老子ってひとについて、語るのは難しい。まず、老子ってのが、誰かわからない。耳が長い人らしい。司馬遷も、3人くらい仮説で人を立てている。が、誰かわからない。だから、とりあえず耳が長い人だ。老子ってのは、それに、81編も文章を書いたが、なにせ、昔の人、誰かが付け加えた部分もあるだろう。なにせ、昔の人だから。生活の状況はうまく伝わっちゃいないけれど。何か、耳をそばだててしまう。自分は、人の意見にすぐ追従するくせに、人がある人の意見を盲目的ん信じているのを見ると、とがめる。優しく行こうぜ。それもいいじゃないか。それが、老子。いや、甚だしい間違いかもしれない。あっているか、間違っているのかの話であるなら、間違っている。自由に、物が書けない。なんたる、不自由だろう。坂爪圭吾さんのブログを読んでいて、あ、これは「かつて」の自分だと思った。自分が抱いていた妄想を全て打ち砕いた後に来るのは、妄想の建設だ。一度壊れたモノをもう一度作りなおす。もし、尾崎豊が今歌っていたら。彼は、崇拝されなかった。悲しいかな。生きるというのは。しかし、老子の言葉にそって生きるのなら、面白そうだ。坂爪さんの考えも、わかる。ネットワークをつくりたい。目に見えるものじゃなくて。目に見えるものを支えるネットワークを作りたいのだ。惑わされたくないのだ。その点は、わたしとおんなじ。そんなことって、なんのはくにもならない、だけどね。

ちっとも自由じゃないから、私は何も言えないんだ。気づきがないからね。だから、書くことがないんだ。何を書けばいいんだろう。太宰治なんかは書くことがたくさんあって、どれを書くのかふるいにかけていたという。たぶん、私が色々な物事に関する興味を断絶しているから、あまり、何も書こうとは思わないのだろう。まあ、無理に書くために何かをしなくちゃならないというのなら不本意であるのは、確かなことのように思われるけれども。今面白い人の文章は、かつての私を見ていたような人だ。どうも、私は嘘をつくのがいやらしかったのだが、いまではすっかり慣れてしまったのだ。そのことについて書けば、いずれ意味をなしてくるように思われる。誰しも、長続きはしない。文字を書くのも。毎日が、心に栄養の行き届いている生活であれば、文字にする楽しみもあるだろうが、私は恐らくできるだけ毎日が、あまり変化のないようなものにあ、ひとつの普遍的な生活に堕落してしまおうという気持ちが強いのだろうと、思われる。

青空の昼下がりに、線路沿いで。

 

「ご気分は?」

「ええ、結構です」

「といいますと」

「いい気持ちです」

「温泉でもはいられた?」

「いえ」

 

ある朝、起きたら胃さんに苦しめられた。

 

 太宰が、志賀直哉をボロクソに老人呼ばわりして殴りかかっていた。素晴らしい。作品をけなされて、頭に血が上ったのだろう。太宰は、執念深い。良くも深い。キリストに傾倒している。「汝、自己を愛するがごとく隣人を愛せ」が合言葉だ。

 どうも、僕の言葉は心に響かない。心をシャットダウンしているからに他ならない。豊かな心を持つべきた。自分の精神を開放するべきだ。昨今はあまりにもお行儀良く社会が回りすぎている。慇懃無礼ばかりだ。快活な笑いを最近しただろうか。どこか苦渋に満ちた、卑下に満ちた笑が多くないか。量の問題ではない。皆、言いたいことを言えないでいる。それは、「資格」がないからだと本人たちは思っている。根底的に、社会の奴隷根性を賛美している。働かざるもの食うべからず。そういう輩は、魂を売ってしまったのだ。彼らに、言葉はない。魂はあるだろうが、非常に排他的だ。日本人の多くは、他人に興味がなく甘えん坊で冒険を好まない。成績優秀で、立ち振る舞いが上手、自分の意見を言うよりも相手の意見を尊重し、問題が起きれば相手のせいにする。賢くない。ただ、ずるいだけだ。それに、鼻につく男も女も増えてきた。自分が一番だと思っている。服装だけじゃない。精神が、悪い。余裕がない。時間で給料を稼ぐことしか興味がないのか。嘆いてもいいだろうか。お笑い芸人なら遊んでも許されるのか。哲学的問題を云々するだけが唯一世間の許すまっとうな悩みの道なのだろうか。

