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虚構

 人生は虚構である。人生は花火である。確信、真実、誠実さ。それらに実体はない。評判にも実体はない。しかし、人間を規定する。

 

 楽しいというから楽しいのだ。人の言葉をまともにとっちゃいけない。法律やる人間の揚げ足取りは人生を生きる上で苦痛を大いにもたらす。

 

 滝沢カレンの日本語は現代日本に素晴らしい功績を残し続けている現状を今の日本人はわかっていない。

 

 俺だけが滝沢カレンをわかっているのだといううぬぼれが、北朝鮮金正恩のうぬぼれと同じかどうか確かめようがないとすれば、確かめようのない事柄は想像で埋めていくしかない。日本語は壊れていくかもしれない。現代日本語は変わっていくだろう。一方で古典のリズムは残るであろう。現代日本語に古典のリズムに乗せて文章をかければ私の言いたいコトを文章に描き起こせた快感に酔いしれるだろう。

 現在の私の罪悪感に名前をつけるとすれば、私の親やの恨み、恋人への失望、社会への思いやりというコトになる。 

 自然な気持ちを私が取り戻せば誰かが横槍を入れてくるだろうと想像する私がもう嫌なのだ。非実体的な事柄に雲泥され我魂は鋼に叩きのめされ飛び散った肉片が道路に散らばる。それを食いに来る野良犬は臭い息を吐きながら私の肉を食べていく。

 まとめ、私は病気ではない。ちょうどいいところを探そう。そこに私がいる。そこに私がいる。声は小さくて良い、驚いても驚いた声は出さないようにしよう、私はすぐに反応する落ち着くのない人が嫌いだ。彼らは周囲の目に幽閉されもがき苦しんでいる。心に余裕もなく。毎日が周囲との比較で神経は磨耗し、とてもじゃないが付き合いきれぬと神経の高ぶりに冷たく人にあしらわれる。

 

 最後に、現代日本語を自由に駆使できる存在とは誰。

他者の気持ちと私の気持ち

自己主張と考えるとき、それは自分の意見であるというとき、まだ少し君はまともなところにいるように思われる。自分の意見が正しいというとき、それを信じて疑わないときに君は余裕のなさを露呈している、なんでもいいというとき、君は判断不能とほうきをしている。寛容であること、それは意見を持ちつつも相手の意見に耳を傾けわかろうとする姿勢であろう。何も意見がないのに、他者の気持ちを汲んで実現してやろうという魂胆は寛容の精神ではなく自己の決断なり意見のなさを他人に任せているという証拠に他ならない。私は思うのだが、インターネットの記事はどれも最悪だ。記憶に残らないからだ。コンテンツとして、まるで、すぐに消費されてしまう。否、消費すらされない。薄っぺらな中身が漂っている。現実の世界で話し相手のいない人にとってはネットは仮装である西も人の意見を反映している。今私のようなコトを言うのはおかしいのかもしれない。しかし、ネットが普及したコトですぐに調べるコトができ記憶力は格段に落ちてしまっているのもまた事実であろう。私がどうすれば楽しく元気に毎日を過ごせるかと考えるときに私はインターネットを今すぐ辞めるという結論に至った。私は今すぐにインターネットを辞めるべきなのだ。本を読むべきなのだ。私はかつて本が好きだった。本を読めばネットよりはるかに情報量は少なくても、質は格段にいいものが手に入ったし、提供されない情報を推量するコトができるのも読書のおかげである。レストランでレシピをもらって作り方の工程まで書かれていなくても想像できる、それが楽しさではなかろうか。インターネットではレシピまで書かれているけれども、話のネタにはなるかもしれないが、それを覚えるわけでもなく、ただ、私は反応ばかりがあるのだ。私はあまり反応しない人の方が好きだし、自分自身そうだと思う。よくすぐに共感する人を見ると別にそれすらどうでもいいのだ。楽しいときに笑い、そうでないときは不満顔、それが一番人間らしく、人間らしいということは健康的であるというコトだ。無理して笑えばその場は良くても気が狂うだろうし、それを長く続ければ疲れ果て永遠に面白くなくても笑うという芸に執着して結局は不安に陥り何が本当で何が嘘なのだとかつまらない疑念に陥るコトになるのだ。自分で自分を欺くコトなかれ。欺いているのだとわかってやっているのだとすれば・・・たいていの人はそうだろう。美味しくなくても、美味しいというだろうし。しかし、そのとき本当に美味しくなかったものが美味しくなるのだから不思議であろう。そうか、人間は騙されやすいのだ。その方が幸せなのだと考える。家は貧乏だけど、家族の笑顔がある。家族はいないが、金はある!どちらにせよ、比べるコトを私は許容しない。うどんと、そばどちらが美味しいのかいってみたもはじまらない。比べるとはいったいどういった事態か。現象があらわれて、それを比べてどうなる。目の前にうりふたつの双子がいて同時に喋り同時に動く。そのときその二人を比べてみても何も違いがない、とすれば、どちらとセックスをしても変わらないというのか。リアクションとはもしかすれば、差異を生み出すための行為なのだろう。私を忘れないでと、アピールであろう。ノリであろう。ああ、そうこう考えているうちに私はどうも頭がおかしくなってきたようだ。

