残念ながら僕は常識人だ

 君たちが思うほど、ぼくは非常識な人間じゃない。むしろ、常識的でありすぎたから、君たちの非常識を笑うんだ。僕は、いたって、常識的な人間だ。退屈なほどに。多くの人は、常識的であるとかないとか言ってその人の行動を判断する。価値基準として常識を採用するのは、弱者の最後の武器だ。強者は常に社会的な立場を持つ。自らを空っぽにすることで社会の壁の中に埋まっている。哀れなのは確かだ。しかし、金と名声という基準を持っている。役にも立たない、ただの、哀れな価値観に違いはない。死んだら忘れられるのがほとんどだ。にもかかわらず名声を得ようとする、貧乏人同士が金の多い少ないを比べて自分を安心させようと懸命に金を稼ぐ。社会は哀れだろうか。私には哀れに見える。貧乏人に暇なし。それは事実だ。学問は、何もしないのが専門だ。何かしようとすれば、なんでもすることはある。それをしないで生きられるのが素晴らしい。がんばって、ゴミ拾いをして儲けはコンビニ店員の時給よりも少ない。そこにやりがいがあればいいという社会である。個人的だ。私は、かん集めなどしたくない。海外に出る勇気もなく、日本社会にしがみつく輩のなんと多いことか。人の不幸を自分の利益に換算する意地汚い女みたいな男が増えた昨今だ。相手を憐れむ心情をなくし、相手の事情を聞く度量をなくして、いったいどうして男たり得るのだ。金はあるだろう。女に物を買えるだろう。高級車も買える。広い家も買える。散らかり放題で、ろくに運転も上手にできず、君は女のATMになる。それでも構わない。俺は心の広い男だ、女の好き勝手させるのが、男として価値があるのだ。手を出したのは、女子高生か?人妻か?色気もなくて性欲だけがある。余裕がなくて、細かいルールばかりある。そんな人間は常識的である。自らも自負するほどだ。さて、君はどう思う。私は、こんな男は死に値すると思う。死んだほうがまだマシ。バカにもなれない、賢くもなれない、醜い男は死ぬしかない。そう、自分だけ得している気分の男は嫌いだ。男は傷ついて、死んでなんぼだ。それだけが、男を男にする。

常に否定する

 バイクが欲しいのだが、その思いを否定する。バイクが欲しいのではなくて、走りたいのだ。それがわかればいい。速いバイクを乗っても、走れなければ意味がないじゃないか。宝の持ち腐れ。どうすりゃいいんだ。どうすりゃいいんだ。遅くても排気量があるから、楽。これに尽きる。このほかに何を求めるっていうんだ。