 太宰は「弱くなれ、もっと悩め」と喝破した。まるで禅僧だ。非常に純粋だ。それゆえに、酒にも染まる。兄に、フランス行きを提案された、金も出すらしい。しかし、文学の基礎をわきまえてからいく兄に返事をした。本当は、女と離れたくなかったのだ。女の、金のない生活のほうが大事に思われたらしいのだ。どこか、貧しさに寄り添う英雄気取りも太宰にはある。例えば、ジョンレノンも太宰治とどこか似ている。それは、金と物よりも精神に重きを置いたのだろう。金とモノを感じるのも精神だ。貧しさには寄り添うも、世間を徹底的に嫌った。太宰は、神になりたかったのか。彼は、実家が金持ちであるが自分は稼げないことに引け目を感じて、価値の大転換をはかり貧しさこそ幸福であると自分を生き長らえさせたのかもしれない。そんな太宰にとっては、女を裏切るのは最も苦痛だったに違いない。守れないと、落ち込む太宰は、女とともに玉川上水とやらに飛び込んだ。

 翻って、現代である。テレビはある、食べ物もある。安い物件もあれば、働き口もある。贅沢はできなくても、インターネットで暇を弄べる。皆が世間様になった。だれも、世間から逃れようとも思わないでぬくぬくと生きている。それで構わない。構わない。ただ、どこか納得がいかない。私は、誰よりも不幸だとも思わない、また、誰かを不幸だとも思わない。かといって、幸福かと思えば、確かに幸福だ。路頭に迷っているひなびた服きたおじさんをみると、嫌な気持ちになるくらいだ。それも、明日はわが身という言葉と、自分は優しいと思い込んでいるのに、人を選んで、ちっとも優しくないからだ。都合の良い人間を周りに配置する。そうすれば、自分はちっとも傷つかなくてすむ。太宰は、弱くなれと言った。弱くなくては、弱さの美しさもわからない。そんな美しさをどうでもいいと思うなかれ。太宰は今生きていれば、どこにかれは悲しみをみつけるだろう。美しい悲しみを。いま、街には、楽しい顔ばかりが溢れている。彼らの嘆きは家に持ち越される。外には出ない。インターネットに転がり込んでいる。ネットさえ、近頃は日向に出される。何もかもが明らかなようにみえる。外に出れば、幾多の人がいる。

 

 脳みそに常に騙されるのは、あまりいい気持ちではない。例えば、君が何かをしようとあくせくするとしよう、脳はその状況を大いに楽しんでいるのだ。

つまり、脳みそには楽をしようという気持ちもあれば、同じように苦しんでやろうと思うところがある。タバコだって、一度や二度吸っただけで依存症になるのは初めの方で、しばらく禁煙期間があれば、タバコを1日に数十本吸ったくらいでは、依存症にはならないのだ。体は、悪い物質への反応を快感を感じてしまうところが、どうもあるらしいのだ。だから、一番はじめが一番依存症になりやすいのだ。他に趣味が見つかれば、そちらに脳みそもシフトされて、いわば、脳みそを騙すのだからそれでいいのだ。意識をぶっ飛ばすことで、一度脳みそからの支配を免れるのは、悪い経験だとは思えない。

 長谷川豊さんが、いろいろと日本を変えるために、政策を打ち出してこのあいだの衆議院選挙に千葉から出ていたらしい。それは構わないのだ。彼の動画を昨日見た。とても良かった。しかし、簡単に殺せだの死ねだの言わないほうがいい。確かに、病人を減らせば医療費を削減できるだろう。しかし、それでは本末転倒ではないか。思うのだが、医療費自体を安くしちまえばいいんだと思う。なぜなら、ある程度医者は確保できたではないか。何故医者に高額の診断料を払わなくちゃならないんだ。医療の世界でももっとコスパが良くなればいい話だ。看護婦が大変というが、それだけの給料をやらなくちゃ誰も面倒をみないという世界もおかしいのだ。いろいろ入りやすくして、病院を大きくすればいい。とにかく、あまり医者にはかからないことに越したことはない。医者という人柄をそう誇示する必要もない。病気でもなければ、何の用もないんだから。医者が嫌いというわけじゃないが、世の中の風潮として医者に従っておけば、悪いことはない等ながれがあるような気がしたからだ。たぶん、世の中を元気にするには、自分が元気であればいいように思うのだ。長谷川豊氏の動画は、確かに言葉は悪いし行っていることも理路整然であるけれども、それをいっちゃおしまいよ、というところがある。しかし、彼はもっとちゃんとした現実的な妄想に従ってそれを実現するだけのいっちゃった脳みそをおもちですから、何か、劇場で漫談をすると本当に受けると思うのだ。それくらいしか思いつかない。

