ぼく

 碌に勉強できなかった。レポートも書けていない。理想の半分は達成したかな。まあ、それでいいか。あとは野となれ山となれ。

 今の僕はおかしいと思う。記憶はすぐなくすし、余裕がない。焦りばかりで美味しいご飯も台無しになる。漠然とした未来への恐怖がある。それを楽しめればいいのだが。男はスリルを好むと誰かが言った。女はそれをバカだと戒める。さて、男はどう出る。女に好かれたいから、平穏な生活で認知症になるか。そして、女に捨てられるか。それとも、文句を言われながらやりたいことをやって、賭けに出るのか。つまり、私の言うことを聞かないのねと言いながら、去っていくのか行かないのかのスリルを楽しむというのか。スリルはどこにある。ヨドバシカメラにはない。安心した生活にはない。僕の悪いのは、どうも鬱っぽいところである。自分を責めるのだ。自分を追い込んでうつ病になって死んでしまえと、思うのだ。死ぬことに関して、私は臆病ではないと思う。いつだって、今この瞬間に消え去っても構わないとさえ思っている。つまりは、生に執着がないともいえるが、生から見放されてるとも取れる。生活に誘惑がないのだ。未来は暗い。期待できない。そういった強い漠然とした思いが、私の思考と共によく現れるようになった。私は私について何も知らない。寿司の値段は高かったように思われる。もっと安い店はいくつもあったのに、私は値段でご飯を選ぶようになってしまっているのだ。なぜならば、ストレスのため味がわからなくなっているからだ。そして、焦りばかりなのでゆっくりご飯を食べることもない。愛を受け取ることもない。私は今少し疲れている。明日のテストがあることさえわからない。だから、行かないでもいいのだ。なぜならば、私は本当にダメ人間で講義も碌に出ていないから本を読まなくちゃならないからなのだ。しかし、それに理由をつけて解決しようなんて思いたくない。私の生活は相当に破綻している。もうダメかもしれないと思っても、死にはしない。ただ、前頭葉が萎縮して血流の流れが極端に悪くなっているなと感じるばかりである。どうして、人間は自分の心の余裕を忘れてしまうのか。生きるために死んだような生活を送っているように見えるのはなぜだろうか。現代は人付き合いを嫌う。なぜなら、自分だけの世界に閉じこもっていたいからだ。人の話を聞かない狭い心を持った人が増えた。そう、私は私の話を聞いてもらいたいのだ。それならばカウンセリングへ行けと言うだろう。そんな金は使いたくないからつらつらブログに言葉を書き連ねて誰も読みもしない愚痴をただ書きまくっているのだ。日記こそ、私の人生だ。私の人生は日記に書くために存在している。つまり、人生は人生のために存在しちゃいない。ジョンレノンが「人生を忘れたとき、君は本当に人生を歩んでいるんだよ」といった。彼の曲がそうであろう。人生について考えるとき、私たちは人生を遠巻きに見ている。有る事無い事吹聴して人生について言葉を費やしている。ああ、私はどうして・・・嘆きたい。存在について。そして、金遣いの荒さについて。ケチであるのは美徳だ。今の私にとって。それは、金以外の価値を見つける手段になりうるからだ。たまに、死にたくなる。死ぬんだと思えば、何も怖くない。同時に、何も感動しなくなる。バカみたいに笑って、バカみたいに生きていればもっと楽しい人生があったのかもしれない。私にとって楽しいのは、美味しい料理を食べることよりも本を読むことにあるのだろう。私はそうでもしなくちゃ何が楽しいのかわからないのだ。つまり私はバカなのだ。一人で本を読むことなしに何も物を考えられないのだから。それはしかし、物を考えるのに自分を過信していない証拠でもあるのだ。それをここに書いたからといって何になる。

 

 鉛色の空を西日が彩る

 やがて、黒が空を覆い、明るい光が道を照らす

 同級生たちは、他人となった

 親も、他人となった

 さて、私は一体他人をこれ以上増やすのだろうか

 

今日のこと

 フランス語の試験がうまくいかなかった。意識を殺して授業をやり過ごした。高笑いが聞こえる。隣の奴が俺と組んでうまくいかなかったからとやり直した。先生も気を使った。疲れる。気を使われると疲れる。スルー力と叫んでいたのは昔のこと。今はもう何も言葉が心に引っかからない。書くことはたくさんあるはずなのに、書けない。意見を書かないで済まそうとしている。距離感を失い記憶力も著しく悪くなる。ある一つのところへ行けばいいのに、それを阻止する何かがある。それがなにか私はわかっているが、口に出したくない。