わけのわからなさ

 今の日本人はケチだ。感受性もない。興味のないことを聞こうとはしない。自分の知識を広げるにもビジネスに関わることならという条件付きだ。条件付きの行為に自由はないとカントはいった。昔の人は偉いことを言うもんだ。日本はバブルを楽しんだ。大いに楽しんだ。そんな時に、一人静かに部屋にいるのはもったいない。外はお祭り騒ぎ、今度いつ来るかわからない。手足衰えて祭りに参加するよりも、体の動く元気な時に参加したい。そんな欲望にかられるのも当然だ。だから、いつまでもこの国は誰かの模倣で生きてる。ダリはいった、模倣なきものに成功はない。模倣こそ、新しい芸術の始まりだ。たしかに、そうだ。しかし、ダリも今は普通になった。見た衝撃はあるが、深さがない。奥行きがない。わけのわからなさが興味をそそる。わけがからないから理解しようと拙い言葉を頭の中で考えながら、あるいは即興的にフィーリングに沿ってつむぎだそうとする。その、楽しみも近頃は流行り廃りの川に流されてだいぶ下流を漂っているようだ。世界は、個人の解釈により成り立つ。もし、貧乏があるのなら、それは個人の心の中にある。もし、食欲があるのなら個人の心の中にある。したがって、個人が死ねば世界は終わる。楽をしたいというのは、つまり、個人的な営みなのだ。そして、友達がたくさんいて周囲に多くの友人を抱え常に人と関わりあっている人間も、楽をしたい人間なのだ。孤独を埋めるのは難しい。人がいても孤独はあるんだよ。それが、虚しいと思うかい?ぼくは自分のしたいことをしたい。付き合いたくない人とは付き合いたくない。それが一番だ。もっといいことがある。付き合いたくない人間といながら、自分の好きなことをすることだ。それをわすれていてもらっちゃこまる。よく、あの人は苦手だという。それは、自分の自由が奪われるから、そしてもうひとつ、自分は他人の言動に依存しているからだ。あの人は苦手だ、なぜなら気が合わないからという。気を合わせる必要がない。自分のしたいことをすればいい。したいことのない人間に限って不平不満はたらたらと出る。要するに、相手との居心地のいい関係をもとめているのだ。苦手なやつとは構築不可能な、楽園を作りたいのだ。そんな楽園、ただの馴れ合いなのだけれど。自分に嘘をついているわけじゃない、いい友達に囲まれて楽しく過ごしたい。人生は一人で過ごすにはあまりにも長い。退屈しのぎに友達とすごすのはけっして悪いことじゃない。暇、という観点から物事を見ると、仕事も暇つぶしだ。なにもしないですごすのは、出来ない相談。こうして、書いているのも暇だからだ。しかし、お前暇か?と言われると、お前こそ暇人だろうと言いたくもなる。暇だ、というのは相手にたいする羨望がある。もちろん、優越感と、理想を混合した感情を、羨望と言わせていただくのならば。

 2、3年前は非常に簡単だった。人生もシンプルだった。論理的なことだけが真実だった。それ以外は嘘だった。しかし、生きるほどに論理的なことが真実だという観念が薄らいできた。味気なくなったのだ。あれほどによく切れたナイフも、今じゃかみきれほどの鋭さしか持たず、ナイフを持っている実感がないのだ。そういう感じ。論理とは、頭の中に構築された一つの体型でしかない。神経質で怒りっぽく、正義感に溢れ笑顔ははじけとぶ。そんなやつに、魅力を感じなくなった。怒る人間は総じてバカだ。しかし、気持ちはわかる。イライラしようと思えばできる。しかし、それを制することもできる。気持ちを制する術は大学では教えられない。自分で獲得するしかない。カリキュラムもない、判定手段もない。現代は、判定できる価値基準を重要視する。資格の数だ。数なら目に入る。成績も目に入る。私の人間性は売り物ではない。私を自信を売って金などもらいたくもない。だから、サービスは嫌だ。本当のサービスは無償である。いくら屁理屈こねて、お金を受け取るのがサービスであるといったところで・・・力尽きてしまった。一つのことに、答えを出すのはまちがってはいないか。ある一つの思想というのは、自分の弱さをみせない戦闘服だ。言葉という銃弾を持ち歩き、相手が攻撃してくれば罵倒する。表情に、あわれみと見下しの顔を浮かべる。そういう世界がいいのか悪いのか。各自判断にまかせよう。私は、もう何も判断したくないのだ。金があれば使い、なければ使わない。それでいいのに。女を手元に置くために、友達と遊ぶために、欲望のために、仲間はずれされないために、あまりにも私は強すぎたのかもしれない。弱い人間は重宝される現代だ。太宰治はいった、もっと弱くなれと。弱くなれば、怯える。細かいことを気にし始め、被害妄想が広がり、ひねくれる。しかし、一見素直だ。ひねくれるのが普通な世の中だ。土下座する、自分がすべて悪いと言い始める。ああ、世の中はいつもこうだったのだろうと思い知らされる。喧騒が常だ。夜は、不思議だ。夜こそ太古の昔を思わせる。テレビもなくネットもなく、どうして生きられよう。お笑い芸人の命令に従って笑い、情報番組のお菓子に目を惹かれ、殺人事件に今日も世界は平和だとうなだれる。どんな世界が作られようと、素晴らしいはずはない。シリアで子供が兵士に殺される。アメリカで子供がダンス教室に行きたくないと駄々をこね、母親を怒らせる。どこへ行っても、世界は変わらないのだ。ネットにより、すぐに手に入れられるようになった情報。情報とは、広告と同じだ。タバコがいくら体に悪かろうと、気持ちが良くなるのだから吸うのだ。健康という価値観を持たなければ、汚い労働環境の中働いていただろう。汚い人間は英雄である。汚れた英雄。清廉潔白な奴は、信用ならない。それくらいのこともわからないのか。それくらいのことも。どうせ、自分はバカだから・・・と思っているのだ。言葉は永遠に吐き出し続けられる。終わりがない。自分の価値観を表明する時代は終わった。相手に媚びる時代も終わった。今はおとぼけの時代だ。どうボケるのか。自分も相手も予期しない言葉こそ今の時代に求められる。しかし、それはもう学べるものではない。シャーマン的な領域にあるのだ。もちろん、相手を説得する言葉もある。相手が他者とつるむにあたり否定できない倫理的言葉に対して問いかければなんとか相手を説得できる。それに気がついた人間は不幸だ。なぜならば、買うことも救われることもできない。

