アウトプット

丁寧に書く。

ものをみる態度

 私たちの現実は画面の中にある。もはや目の前の人はホログラムに過ぎない。彼らの存在を実感を持って見ることができない。電子変換された人の影を現代人は重宝するようになった。現実という実感の感度を落としてショックを和らげる方法を身につけた。

会話というゲーム〜共感という嘘〜

 文字の世界に身を捧げるのであるならば、私は乱読をたどって決して編集者に読書の仕方なんて本を書いてくれと頼まれるような人間になっちゃいけない。バカな人間は知識人をグッチだとか、ヴィトンのブランドに惹かれる水商売人間のようにありがたがっているが、そんなバカにさっさと気づいて己の無知さ加減を認める方がずっと楽ではないか。私は本を読んでもちっとも頭に入らないし固有名詞はすぐに忘れる。だから、本の内容を問われても答えられないのだ。しかし、それでいいと思うのだ。忘れてはいるが読後感は覚えている。私はその感覚が好きで読書をしている。別段、文体だとか思想だとかに特別強烈な印象を得ることはない。読後感だけが私にとって本を読む醍醐味なのである。だから、丸谷才一の「思考のレッスン」は字面はいいが、内容が空疎である。私が内容空疎な人間なのでそれがわかる。

倦怠

 ネットが面白くないのはなぜか。誰かに読まれているという前提があるから人々の営みの中で一番大事な想像力を爆発させることは非常な厄介ごととみなされているからだろうと思われるのだ。いまだにポルターガイスト現象があるにも関わらず誰もそれに疑問を持たないで生活をしているというのが不思議でたまらない。一方で科学は非常に発展して飛行機も作ればロボットも作った代わり人間はそいつらを運営するために非常な努力を強いられ神経をすり減らしている。ロボットを生かすために働いているという人間の逆説的な生活が経済的に最も豊かになるためには必要な行為だというのを知るべきだと思う。現在ネットで業種に年収がわかる。相手と比較しているからバイトの女子高生の顔はイライラしているのだろう。とにかく私は今の時代が嫌いだ。昭和が終わり高度経済成長あたりも嫌いだ。同じように生活してそれを疑わずに生き束縛されていた時代が。いい時代なんてないのかもしれない。しかし、嫌いなのだ。太平洋戦争には死が用意されていたから生が充実していた。しかし、今の世の中はいかにして淫乱な人妻と出会って思いっきりセックスできるのかを争っているに違いない。必要なのは身だしなみ、会話、金。こんなものじゃ、本当の男の興奮と生の充実はあり得ない。死ではなく、相手より優位であるという比較による幸福しか用意されていないからだ。個人的な幸福は自殺と関連があるように思われる。私は疲れた。もうあまり手広くやらないと決めた。しかし、手を出す。今はイタリア人が面白い。彼らの感情の出し方は見ていて面白いが当事者になればただ疲れるのではなかろうか。それもまた一興だろう。日本のように毎日がロボットのような人間を作り出している国において未来は、ただ、明るい北朝鮮になるだけしかないような気がする。中国人の方がまだ気持ちが自立している。片言だから相手のことがよくわからないで済むのだ。知っている振りを知らないうちに身につけている日本人は、相手にマナーを求めそれに従うかで人間性を測る。センスは介入しない。人狼でいうグッジョブは期待できない。見てくれも大事だ。ツーブロックの胡散臭さ。保険屋の担当がすぐに変わる事案。マナーがよくても、人間がダメならダメだね。