 末っ子は嫌いだ。甘えん坊だし、感謝を知らない。乞食のようだ。見窄らしく貪欲で怠慢、おまけに臆病。すべての末っ子に言える。だから嫌いだ。死ぬことの何が惜しい。

 自分の意見を吟味した。何も言えない。法律は守るべきだが、破ることだってある。ほら、停止線を超えた。法律を守っているかいないか。それを判断するのは警察か自分か。公的に制裁を食らうのは警察の目の前。先週の日曜、直進道路に車線変更できず左折レーンへ。信号変わり交差点に進入して直進。交番のお巡りが笛を吹いた。タクシーをすり抜け公園にバイクを止めた。バカな警官だと思っただろうか。つまり、私は何を考えているのか。私流に考えるのが個人主義じゃないか。しかし、ざまみろアホと警官に思うのは違う気がした。感じないのだ。感じないようにしているのだ。そうじゃなくちゃ何も務まらない。私は不真面目だ。そう見られても構わない。皆の顔が生き生きとしていたり、死んでいたり見える。何を考えているのか。今、私は人と話したくない。余裕の無さよりも人からの差別を感じる。世の中の大部分から外れた軌道を走っている。合流しても大していいことはないのもわかる。要は、天国から帰って娑婆に帰ったような。

 日本も外国も変わらない。人がいる。人がいれば挨拶をする。挨拶だけが純粋な気持ちだ。それ以外は意図がある。面白くない。世の中が面白くないのか私の前頭葉のせいにして自分を苦しめるか。お風呂に入らないのが悪いのだろうか。難しい質問に答えた気にならないのだ。私は先生の授業の答えを書くつもりはないのだ。ああ、では何を書くというのだ。私を突き動かしているのは、倦怠感からの恐怖か。わからぬ。ただ、今私は顔色も悪く体の元気も失われている。快活さはなくなり、日々に埋没して何もない日々を何もない顔で過ごしている。思考は停止し。テレビとネットの情報を鵜呑みにし。世の中の変化に敏感で、日常生活では花に水をやり忘れかれているのも気が付かない。メディアは自由を奪った。否、国民が捧げた。政治的平和の実現のために、花を忘れるのだ。国民は搾取されていると感じるのだ。政府は国益のために国民を搾取するのだ。先生はただ従うべき対象で時には良き友人のようだ。友人の話は面白くなくても笑えるものだ。テレビは、つまらないつまらないといいながらも見るのだ。ネットは、何を検索すればいいのかを検索するのだ。電車は黙々と私の体を箱に閉じ込めて何処かへ送り飛ばすのだ。ああ、悲しい日々よ。私はどうして未来を捨ててしまったのか。田舎の暗闇に映える緑よ。聞こえてくる電車の音。お腹を壊しそうな冷たい冷房。人と喋りたくないという本気の嘆き。特に学生の画一的な側面。学問は自分のためにするもの。私は鬱だろう。おそらく。何をしても喜びが感じられないのだ。禁じられたことをしない限りはね。