 腐っちまった世の中に、腐っちまった世の中に

 朝日が昇る。朝の静けさは不気味だ。

 静かに一日が始まる。退屈だ

 雑踏から逃れるすべは、貧乏だ。

 さて、地球は回る。

 そう考えれば、目の前の事実がすべてではなくなる。

 雑踏も、不気味な静けさも消えて無くなる。

 対象物への反応は機械化された

 AIもすぐに作れる

 合理的になるほど人間はAIに追い越される

 もっと馬鹿になれ、もっと意味不明になれ

 AIを出し抜こう

 街にAIは溢れている

 酒を見れば飲みたくなる

 反射である

 何も考えもない

 自分の体調もクソもない

 AIが仕事を奪う

 現代人は大いなる目的を見失った

 日々いかに楽に過ごすのか

 毎日がきつすぎるのだ

 まるで奴隷じゃないか

 しかも、質の悪い使い手を持った

 

世相アンテナ

 昨今は、日本人もだいぶ保守的になって、考え方が固着してくるようになった。面白い人たちは少なくなり、真面目な人たちが増えた。真面目であることが、美徳であるからというよりも、より無難な生き方として選択されるようになった。また、真面目であることが、退屈だと思うよりも、退屈な毎日を淡々と過ごせるようにもなった。しかし、不満があるわけではない。やはり、日常を離れた世界に行きたいと考えてもいる。宝くじ、投資、競馬、パチンコ等々、少ない金を元手に大金を手に入れられるシステムがある。もちろん、手に入れられる確率は極めて低い。もともと金持ちであるならば、資産を運用し働かずして金を増やしていける。したがって、人間は金銭の面では不平等である。お金を積まれたら何でもする人間もいるだろう。美徳がなくなった。もちろん、美徳という言葉を素直に受け取る人も少なくなった。私も、その一人だ。どこか押し付けがましく、ただの道徳である。言動の面で人々は自由になった、好きな人に愛していると口では言いながらスマホでは他人の性行為をみて自慰に耽る。所属する組織の悪口や不満をぶちまけるも、そこに所属し続ける。言動の面では非常に自由になった。奥ゆかしい心を持った静かな人はあまり見受けられない。ぼうっとして、歩いている人も少ないようだ。だれもが、あいてを見回しあいてを監視するように、そして自分と無意識のうちに比べている。今の時代は、戦後の混乱期に比べものは豊富だが、それにより、ひとりひとりが考える時間はなくなり、つねにものを消費する時間に追われている。つまり、相手を理解しようという精神が希薄になった。寛容さを失った。