 かくもわけのわからないことを脳みそは受け入れる。私は自分が考えるよりも先に自分の気持ちを表す訓練をしなくちゃならない。何かを考えるときにすぐに没頭しなくちゃならない。それは、仕事でもきっと役に立つだろう、としたをすりすりして唇の周りをなめなめしているのだが、あまり、期待できない。というのも、私が破綻しているからだ。私はもっとハイにならなくちゃというプレッシャーもあるけれども、ハイがきついのもよくわかっているので、あまりハイになりたくない。なろうと思えば、なれるのだ。そこが面白いとこである。突然怒りが湧いてくる人は、自分をコントロールできないのだ。私はたまに、なぜ他の人なら嫌な顔をする場面で自分は平気でいられるのかわからない時がある。それは、わたしはあらゆる経験がいろいろな諦めの元に動いているせいもあるかもしれない。おそらくそれしか、思いつかないのだが、もう一つ思うのは、やはり自ら文字を起こすことでその状況を楽しめるところもあるかもしれない。笑い転げたり、またもう一度そのような、人が嫌な気持ちになるような状況に居合わせた糸はちっとも思わないが、おそらく、私のイライラポイントは、私の速度を邪魔されたときにあるように思われる。例えば、前に遅い車がいるとき、私は自分をぐっとこらえる快感に酔いしれる。自分が思っていたスピードではない速度を強制されるのだから、相当に私は自分の心のアクセルとブレーキを抑えているのだ。節度は、ある程度人間に快感を与える。ある程度の快感がいいのであって、度を越すと、酒を飲みすぎて路上にへたり込みゲロを吐き散らすように、気持ち悪さが増して快感を受け付けないようになるのだ。ほどほどがとてもいいのだけれども、それを肯定する気持ちの意味のわからなさは格別だ。決して書物は伝えるためだけに描かれるのではないし、書物は私の場合自分の考えを明らかにするところにある。なぜ書いているのか問われるとき。私の体調を良くするためだとなぜ思わないのかいつも不思議なのだ。私にとって書くというのは喜びそのものであり、それを他人に見られるのは少し恥ずかしいけれども、どこか嬉しいのだ。その気持ちを忘れないでいるのはとても難しく、ときには暴走してつまらないことを永遠と考えて、でも、長く、出来るだけ長い文章を書こうとしているのだから、とてもじゃないが普通の人じゃこんな退屈なことを続けられないように思うのだ。しかし、見た景色等を自分が文字にするのはとても心が落ち着く作業であるのもまた同じだ。私の場合は、文章が綺麗なわけではなく、どこかもどかしさがある。いきなり飛躍することもあれば、詳細に書きすぎて、行き先を忘れてしまうことがある。近頃の私は、どうも記憶力が怠けてしまってちっとも名前を覚えないのだ。シシドカフカが、きのう私がみた新しい名前である。なんでもいいので、名前を文字にするのがいいように思われる。しかし、なんでも考えているとイライラするのもまたそうだ。相手の気持ちがわかったつもりになって、相手の怒りを自分に転移させるのの文字は有効なツールだ。相手からダウンロードする際は是非文字に起こしてみるといい。しかし、文字にしないことでダウンロードを免れることからしてみれば、こちらに、削除のツールがない限り難しいかもしれない、ダウンロードするということは。

どうやら書きすぎてしまったようだ。私は内部でだいぶ言葉を抑制しているのだろう。自由に言葉を発せないでいるのは苦痛だ。周囲の事物を、新しく見るために、また、従うために沈黙を強いられているのだ。沈黙も、実は悪くない。沈黙は、素敵である。言葉というのは、酒のようなものかもしれない。あまり、飲みすぎると酔わなくなるし、飲まないではいられない。言葉で人が動く快感を身につければ、言葉から離れることはないだろう。言葉でモノを考えるのもアリかもしれない。私は言葉で思考するのが楽しいのだ。だから、ある人の意見が完璧であるようには思わない。支持するなんてこともなくなってしまう。政治で世の中が変えられないほうが、小さな政府と言えるではないか。だからといって、政治をするためだけに食事会は宴会を開くのは最も恥ずべきことだが、こんな単純な倫理も、今は口先だけの人間が非常に増えたのでダメになってしまった。ダメならそれでいい。失敗と認識すのならば。それを延期ばかりしているではないか。それをどう言い訳するのか。私の状況に非常に良く似ている。もしかしたら、人間は自分の置かれた生理状態を分析に使ってはいないだろうか。だから、ある人の価値観は彼の服従の精神と、そして、彼のしたがう倫理観に属しているのだ。