嘔吐

 まあ、楽しく描きましょうや。真剣になってる時は、すっと手を休めてぼーっとしてみましょう。ぼーっと。そしたら、執着にさよならできます。執着はダメだね。

学問について

 学問って入力したら、学問に王道なしって候補に出てきやがったよ。馬鹿野郎。学問なんて重宝するもんじゃないよ。もうやりたくないよ。だって、疲れるんだもん。疲れるのは嫌だよ。死んじゃうよ。死んじゃったことないからわからないけどね。あと、人生について考えるのも相当に面倒くさいね。だって、人生ってこれだって言えないもん。それに比べて、刑事なんかいいよね。犯人はこいつだ!って、そいつがやっちゃいましたって認めれば刑事も気が済む。検察も、妄想でも証拠でもとにかくお前は犯人だと証明したりでっちあげたりその気にさせてやれば言い訳だからいいけど、人生ってのはこれだって言ってもね、自分の心が痛むんだ。いや、ひょっとしたら違うんじゃないかって思ったりね。だから、そうだね、女の子に見栄を張らないことだね。仏の笑顔だよ。どんなにか、いや顔も見せちゃったけど、それでも仏の笑顔だよ。それが嫌われちゃったら、しょうがない。自分を責めちゃいそうだけどね。あーあ、だから、完璧を求めちゃうんだ。相手に甘えたくないから。そうだね、俺なんかもういいんだよ。好きにしてれば。でも、学問は一生懸命やる価値があるね。だって、楽しいもん。マスメディアの、あの、何とも言えない空気感はきついね。窓開けたくなるよ。どこの誰だかウィキペディアで調べないとわからないような奴らが、お茶の間の見ず知らずのおっさんやらおばさんに意見してるんだから笑えるよな。それを、真に受けてるおっさんおばさんはまだいいよ。真剣に意見してるコメンテーターってのは、頭おかしいよね。自分が変われって話だよ。わかるよ。視聴者の声を反映って何だよ。視聴者の声なんて、視聴者よお前らが勝手に出しときゃいいじゃないか。何をテレビを使って、放送を使ってお前らの声を流さなくちゃならないんだ。不愉快極まりない。それで世論ができちゃったりね。東京誘致なんて、嘘並べ立てて笑ってりゃきたんだ。建設業界は万々歳だね。ちっさい島に、たくさん建物立ててさ。テレビのネタにするのに、笑うの人もプロがいてさ、自分が好きなように笑うこともできないんだぜ!?こんなのってあるかよ。大学生によくいるじゃねーか、っぽいやつ。っぽい話をするやつ。あれが嫌いなんだな。本人たちが悦に浸ってる感じがもっと嫌なんだな。あーあ、大学なんて行きたくねーよ。だから俺は一人ノートを一生懸命取ってるんだ。文字ってのは、静かで、おしとやかで、とてもいいやつだよ。文字が好きなんだな。あと、タブー破りも好きだね。暗くてじめじめした部屋に空気を入れるようなもんじゃないか。誰かが開けてくれるってみんな思って正座してお経聞いてる時に、ドアをぱって開ける。いいじゃない。松居一代さんはやっぱり本物のお掃除おばさんだね。マスコミにいろいろ言われてるけどさ、例えば、夫婦仲のことを表に出すなってな、何を言ってやがるんだい。ネタにしてきたのは、マスコミたちじゃないか。コメンテーターもさ、テレビ局に嫌われたくねーから思ってもいねーことをぺちゃくちゃしゃべりやがって。ほんっと、人の話しかできない奴らの集まりなんだからしょうがない。タバコ数百本吸ってる坂本忍が、松居一代船越英一郎の一連の出来事をどう受け止めたらいいかなんて、知ったことかよ。本当に凄い奴らはね、まず、テレビに毎日出ているような奴らじゃないぜ!三島由紀は死んじまったから、テレビには一切出ないけど、坂本忍より断然凄いし断然男だし、もう、テレビに出てスーツ着てにやにや喋ってる奴らを見ると、嫌になるね。女の気持ちはわかりました何て顔した、NHKの夜のおっさんも嫌いだけどさ。あー、俺っておっさんが嫌いなんだよね。だって、嘘つきだし、身勝手だし、おっさんに欲情しねーもん。こいつらに何言われても反感した持たねーしな。だから、説教なんて大人がするもんじゃねーな。この間も、先輩とやらが後輩と見える輩に廊下で軽く説教してたけど、あんなの馬鹿のすることだね。先輩もバカだが、後輩もバカだ。バカがバカに説教して、滑稽に見えたね。ひどく滑稽に見えたね。第一かっこよくないんだもんな。それじゃ、ダメだよ。カッコよくなくっちゃね。説得力ないよ。顔なんて次の次の次。意気、寛容、諦観、洒脱。この四つで、だいたい楽しく暮らせるんじゃないかな。人は本当に苦労したがるからさ。苦労ってのは一銭にもならない。苦労で金を稼いで生きてて、人生苦しいに決まってる。生き方が下手くそなのか、それとも、そういう生き方しかできない境遇なのか。それをいっちゃーおしまいよ。境遇つっても、笑顔のやつもいるじゃない。難しいところだけどね。置かれた場所で咲きなさいと。まあ、置かれた場所が日陰なら花も咲きませんわな。どれどれ、お茶でも飲みますか。本を読まなくちゃならない。一体何冊だ。コンタクトレンズもらうよ。ごめんねいつも。今週はどうにかしとくから。愛してる。