 周囲の環境がそうさせるのかもしれない、皆早歩きにどこかへ向かっているが、生きがいを見失って遠くへは行けない。焦ってばかりいて、あぶなっかしい。街の中を車を縫うように走り抜け信号で追いつくようなものだ。社会にある信号にはさからえない。一方で、情報がすぐに手に入れられるようになり、自らの考えを補完するためのツールは増えた。いわずもがな、ネットで普段は接することもない人たちの、きれいな文章で綴られた記事を見ると心地よい。しかし、それも到底本にはかなわない。路上に落ちている紙切れを拾い上げて読んでみていい記事だと感動するようなものだ。もちろん、路上に紙切れなど落ちていない。

 何が言いたいのか、というのは相手の口を黙らせる方法だ。もちろん、自分も多少の傷はおってしまう。死ぬなら共に死のうという最後の戦いだ。何が言いたいのか。それをいっちゃおしまいよ。

 文章を書くにあたり、自分に文章を書く情熱が希薄になっている事実を直視できないでいる。前は、非常に長ったらしい文章を当たり前のように書いていた。内容はめちゃくちゃだ。意味などいちいち拾われては困るような文章だ。ただ、文章を立ち止まらずに歩きながら、走りながら、意味のわからないところは意味のわからないまま調べようともせず、とにかく読み終えてしまえば、おのずからなにが言いたいことの伝わるような文章を書いてきた。

 なぜ、わたしは意味のわからない文章を書くのだろう。ひとつには、意味はかならず定型文にそくして現れるものでそこに、オリジナル性は皆無であるからだ。いろいろな文章が世に氾濫しているが、内容はちがっても形はにている。それも、非常に似通っていて、どんなに奇抜な内容であっても文章がまずければ決して最後まで読み進められない。だから、何も考えずに読むしかないのである。現代の不幸は、綺麗な文章を書く人が少なくなってしまったことに加えて、ネットの社会にはやはり、そのように綺麗な文章を書く人はおらず、本の世界にいるということだ。本がネットの普及によりなくなるかもしれないが、それは文化の停滞と呼んでも一向に間違いではない。

 文化が、時代により多様な形をとるから、その時代ごとに文化を捉えるのも悪くない。しかし、決してこと線に触れることはない。流行だけが文化であると考えるのは如何なものか。文化とはもともと、自分の感性を耕すという意味である。毎年映画になる青春物語を毎年見ていて、自分の感性が豊富になるのを感じる人は少ないだろう。つまり、一定のニーズがあるのだが、それも、自分が興味があるのではなくて、他人の興味を追っているに過ぎないのだ。もちろん、私は本を書いた著者の興味を追っている。彼らの多くはもうこの世にはいない。だから、聞くこともできない。じぶんで、なるべく多くの本を読んで解釈しなくちゃならない。解釈が独りよがりで主観的だという批判は的を外れている。もともと、文化は自分の感性を耕すものだ。ふつう、一般の人間はそういったことはつまらないといってやらない。流行は安易だから、金さえあれば付き合える。しかし、本は頭を使わなくちゃならない。だから、面白いのだ。じぶんがいかに、多くの余計な雑音を拾ってビクビクしているのかもわかる。存在もしない他人の顔色を伺って生きているのかもわかる。それを知ろうと思わない、戦おうとも思わないのであるならば流行に従っていきていれば、周囲から浮き出ることもないのだ。現代人の特色として、アイデンティティは非常な邪魔な概念として存在している。個性は、必要とされていない。そう感じるのだ。そして、自らの個性を殺しているから、お前も個性を殺せという暗黙のルールがある。非常に貧しい。社交辞令ばかり増えて、つまらない。つまらないお世辞を営々んとしゃべる嘘が楽しくてしょうがないのだろう。嘘をしゃべるのだから、すこしは現実から逃れられる。