人間は理論的であろうとすると感情が損なわれる

 理論は宗教である。核は危ない。それならば撤去だ。原子力発電所を壊すか?爆弾を仕掛けて、放射能を撒き散らす。私は、したくない。働いている人もいる。発電所じゃなくても他に働き場所はある。老人が死に、人手は足りていない。発電所を止められる。だが、もらえるお金を減らしたくない。貧乏と人は呼ぶ。貧乏になりたくない。周りからは馬鹿にされ、相手を強く羨望する。自分もうまく立ち回れたはずだ。そして、私が羨望する相手の位置に自分がいたかもしれない。憎しみ。私は、憎しみを持っていた。羨望かもしれない。多少はあった。しかし、人より少なかった。比べられるものだろうか。皆、比べたがる。職業、収入、財産、地位、名誉、数多ある。人は、その人についてくる特典を欲しがる。それに、男女差はないだろう。数字で証明しようとする努力をして、白黒はっきりさせられるだろう。あらゆることが可能になる。あらゆることが可能になる。それを可能にするために、ぶらぶらする。行ったことのないところに行く、食べたことのない食べ物を食べる。チャレンジと呼ぶ。チャレンジだろうか。わからぬ。

 近頃はあまり心配事がないような気分だ。気分だからまたいつ、発作のように不安が神経を蝕んで緊張状態に陥らせ頭の上からつま先まで固くするのかわからない。しかし、私はいま空気に包まれているようだ。肌の周りに空気の層があって、それに守られている。直接に事物と触れ合うことから自分を守る肥後膜のようなもの。その正体は、優しさである。優しさの気まぐれの中に安住していると世の中も平和に見える。アメ横を歩くと、薄汚れたパーカーを着てヨレヨレの靴を履いたおじさんが歩いている。渋谷では頭を見事に禿げ上がらせたおじさんの頭の上を雨の日の冷たい風が吹き抜ける。見た目では薄汚れているが、心では華やかさを求めているに違いない。だれも、寒くて冷たい場所を好む人はいないだろう。太古の人は洞窟で暖かく暮らした。火を起こす技術を知らなかったので、一度焚いた火を絶やさぬように寝ていても数時間すれば起きて火が絶えぬように落ちている木を放り投げたりしたのだろう。断定ができないのは、私がその現場を見ていないからだ。私は自分が見たことと自分が推測して、あるいは妄想して語る部分を混同させないように努めている。ある人は、思い込みが激しくて彼の思想を他の人の思想に見出し、その他の人を批評する。小林秀雄のようなものだ。彼の文章は確かに突き抜けた自由なところがある。文体が、独特で当たり前のことを当たり前ではない言い回しで言う。一方で、サラッと書くときもある。小林秀雄を読むと確かにその文章に引き込まれるが、彼の言いたいことは文章上に表現されてしまっているのだ。場当たり的で、何か相手に意をくんでもらおうと言い回しを諄くしてみたりすることがない。私は小林秀雄のような文章を書きたいと思った。世の中があまりにも自分を見捨てて、得点に迎合するような文章ばかりを書いているように思えたからだ。彼らは実際にそうなのかもしれない。自由に書くのは非常に難しい。あるテーマについて、しかも、文章を書くのがいいと思うの。思っていることを書くのは難しい。書くために、つまらないテーマを設定して自分の書きたいことから遠ざかっていくばかりだ。それで、良い場合ももちろんあるのだ。だれかに評価される際、もしくは弁護したくない被疑者の弁護人であったりするのだ。言葉のルールで戦うのと、魂を言葉に乗せるのは大きな違いではなかろうか。さっさと定型文に落とし込めて、法の安定性と弁解しながら忙しい実務に励む裁判官の個人的な思想は、一挙に仕事を担わされそれに文句も言えないが名誉だけはいっちょまえにあるので、その椅子に座り込んでいる裁判官を悪くは言えない。私たちは、いろんな人に対して偏見を持ちすぎであるから偏見を捨てろと言われても、簡単に捨てられるもんじゃない。でも、今の私は偏見が捨てられるように思っている。ひとつは、自分をなくすことだ。それは、難しいというよりコツがあるのだ。信条だとか、信念だとかを自分が持っていることをまず知らなくちゃならない。相手のことをどう思うかについて自由でなくちゃならない。その上で、相手を自由に見るのは、私にも同じような自由をもたらす。