現代論

 病気になれば死ねばいい。死ぬ権利がなぜ人間に認められていないのか。なぜ視力を回復させる研究は進まないのか。メガネ屋が廃業に追い込まれるからなのか。コンタクトレンズが不要になるからなのか、あるいはレーシックが。なぜ、いまだにトンカチの音が聞こえて隣の家は屋根が半分しか出来上がっていないのか。なぜテレビを見ていると疲れるのか。人間を見るべからず。人間は嘘をつく。それは体力を消耗させる。付き合っていられない。だるすぎる。礼儀正しい奴ほど礼儀がなっていない。礼儀だけで生きて相談相手に毒を吐く。そんな奴が一番大嫌いだ。相談するくらいならやめっちまえ。福生の消防局員の過労死が認定。妻が会見に挑んでいた。そばにいて夫の様子に気づかないのか?気づくだろう。なぜやめさせなかったのか。安定を求めたんだろ。そして、死んだ。公務員は最高だ。自分は一生安泰を決め込んだ。夫もしばらくすれば回復すると思ったんだろう。結果、死んだ。一生帰ってこない。そして、死人には労災を認められ国が金を払うことになる。妻からすれば、嬉しい話。夫が死んだのはかわいそうだけれどね。死ぬ前にやめさせてあげればよかったはず。この国が腐っているとは思わない。ただ、暗い。見えない禁止事項がある。疲れた。妻は夫を救えたはず。たとえ夫が理不尽な扱いをされていても最後のところで助けられたはず。そうおもった。

怒り

 私は怒っている。買ってきた本をまともに読んでいないこと。日本古典文学への造詣がなさすぎて古文が難しいこと。全てに怒りを持っている。私の言いたいことを文字に書き表すよりも言葉にした方が随分とニュアンスが通じるような人間になってしまったこと。言葉は私のを閉じ込める檻である限り私は言葉をどう扱えばいいのかちっともわからず途方に暮れていること。今日はれているのに家にいること。夕飯を作らなくちゃならないけれどもちっとも腹が減っていないこと。おそらくは幸せであるのに全く不幸せな人間が周囲に散乱しているのを見ること。不幸そうな格好をして人を見ると情けなくなること。サラリーマンは皆立派だと考えてそうな主婦が昼間は若い男のエキスを吸いまくってベッドで泣き叫んでいること。全てに怒りを感じて私はこの世界を救う気持ちを失ってしまい現在失職中のみである。情けない限りである。日本の文化といえば不倫であるとごうごうするくらいならもっと堂々と不倫をすればいいのに、石田純一は一体何をしているのかちっともわからない。要するに、どうでもいいことが多すぎて怒っているのだ。こだわりもなければ、なにもない。何もないことをよしとすれば、殺人犯も見逃すのかと言われかねない。つまり、全ての意見は論理的に破断しているのにも関わらずそれを証明しなくちゃならない徒労に気づいた時の絶望感は計り知れないということ。