うぉーい

 もういいじゃないか、許してやれよ。この先何があるのかわからないけれど、一生懸命しようよ。嫌なことはしないでいようよ。色々やになっちゃった。しょうがないよね。どうしようもないんだから。頑張れって言われないのが辛いのか嬉しいのかよく分からない。好き勝手ってわけでもないって言い訳させてもらいたいけど、結構好き勝手しちゃってるんだよね。だから、世の中にわるいなーって思うわけよ。でもね、世の中に卑屈になっちゃうんだよね、そういうこと考えちゃうと。それでもう、嫌になってね、世の中にどう思われてもいいやって気持ちになりゃいいんだけど、なかなかなれないんだよね。癖っていうか、それともせめて世の中にそこそこ許されればいいかなって思うんだけど、もうめんどくさくなっちゃってさ。好き勝手してどうなっちゃっていいじゃない。責任とらなくちゃって言うけどさ、責任なんてどうとりゃいいかって話だよ。人殺しちゃったり、金盗んだり、浮気したり、人の嫌がるのはしちゃダメだってのは当たり前なんだけどさ、でもさ、それをしないためにどれだけ不愉快な思いを人に様にさせちゃってるかってことだよ。もう、振られちゃえばいいんだよ。好き勝手してるように見えるんだろうね。尽くしてほしいとでも思っちゃってるんだろうね。要は、甘えちゃってるわけよ。そんな矛盾抱えて何を知ったかぶってるのかってのが、苦しいね。わかんないものは、わかんないよ。わかんないから、面白いとかも言わない。もう嫌われちゃっていいじゃない。何したってもう自然になりゃいいじゃない。力抜いていこうよ。力抜くのがいいんだよ。みんな緊張しすぎ。あれは疲れちゃうよ。電車の運転手だって、もう自動で止まっちゃう時代なんだから寝ちゃえばいいんだよ。なんていってるけど、そんなことされちゃ少し怖いわな。だから、あんなのはできないかな。まあ、緊張感ってのが嫌いなんだよね。そんなの全く必要ないじゃん。それで仕事ができたって勘違いしちゃってるんだよ。客観的には出来ちゃいないよ?でも、脳みそがそう思っちゃうわけ。だから、いつまでも忙しいんだ。というか、もう人を気にすんな。人が仕掛けてくる強制から逃げちゃえ。まあ人を見たら木偶の坊だよ。歩く人形だよ。三島由紀夫も人がそう見えちゃったんだね。だから、人を指導できたんだと思うよ。でもね、やっぱし人間って生きてる。その時、三島は自分を卑屈に感じちゃったんだね。それで、小さな小さなある予感が膨らんでくのがわかったんだろうね。それで、腹切って死んじゃったわけだ。首なんて取れちゃって、やだね。みたくないね。今はね。気持ち悪いなんて言いたかないよ。だって、三島由紀夫好きだもんね。まあ、今振り返ればなぜあんなに緊張感を高めていったのか。タバコの吸いすぎなのか。少しでも弱いところを見せたくない。それは男にはモテるだろうけど、女にはモテないモテない。女にモテるためには、女を好きに何なくちゃダメだよ。そうじゃなくちゃ、仲良くもできないよ。優しく仲良くいきましょう。居心地よく、いきましょう。頑張るのは、やめましょう!言いたいことは、だいたいこれくらい!