死なない方法を見つけよう

 僕が元気になるためには。そう僕は元気がないのだ。死ぬ元気さえ私は欲している状況の中どう生きろというのだ。僕は悪い子だと叱ってくれる人がいてくれたら嬉しいだろうけれども。僕はどうしてもこうやって生きているときに僕の傍にいる彼女がいてどうしてもその彼女をたまにいじめたくなっちゃうんだ。どうしてだろうと考えてみてもセックスするときになぜと考えないように向かう方向に行っちゃうんだからしょうがないと諦めてみてもそうやってたくさん諦めた数だけ新しい経験とやらが増えていき、収拾がつかなくなった僕は自分をいじめつける対象に憧れてついていく犬のような動物に成り下がったと言っても過言じゃなかろう。意味不明の多弁を弄して喋っている私ですがどうせ喋るのならカネにならないと納得がいかないと偉そうに息巻いておりますところに実況中継という面白い遊びを見つけたのでございます。

監獄上野動物園

 上野動物園に住まう馬さんたちは野原を走ることもできなければ、雨の日はぬかるんだ泥の上に座らなくちゃならない。馬なんてそこらへんにいるじゃないか。都井岬にでも行けばいい。子供達の、否、人間たちのちょっとした話のネタになるために馬は死んだ目をしている。草もないところで生きている馬たち。かわいそうに。何が動物愛護団体だ。猫の去勢ばかり気にしやがって。猫は好きなところを歩いて行けるよ。しかし馬は無理だよ。上野動物園で一番虐げられているのは馬かもね。これさえ人間目線だけれども。何が動物愛護団体だよ、猫だってセックスしたくてやってんだから。捨て猫がかわいそうか?そりゃカラスに喰われて死ぬかもしれないよ。それよりも、狭い狭い監獄に閉じ込められて餌と寝床だけ与えられて、それでいいってのか。たまには散歩にでも連れてやっているんだろうけれども。地獄だね、動物園は。動物たちにとってね。

もっているもの

私の持つ者で戦うしかない。戦って逃げるが勝ちよと言わんばかりの世界に僕は立ち残されて野原に咲いた花の短い命に憧れながら、象の以外にも長い寿命にお疲れ様と言いたくなる。上野動物園で死んだ目をした馬を横目に見ながら帰る家路に僕はうっとりする。うっとりするってのもまんざら、自己満足だけじゃない。自分を馬に投影してもいるんだろう。見せ物のために。

存在しちゃいないんだって

男は存在しちゃいないんだって。男は現象らしい。らしさというか、それしかないらしい。一方で女は場所だって言うからね。どこへ行こうにも女はいるらしいから、いなくなる心配はないというところだろう。もうなにがなにやらよくわからない。もう何も知らないと開き直ってキーボードを叩いて見せても脳に一向に負担のかからない簡単な言葉しか思い浮かんでこないんだから。僕はどうもこののんべんだらりとした世界に味付けをしたくてしょうがないのだろう。そのときに言葉が私の味方をしてくれるというのだからどうしても言葉以外に頼らないわけにはいかない。絵は時間がかかる。音楽は楽器がいる。言葉は私さえいれば何もいらないじゃないか。そう私は何もないのだ。飛行機のない世界でパイロットは英雄になれない。どうすればいいのだろうかと立ち往生しているときが退屈で僕は退屈をかじって貪って遊んで生きているのだろう。心に貧しさも豊かさもなくてあるのは陽気さと陰気さだろうと、ここで即断してしまっても何も始まりやしないだろう。偏見など持たないようにしようじゃないか。すべての私的見解は事実であるから厄介なのだ。事実は事実であるというだけで信じることを必要としないがそれに従う必要性を内部に感じてしまう。真実とは判断の丸投げであるとしておこう。君が信じたものこそ価値があるんじゃなかろうかと思うのだけれど。しかし、どうもそう簡単に物事は進んではいかないらしい。そうやっていいのがれしてもどうにもなりやしないよ。僕の表現はどうせダメだって言い聞かせて、そういう言い方しかできない自分に浸かれっちゃったってことかな。どこまでも書かなくちゃ僕は生きることができないんだ。そういえば、床が疲れたってラファエルが言ってたな。俺もゆかは苦手だな。この世界で床にて生活するのは苦手だな。ラファエルは本当に元気だったような気がする。女の子が好きだから女の子さえみとけば、ラファエルは元気になるんだから幸せ者であろう。どうせという言葉を吐いてみたとき君は本当に奴隷になっているんじゃなかろうか。

何も信じない

真実を信じる?素晴らしい!真実さえ誤解されっぱなし。

病気がつらいだって?みんなつらいんだ!

疲れたって!?休めばいいじゃないか
死にたいって?僕もそんなに生きたくはない。

 

意志!
 ある意志がある意志と対立し衝突する。別の意志が生まれ空に散らばり自覚を離れ飛び火する。家はやけ、野原が広がり道路脇の一輪の花が風に揺られ、その横をガスまみれのトラックが通り過ぎる。
意志よ!

 私が意志にとりつかれるとき、私はもうひとつある意志を持ち出す。全く別の意志。真反対の。衝突する意志を。すると意志は私を日常の中から動かし始める。世界は変わらずにあり続け悲しみはなくなる。喜びに私を向かわせる。疲れると休息する。意志にとりつかれるために私は私の別の意志を捨て去らなくちゃならないのなら!騙されているふりをしているうちに本当に騙されるんだから。
 私は誰のために生きるでもなく、生きているし、生かされているのだ。半殺しであるとしても。わるくはない。適当に時間は過ぎ、忙しなさで歪んだ顔と血色の悪い皺に苦労を見てとった私の顔もまた疲れ果てる。互いに不幸になればみんなの幸せ。幸せは一人のためにあり皆の幸せを考えることが僕にはどうしてもできない。なぜなら、幸せであるように見せつけるのもまた疲れるからだ。しかし、嘆きはしない。

 世界はみすぼらしい?否、私の目の曇りだ。曇りさえ愛おしい。老いさえもまた。