現在

 お元気ですか。私は元気です。元気があると嘘をつくのは得意なのです。ですから、元気とだけ言っておきます。人間の本質をあまり知りたくありません。平気で嘘をつく人たちを見ていると疲れます。もちろん私も嘘をつきます。ですから、私自身に疲れているのです。書いていることに百%自身がありません。それが普通です。文字を打つ行為にのみ意味があるので私は発言内容が保存されているもそれに対して責任を一切負いません。しかし、気分次第で責任を負っても構わないきもちになるかもしれません。全ては気持ち次第です。私は気分屋ですから今日は日本人でも明日はアメリカ人。もう夜ごろにはイタリア人朝にはフランス人になっているかもしれません。とにかく変わりやすい人間です。私は私自身にちっとも興味がわかない。すべてを悟っているような気分です。人間はなぜ嘘をつくのでしょうか。嘘はバレると必ず人を傷つけます。人を傷つけるようなことをしたくない。小さいときに私は言葉の端に必ず「かも」とつけていました。動いている雲は地球の自転によると考えられもするので、「かも」とつけていました。周囲と自分を比較して私を変わっている子供だという人間たちがひどく退屈です。世の人たちに気に入られるための努力をあまりにしすぎたせいで私は見事仮面を作り上げたまでは良かったのですが、飽きたのですね。それに実力不足もありかぶっていて仮面を脱いだときさて、仮面が用意されていなかった。それならば作るしかないということでいそいそと色々なキャラを演じてきましたがついに、やる気が失われてしましました。これもまた気分次第でありますので、明日ごろになるとけろっと仮面をこしらえて世の中を闊歩していることでしょう。ただ、一つ言えることは私は仮面を即興でこしらえることができても、同じ意見を毎回言うような人になれないと言うこと。また、話を聞いてもすぐに否定してくるような輩とは話をしない術を身につけてしまったので少し退屈しているのです。たぶん、何も疑問を持たずに通過するようにすればいいんでしょうけども、行き先が分かりきってますので自分に嘘をつき周囲に嘘をつきその嘘に苦しめられるバカな真似はしたくないので私は慎重になっているだけなのです。それさえ理解を求めません。ご自由に解釈してくださって構いません。なぜならば、私は何も他人に話すことがないからです。なんにもありません。面白い話もありません。作ろうとも思いません。出された料理はすべて食べますが、言葉に関しては非常に偏食家のようです。私自身そんな自分に嫌気がさしてもいるので今日はこの辺で勘弁してもらいたいように思います。自由に物を書くためにはまず自分が持っている定説を忘れ去りバカになってみることです。ネットで意見を拾い集めて自らを守る鎧をこしらえたつもりになっているネット住民、ツイッター民の多いことを肝に命じてください。それらの鎧がごみ収集所の生ゴミで作られていることを。近頃ネットニュースももう話題にされなくなりましたが、情報が隠蔽され入手しづらくなったのでますますニュースは報道が困難になりつつあります。もう天気予報くらいしか安心して見ることはできません。悲観的でしょうか。私たちはメディアが多様化することでメディアの命令権を分散させることに成功したのです。メディアはメッセージです。マクルーハンという偉い人が言っています。私たちはいらない情報に日々接して、花鳥風月の美しさを忘れ去っているのです。自分が売れたいためにテレビに出て厚化粧に、絶叫歌手。どれも、高慢ちきな薄っぺらの集まりです。それを認めたくない。私の心の代弁者だと言う。嘘をつけと言いたい。自分の心を投影していることに気づかない。そんな奴らにビールを飲ませ、肝臓を病ませ、病院送りにして火葬場で煙になる人生も確かに悪くはないでしょう。しかし、いらないものを売りつけ合うことでものの価値もわからず、訳のわからない商品が高値で売れるような市場なる欲望の吹き溜まりにはうんざりしています。私たちは欲しくないものを買わされていることに気づいているにも関わらず、その次に何をすればいいのかわからないのです。今まで刺激話耐えてくれた戦争、反戦運動、消費活動、次は不倫の是非、ネットモラル、これらは十分に多くの人たちの欲望を実現させるための道具として利用されてきました。次は何でしょうか。私たちはいい加減、いい人になるべきではないでしょうか。しかし、皆がいい人になればいい人はいなくなります。もう、矛盾とか言うレベルではありません。この世から言葉が消えていきます。残るのは法律だけでしょうか。それならば、怪しい奴をしょっぴいて死刑にしても構わない。なぜならば、もう微妙なニュアンスがないから。0か1の世界が待っているのです。それは羅漢でいう象徴界の世界だと誰かが言っていました。それをパクって今ここに紹介しています。私たちは0か1に大別できませんね。しかし、脳みそは0か1なんです。でも、0なのか1なのかギリギリまでせめぎあっているんです。とてもアナログチックなんです。ですから、全ての論旨が骨の髄まで正しいはずもなく、論理的展開も対して信用することができません。私は論理的思考をしこしこ磨きましたが、使い道は相手の言葉を批判することくらいです。論理的整合制がない。それはレトリックだ。とかね。それは科学の中でも実証的な反証可能な言論であるならば、一回の軌跡を論理的に説明することができてもそれを奇跡というほかはありません。確率的に表現するしかないのです。そうするともはやコンピュータしか対処しようがありません。全ての判断をコンピュータに任せて人間は出された答えを模倣すればいいのです。もはや人間は考える必要もない。五感を利用することも、第六感もいらない。こんな世界がやってきているように思われるのも私がコンピューター的な狭い領域でしか活動していないからでしょう。非常に残念なのは、私はまったく自分をコンピューターに勝つことばかり考えていることです。AIが自動運転することも反対だし、全て反対です。では、何に賛成するのかといえばもはや何もありません。強いていえば、私みたいな人たちが減ってくれることだと思います。もはや、人に読ませる文章を書く理由が私には無くなっています。とうの昔に、なくしているのです。気がつかないわけではありませんでした。ただ、なんとか頑張ってみたものの認めなくてはいつまでも0でもなく1でもない世界を浮遊するだけなのです。しかし、それでもいいのかもしれません。私には、もっと身勝手にならなくてはいけない衝動があります。私には。