 いろいろ書いてきたが、相手に配慮する文章を書くのは非常に困難だ。書いた、という実感があまりない。情熱で文章を書くという言い方も非常に恥ずかしいのであるが、実際に、私は情熱でしか文章を書けないのだ。構成をするにしても、ごちゃごちゃなあたまのなかで、適当に枠を決めて書けばそれなりの構成はとっている。人間の遺伝子の99パーセントは同じらしい、だからと言って人間とひとまとめにされちゃこまる、残りの1パーセントのおかげで、人間という枠から皆結局ははずれてしまう。個性でしかなくなる。どうして、ルールを守らなくちゃならないのか。どうして、ルールがあるのか。そもそもルールと呼んでいるが、それを運用している当の本人たちはルールなどと感じてもいない。電車が来た時に、なぜこの時間に電車が来るのかを考えてもしょうがない。作った人の意図などわからない。ただ、なるべく多くの電車を入線させようという気持ちはあるだろうと、そう考えることはできるだろう。

 

現代について

 現代について、どう考えてもおかしいという考えがある。いや、拒否感だ。嫌悪感かもしれない。新しい価値観が芽生えてくる。それを理解しようとするよりも付き合わなくちゃならない。よくわからない時代だ。もとめる金は少ないし、増えるわけでもない。家はほしがる。これから、空き家が増えていくのに。だれを住まわせるというのだ。ああ、つまらない世の中だ。世の中は変化しているのに、テレビに出てくる芸能人はちっともかわらない。変わらない世の中が続いて欲しいと考えているのだろう。視聴者もしれに甘んじて、新しい息吹にさらされるのを拒む。ところで、何が新しくて古いのかという区別自体意味があるのか。それは、個人による。ある人は、はじめてリンゴを食べたかもしれない。ある人は、毎日りんごを食べているのかもしれない。そういった時に、わたしは自分についてしか語れないのである。そして、自分という人間が、はたして人間であるからといってある一定の倫理観を押し付けられるのを拒否する権利は、どこからやってくるのかわらかない。それにしても、僕は思うのだが。はたして、どうしてこう意味のわからないことになったのか。僕の頭がおかしいからだ。つまり、何を議論するべき必要性があるのか、ちっともわからない。議論に勝つことは、議論する目的ではない。自分の意見を通すのが議論の目的ではない。意見さえ出てこないじゃないか。何も新しいコトをしたくないからだ。これ以上面倒が増えるのが嫌だからだ。根底に怠け者が住んでいる。ああ、怠け者が住んでいる。確かに、住んでいる。僕は徹底的に怠け者と付き合っている。言葉が出てこないこの症状を楽しんでいる。自らが議論に参加する必要性がないのだ。議論か。何のためにするのだろう。会議もそうだ。あらかじめ、どういう内容で話すのか、決めておけばいい話なのにね。よくわからないよ。どうも集中力が関係しているんじゃなかろうか。ぼくの今の意識は、注意散漫だから、何も考えていないようにみえるときに、僕はとても集中しているように感じる。つまり、自分の脳みその好き嫌いがちっともわからないんだ。だれが、何と言おうと、結局はその人の考えをかえるなんてちっとも思わないんだ。そうだろう?じぶんの意見をおしつけがましく言うことの何がいいんだい。間違っていても責任なんか取らない。成功したら、どうだ俺のおかげだ。そういうこと考えている自分がバカらしくなってくる。ほんとうに、一体何を考えて生きているのだろうと人から言われた時に、それに応えなくちゃならないのも意味がわからない。何を考えているのか、とととととと・・・・。