嘔吐2

 規則は面白い。規則は利用してなんぼだ。規則をもっと冷めた目でみるといい。皆が従うところにできた信号機。人通りがいなくなれば渡っても大丈夫。規則とは自分が自由になれる基準をいうのだ。規則に従っておけば自分を保つために何かをする必要はない。規則のない自由な状態を人間は大変な苦労と困難を持って乗り越え、規則を作った。人が集まれば、自由などない。他者は自由を常に奪っていく。そういう者に違いない。だから、一人以外の時私は不自由だ。私が自由になればとっくに死んでいるかもしれない。酒の飲みすぎて肝臓もそろそろ危険かもしれない。心配の種は尽きない。ニキビも減らなければ、唇の下は荒れ放題。髭も伸ばしっぱなしである。さて、どこに自由があるのだろう。自由を手にして何でも好き勝手できるとして、それが楽しいのであろうか。楽しいとは一体いかなる感覚をいうのだろう。本当に楽しければ、次に待っているのは楽しくない状態である。つまりは、今が最低だと思っていれば何が起こっても楽しいのだ。ということは、不幸な人ほど幸せがたくさん待っているのだ。具体的に言えば、ホームレスは上がる一方じゃないか。だから、私はホームレスを毛嫌いできないのだ。彼らに自由を見ているのではなく、彼らが何ももはや奪われることがないのを妬んでいるのだ。彼らの生活が決して良くないのは、分かっちゃいるが感じられない。都合良く見ているのだ。金があれば人生が楽しいのではなく、時間があれば人生は楽しいのだ。車だって作れるかもしれない。部品は必要かもしれないが。カートくらいなら作れるかもしれない。高くつくかもしれないが。しかし、知識も身につく。体験もする。元は取れるんじゃないだろうか。つまりは、困難な時楽天主義になってどうする。不幸なら不幸人らしく不幸にならなくちゃ。不幸なのに、幸福そうな人を見ていいなと思うことこそ、不幸なのだ!君を相対的に見れば、周りも相対的に見なくちゃ。彼らは金は儲けるがその分出て行く。そして、何より時間がないので読書もできない。精神的な余裕がないので、短い時間で最高度に刺激を濃縮させる必要が有る。つまり、休日も休まる日がないのだ。一日中寝ているのがいい例だ。寝る体力を惜しんで、なぜ楽しまない。楽しめと脅迫されている。自由になれと脅迫されている。そう日本人は、会社に文句を言えない代わりに、憲法の付与した人権を捨て、自由を捨て、そして、会社の言う事を喜んで受け入れられるよう依存しようとしているのだ。それが、彼らが精神的苦痛を軽減して社会に適合するための手段だったのだ。涙ぐましいったらありゃしないね。ちくしょう、なんていい奴らなんだと、社長は京都の懐石料理屋で泣いているかもしれない。ゴルフの球を打ちながら、つまらない付き合いに精を出し、行きたくないのに楽しそうなフリをして、何という嘘つきの集合体であろう。それに比べれば、学者なんて好き勝手している馬鹿どもだから何と楽天的なのだろう。そうだ、自由だ。得体の知れないのが自由だ。おそらく自由を語れば自由ではないのだ。存在しないことだ。自由とは幽霊になること。だから、幽霊は今でも存在している。食べなくても大丈夫で存在している、それが幽霊だ。人間の快不快を乗り越えている。私は本を読まない人たちが社会を語るのが実に辛い。読書体験もなしに、何を言葉を用いる資格があるというのか。免許もないのに、患者を適当に診断して病名をつけ風邪をひいているのに、盲腸炎だとか言って簡単な手術だからとベッドに寝かせて、盲腸の処置の仕方なんてわからないから、変に手を出すより適当に放置して、患者が起きた時に治りましたよと言えばいいのではないかと思案しているようだ。分かりづらい比喩を使ってしまって申し訳ない。つまり、私は私について語らなくちゃならない。なぜなら、私は距離感を失ってしまうからだ。距離なくして関係はない。休憩するところを作らなくちゃならない。精神のお家の中に。そう、肉体にも家が必要だが、精神にも家が必要だ。私はバイクに乗るが、あれはまともな人間の乗り物じゃないと思っている。それでもバイク乗るのは私がまともな人間じゃないからであろう。まともな人間なんてごめんまっぴらだからだ。変わらないんんげんなんていない。変わらないのは、その鈍臭さだけである。変わっているのだ、確実に。あまりにも変化に気がつくので疲れているだけだ。