下手くそな文章

 ネットの映画批評なんてクソだ。監督が山田洋次だとか、ベルルスコーニだとか、オバマだとか。作られた年代はいつだとかつまらない話を先にするから読む気が失せる。しょっぱな文章が盛り上がらないので真面目な人は読書をしなくなる。だから、マニュアルしか読めないバカが増えて顔に感情噴出気味の店員が客の飯を不味くする。だから、外食は嫌いなんだ!平気で食ってる客の顔見てると脳みそが空っぽで口も目も半開き顔も不躾で見るに耐えない。飯がまずくなるのも当然だ。礼儀は差別のためにあるのをまざまざと見せつけられる。余裕がない顔は本当に不愉快だ。こちらが不安になるからだ。裸で歩いているおっさんみたいな女子高生の顔見てるとこいつらに欲情していた過去が懐かしい。今の女子高生の化粧の下手くそさ加減、面白みのなさ加減を見ていると防空壕で隣人同士米兵がくるにを恐れて待っているようだ。最低な記事は、最低な環境から生まれるならば、この記事は言葉の悪いゴロツキたちに睨まれながら書いているわけではない自由を持っている。日本人論という魔の論点、我々が日本人である固定概念の強化を先導する政府にはモルモン教徒並みのエンタメ感もなければ、それを責務としている。歴史上キリスト教関連ん戦争の使者と、日本人の無宗教が戦争に突入し戦死者300万人を出しても、無宗教は平和だと思い宗教は戦争の種だという吹聴に流されて聞き飽きるほど言い聞かされた無宗教の自己肯定感は素晴らしい花畑を見せつけてくれる。真面目に考えてみた。

 海外版ウィキだと210万人死んだ日本人、40万人死んだアメリカ人。日本では年間130万人が死んでる。厚労省に資料によるとね。事故、自殺、病死全て含めて130万人。1980年代は癌で死ぬ奴より脳出血で死んだ人の方が多くて今逆転している状態ってわけね。脳関連の研究が増えたから、その分癌は2番手だけど今死亡原因第1位。癌が楽に死ねると言われるけど、僕は癌で死んでも構わないが痩せ衰えた菅とを見せるのは嫌だね。なんで死に際で家族の脳みそにトラウマぶちこんであの世に行かなくちゃならないんだ。死んだに人の風化して骨になる様子を眺めるのは仏僧がやっときゃいい。人は死ぬときに一番幸せだ。もう悩まなくていい。バカ言え。あの世に行っても悩んでまたこの世界に来るんだから善行を積んでいい子でいなさい。素晴らしい。会場が割れんばかりの拍手に見舞われる。死ぬことはエネルギーの爆発である。情熱とは常に死をみて生きる態度である。生命力が試されるのはいつも死を意識しているときであろう。大半の人間はどうでもいい妄想で悩み暮らし死ぬ気もないのに「私死にたい」と口に出して周囲を嫌な気持ちにさせる不愉快野郎。死にたいなら勝手に死ねと相手に思わせるくらい、マナーが悪いのはマナーの本質をつかんでいない杓子定規な弱者、つまり、マナーだけを強みにして生きるしかない体力と知力の衰えたものたちに用意された武器である。礼儀を相手に押し付け嫌な奴を近づけない人間が孤立してもそれが本望だろう。