媚び媚びの記事

 やになっちゃうよ、これだけ媚びた記事が増えちゃね。人の欲望を掻き立てるような記事とかさ、例えば、トエック800点になるための勉強法だなんて、そんな勉強法あるわけないじゃん笑 それに、自分を大切にしなよ。勉強のやり方がわからないというのじゃなくて、勉強ってなにかってのがまずわかっちゃいない。まず、とにかく一冊の本を読み終えるコトだあ。歴史だってそうだろ。今日は、平安時代。明日は、奈良飛鳥?よくわからないけど。それじゃダメなんだよ。とにかく、修行だね。一気に読む。ハウツー本が受けるのも、馬鹿らしい。本なんて、自分の考えを深めるためにあるの。自分の思考を加速させるためにあるの。答えなんてどこにもないの。でも、お受験の弊害かな。正解を作らなくちゃならない。そうじゃなくちゃ、もっと曖昧な相手の気分に合わせなくちゃならない。その方が楽なんだけどね。正解は、不正解なんだから。いちたすいちは、に。でしょ。でも、アメリカでは、いちたすいちはになんていってもわけがわからない。記号にしなくちゃいけない。書かないけどな。ああ、意見なんて馬鹿らしい。すべての意見を壊しちゃえ。出来合いの思想なんて、流行り廃りがあるだけ。テレビのコメンテーターのテンプレを真に受けてツイッターはバカばっかりだから、特に、政治家なんて陰湿だからね、権謀術だとかなんとか言って、じぶんの性根の悪さを正々堂々と胸を張って主張できるんだから。こんな裸の王様みたいな職業もないだろう。そんなコト考えちゃ、政治家なんてつとまらない。ただの、ひがみだと思われてもしかたがない。たしかに、ひがみかもしれない。でも、ひがみじゃないかもしれない。どっちかなんて決められない。歴史なんて壮大な人類の思いでだ。あした隕石が落ちれば、歴史なんて忘れ去られる。永遠に。今だって、だいぶ忘れられている歴史がたくさんある。中世の森に住む木こりの1日の生活は、永遠に謎に包まれている。いわんや、きょうをいきる、人の1日の生活をも。ああ、歴史は、人間のあるあるを描いているのか、それとも、歴史は、思い出なのか。どうとらえるのか。歴史は繰り返しているようで、繰り返しちゃいない。やっぱり、どっちだとはいえない。正解なんてないんだ。という、断言もまた正解があるという人間と同じくらいの思考でしかない。自分の考えを述べるのに苦労するには、自分が意見を持とうとしないからであって、意見なんてのはちっとも役に立たない。例えば、意見を持てば世の中が非常に生きづらくなるだろう。村上春樹の小説がもてるのは、オシャレだからだ。精神病院に行って抜いてもらうなんてオシャレなんだ。確か僕は、ノルウェーの森を2度目に読んだ時に、その本を破り捨ててやって記憶がある。下らないもの書きやがって、読ませやがって。木嶋早苗の本も、途中できざきざに破り捨ててやった記憶がある。どうでもいい思い出だけど。僕の一番の関心は、男女がいかに共生するかだ。僕は女が苦手だ。ただ、苦手であるのを隠すだけで充分だろうか。男は、女の意向を上手に汲み取ったものが勝ちとなる。男は必ず女に負けるのだから。女こそ社会なのだ。男は今、二重に苦しむ。社会が二つある。それは、女がいる社会と、女といる社会である。社会は男を拘束する。あらゆる法律は、弱者保護のためにある。男は過剰になるから、それを制するのだ。禁煙なんてそうだ。肩身がせまい男たちよ。どこへ行く。まったく相容れない感性がやってくる。勝ち負けなんてまだ基準があった方。今はちょっとカオス。そんな時代が、私にはしっくりくる。なにか目標のある時代は、つまらない。同じコトをしなくちゃ生きられないから。ああ、片隅で、ひっそり生きているのも悪くない。表に出て、囃し立てられるのは生きている間だけだ。だれも、死んだ政治家のことなんて思い出さない。歴史に現れる時に、名前だけが通過していく。思い出に残るために生きるあざとさは、嫌だ。