嘔吐

 五月晴れの朝に空を見上げた。一羽のスズメが雲を横切る。飛行機は空高く飛んで太陽に照らされ光っている。どうしてだろうか、どうしてこんなにもこの国はおかしくなったのか。すぐにキレやすくなった。昔からそうだったのかもしれない。寛容さは失われた。もともとなかったのかもしれない。つまりは、高度成長期から逃げ出せる社会になったのだろう。サービス残業を批判する記事をみた。日本人アゲアゲの番組を流すテレビも批判していた。確かに、そうだ。欧米化を目指しているのなら、感覚も欧米化されるべきで、違法残業などしなくていいのだ。違法なのだから。法律を守るほどに利益を損なわれる会社もあるだろう。国が一流であろうと、何流であろうと私は関係なく生きてる。社会に参加せざるおえない以上、国家に求めるものの大きさは計り知れないが、私はそもそも国家に期待していない。国家を疑うこともない。国家がなくなって困ったとしても何とも思わない。しかし、そうもいかないだろう。国家がなくなれば困るだろう。もちろんそう思うのだ。ただ、肌感覚として国家の存在を日本人は肯定できないでいる。自分たちの足元を見ないようにしている。それがオリンピック招致やらにつながるのだ。嫌なところは見ない。嫌なことを嫌だというのは子供だという。人権は、女子供の占有物で男は縛られる一方だ。この感覚は、ある意味で正しい。男が権力を握っていると信じきっているからだ。男は権力を持たせなければ、安定しない。そういう生き物なのだ。だから権力欲は男にとって最大の防空壕なのだ。権力を欲しがる場合権力に従順である場合が多い。それは、自らの感覚を殺してまでも規則に従うしか生きる道のなかった人間たちのゆとりのなさなのだ。ゆとり世代とは、試されたのだ。しかし、多くの日本人は少数を嫌う。見事に失敗したのだ。しかし、それでいいのだ。ゆとりとは、失敗も成功も大して変わらないことを感じる目だと思う。それを強さだとも思わない。どこまでも淡白に生きている。情熱を欲しがる人がいる。情熱のあるところに行けばいい。安心感が欲しいと思っている、それには権力がいると思う人間がいる。それならば、権力のあるところに行けばいい。そして、実際はどうであったのかと学んでくればいい。しかし、多くの日本人は思い込もうとする。これで良かったのだと。おそらくは、周囲の価値観が相対化しているのを見ようとしない。意見の多様さを面白がらない。自分の世界観を周囲と共有したがる。違っていれば、考えようともしない。そして、考える者たちに搾取されていくのだ。日本人とは、どこまでもどこまでも果てしなくこの世に対して被虐的なのだ。そういう国民性であるから、すぐに怒るのである。寛容さは、女々しいと退けられる。しかし、雄々しいことはしない。できないのである。そのもどかしさを感じているはずである。今の日本人は、ゲームにアニメに漫画だ。悪いことじゃない。しかし、あまりにもひどい。ユーモアもない。おたくが増えた。ニュースは芸能ばかり。テレビは、美味しいの連発。与えられるものをどう調理するのかと考えよう。私は社会について論じるのが嫌いだ。不可能であるし、文句しか出てこないからだ。その文句が治ればまた新しい不満が生じる。つまり、今の日本人は悟りすぎているのだ。どこかを変えればまたどこかに不都合が生じるという感覚を持っている。したがって、何もしないというドラえもんのび太的な発想は実は、日本人の大部分が持っているのではないだろうか。人の意見を聞く時の態度も悪いし、自分が人からどう見られているのかを気にしない人たちばかりだ。たいていの人がそうである。と、考える私も十羽一絡げに纏めあげたいのか、この国の国民性とやらを。確かにこの国は貧しくなっている。しかし、本人たちは楽しそうだ。金はアジアのどこかに流れていった。昔ほど物は買えない。いいだろう。物なんていらないじゃないか、と言いながら、高価なバイクを欲しがる私。しかし、我慢すれば買えなくもないのだ。お金に頼りすぎるのは良くない。一のことをして、九のことを外に任せるよりも、三のことをして、七を任せるほうがいい。そのほうが楽しいし視野も広がる。今の日本人は、積極的に視野狭窄に陥っていると言っていい。彼らは世界の情勢など知りたくもない。安家の漫画を一生懸命読むサラリーマン。非難ではない。ただ、あまりにも貧しいのだ。貧相なのだ。趣味が。今の日本人に期待などしちゃかわいそうじゃないか。彼らは犠牲の時代に生きているのだから。自己犠牲を最高価値に奥から新撰組で私は泣けるのだ。この国人たちは、世界など見てもしょうがないこと、どこに行っても大して変わらないことを頑なに信じている。ある意味では、それは正しいのだ。どこへ行っても、自分という存在は変わらない。そう、今の日本人は自分を変えようとしない。変えられないのかもしれない。安定した自我なんて、自我が何であるのか知らないのに語感だけを信じている。恐ろしい。彼らを騙すには、耳障りのいいことを言っていればいいのだ。そして、騙されたら泣きつけばいいのだ、アメリカに。何と女々しい。屈強な欧米人への劣等感か。湘南の男は、アメリカ人を倒せるのか?疑問は尽きない。