流に限った話なんじゃないかな。僕がいくら頑張ってみても、舌が壊れているからどんな味もしないんだよ。それじゃ、何やっても無駄に決まっているじゃないか。僕は、自分の体をいたわってあげなくちゃならないんじゃないかな。でも、誰も助けてやくれないじゃないか。僕はどうすればいいんだ。誰か僕を助けてほしい。といったところで、人でなし。

日記ってのは人に見られないから価値があるのであって、人に見られるようになれば読む人間を想定して、その人間がどう読むかを想像し結論を誘導させようとする気持ちが起きるもんだ。つまり、自分のためのノートから相手を利用してやろうという魂胆になる。利用しようだなんて、何にどう利用するのか見当もつかないが、とにかく、早急に言えば、自分の文章が読まれると認識すれば自然と際限ない告白も終わり、自分を文章でどう見せようかと思うようになる。それが健全でもある。新聞記事の記者は、読まれるために文章を書いている。法律家だってそうだ。条文に根拠のない文章は書けない。小説家も、売れなければ小説家でもない。はずであるが、現代は、宣誓制度である。自ら、小説家と名乗れば小説家になれるし、法律家と名乗れば、相手が騙される具合に応じて法律家でもあろう。本当におかしな話だ。自分の気持ちが定まらないから書いているのだ。自らを鼓舞するような文章も悪くはない気持ちになってくる。こうして書いていることに疑問が湧いてくる。他者の視線が一度入って来れば自分を客観的に見ることができる。客観的であることはつまり、主観的であることも強く意識するようになるのだ。つまり、私はもうダメなのかもしれない。文章にしたいような日常の生活もないのだから。私は書くために行動してきたのだ。毎日日記を書いては1日あったことを細かに書いて脳を鍛え上げていたのだ。どんな些細な言動も心象も景色も、頭の中に思い描くのができるようになったくらいなのだから。脳の血流が良くなり私は本当に元気になったのも自らの生活が毎日違ったものであったからだ。私の文章は決して外の人間に読まれてはならない。私は他人の無視の中に安住を求める。詰問されることもない。自らの心をさらけ出す必要性に迫られることもない。自らの心をさらけ出すのは苦しい。自分を客観的に見る眼は非常に役には立つけれども、どうしても自分を客観的に見たくないという思いがある。私はどうしてもそれを感じずにはいられない。私は世間を嫌ってもいないし、テレビを嫌ってもいない。ただ、うまく折り合いがつかないだけであるし、上手に上手にと考えれば考えるほど下手になっていくような気持ちと同じなのである。私は世間やらテレビをはけ口に自分を探り探り吐き出させているのに他ならない。嫌いなものを食べれば気持ち悪くなって吐くだろう。それと同じで、吐かせることで取り入れた汚染物質を取り出そうとしているのに他ならない。世間は私にとってただ、恐ろしく映るのだ。今だけの話である。世間を大事にしようなんて思わなくても、世間を私は大事に思っている。テレビは嫌いだが、テレビを誰よりも見ている。嫌いなら見なければいい、関わらなければいいというが、それは違う。嫌いというのは、遠くで眺めていたいという気持ちだ。できれば自分と同じような真似はよしてほしいという気持ちだ。ホームレスが自分と同じような人生の遍歴を経験し、自分の同じような顔をしていたら嫌な気持ちになるだろう。あれと同じ。世間は虚像である。テレビもまた虚像である。何かがあると勘違いして、壁に向かって怒鳴りつけるようなものだ。

 

世間は虚像、世間は虚像。虚像であるから交われる。実像なんて、決してない。どうしてこんなことがわからない。わからないから本を読む。わからないから確かめようとする。触れようしても触れられないから虚像なのか。触れられるけれども、それは触れたと欺いているのに他ならないのだ。

 

ある対象について書くとき、その対象を乗り越えようとする。それが正しい態度かどうかわからない。何が正しいのかを探り続けるのに飽きた。ただ、金がある方に正義はつくのだろう。

 

別に人間がどうなろうと困らない。人間なんて、人間というモデルを作らなければならないほどバラバラで考えていることも違う。にもかかわらず、共感するのは環境が似ているからであろう。環境が人間を作り出すのならば、ある人がそうなったのは全て環境に抗えなかったせいであろう。医者になったのは、医者以外の道が強かったのだし、犯罪者になったのは、犯罪の誘惑についていったにすぎない。

 

人間って、人の間って書くでしょ。関係性の中に成立するんだよ。ネットワークの中に。相手を認めないことを人格無視だというでしょ。人格ってのは、IDだよ。その人は、自分のIDに沿って自分を保っている。いい人と言われれば、いい人であろうとする。ダメなやつだと言われれば、ダメなやつでいようとする。嘘でもいいから、君は綺麗だ、君は美しい、君は素敵だ、君は賢いと言わなくちゃならない。これが言葉の最後の力だ。嘘を愛せないようであるならば、真実を見ようと努力するのであるならば、人は決して嘘も真実も見えないのである。そうなったとき、人は、言葉から離れてついに人格が崩壊してしまうのだ。

 

恬淡洒脱だろう。物事に執着せず。世間もテレビも何もかも執着せず、淡々と文章を書いていれば遠いところへ行ける。足早に。コンクリートに転がる小さな石一つ一つを手にとって眺めながら、道路に投げ捨ててと繰り返すうちに時間が経ち夕方になれば、足元に転がる石もなくなってしまう。

 

執着しないのは難しい。人間はすぐに条件をつける。本を読まないから文章が書けないのだ。親が悪いから今自分の環境が悪いのだ。人のせいにする。それの良し悪しが言いたいのではない。人のせいにするのは当然なのだ。自分にいいことがあった。宝くじが当たった。それは自分のせいじゃなくて他人への善行のおかげだとする。いいことをするとお金が来る。至極単純じゃないか。お金は誰もが欲しがる。お金ぐらいしかほしいものがないとも言える。また、お金があれば安心して暮らせると考えている。お金のために何でもする、という境地のときが一番楽なのも知らない。お金がいくらあっても、人間の心はその金額を貶めるように働く。もっとお金がないと安心して暮らせない。老後が怖い。すると、お金じゃ安心は客観的には変えても主観的には買えないのがわかる。インフレになったら、お金が紙くずになるじゃないか。今まで我慢して働いてきたのにその苦労を金に買えて貯金しているのに、と。インフレが起きないように金を調整しようとする。働こうとする。もうそれだけで金以外に興味を持つ時間がなくなる。稼ぎに行くという感情がわからない。組織に帰属しておこぼれをもらっているだけじゃないか。手伝いをするのならわかるのだ。それは喜んでもらえるから。しかし、金のためとなると実にこれは不愉快だ。自分の時間が金に変わる。自分の時間が人の喜びに変わる。どっちがいいだろう。私は後者である。自分の時間を金に買えてみればいい。お金は計算できる。1秒がいくらなのかまで考え始めるだろう。