皆一様にひとつの癖を持っている。短気な人であったり、優しい人であったり。それが、各人に様々に見られる。優しさが弱さに、短気さが雄々しさに。しかし、各人が拠り所にしているパーソナリティの根源は、魂のようなもので、それは一つである。それにまとめられる。しかし、あいての性格について話すのはすこし踏み込みすぎでもあるかもしれない。あいての行為について話すのであり、その人間性には踏み込まないのも自分が自由に相手をみるためのコツとして必要かもしれない。だれかを憎むとき、それは誰かすでに憎んでいるような人の真似をするものだ。国民性ように、あるいは、友人、恋人、家族で仕草が似てくるように。考え方や、仕草、性格も伝染していくのである。社会の制度が悪いから凶悪犯が増える、といった場合、これは科学的な手法を用いて証明される出来事ではないかもしれない。しかし、あたりはつくであろう。そういう気がするであろう。論文という証拠がなければ何も言えないようで、ダメである。自分の感覚器官さえ、証拠になりうる自由はある。そして、その証拠の不確かさもまた自由の中にある。よく、自由が欲しいだとかいう何千回と耳にしたような言葉を吐く人間がいる。おそらく、自由が欲しいわけでもないし、自由について知らないし、自由になったとしても自由が欲しいと思うであろう。社会制度がある特定の犯罪を生み法律が対処していく場合に、誰の利益になるような制度が設計されるべきであるのかは、おそらく知っているものよりも、知らないものを保護する方向でなされるべきである。知らないものを保護しすぎると弱者保護の過剰であるというかもしれないが、自分が弱者であることを認識していない場合が多くある。何が多くて、何が少ないという話は、あまり意味をなさない。多いから正しいわけでもなく、小さいから正しいわけでもない。自分がどう思っているのかと考えるとき、アメリカ人は自由であるのか私にはわからない。彼らは、自己主張を信じているが、彼らの主張は一様であることがままある。日本の場合は、集団的ではあるが、個人への配慮は十分に及んでいるようだ。この種の議論も、もう古いのかもしれない。しかし、温故知新である。話が込み入ってきて雑草の中を歩いているようだ。金塊でも落ちているだろうか。自分の興味のあるところばかり歩いていては学ぶことは少ないだろう。習慣に従って生きているうちに、自分の欲望なり、自分が抑圧されていたことに気づき、他の人にもそう振る舞う人間も出てくるであろう。独りよがりになり、弱い女がたくさん従って、自分が強い男であると錯覚する人物も出てくるだろう。このように、女だとか、男だとか、あるいは、女が群がれば、男は自分が強いと錯覚するような人物がここにいる。あるとき、私は動画を見た。私の見る動画は、たいていくだらない。バイクがクラッシュした動画や、バイクが車とぶつかりそうになって互いに罵り合うような動画だ。とても激昂しているし、普段ではみられない視覚の感覚だ。あるとき、バイク乗りが道路に落ちているスズメを拾い上げ近くの花壇の上に乗せてあげたり、車の行き交う道路の真ん中で故障した車をみつけたバイク乗りが、バイクを止め、その車を後ろから押し安全な場所に避難させるのを手伝ったり、あるいは、森の中にいたなきじゃくる女性に声をかけ、暴力できな彼から逃げてきたのであろうが、その女の子をバイクの後ろに乗せ、自分のかぶっていたヘルメットやジャケットをきさせ、近くのファミレスに連れて行ったりと、そういった動画を見た。そして、コメント欄にあった言葉に私は納得した。「道路で怒り狂っている人間を見るよりも、こういった人間の行為を見るべきである」と。事故や、ハプニング、そして、下ネタは難しい。だれも、好きで事故に合わないし、下ネタも話している本人も心から面白いわけはないのだ。性的な事柄はプライベートであるゆえかもしれない。ニュートラルな姿勢は貫き通すのが難しい。力を抜くよりも、脱力させるのは難しい。難しい、難しいと嘆く言葉の裏には、意味のわからない言葉が待ち構えている。それらは、いつか言語化されるだろうと期待して椅子に座って出番を待ち続けている。邪険な眼で世の中を見るのは滑稽だというのいいすぎなのだ。ただ、私にできることはふつうであるように振る舞うことだろう。そうすると、周囲はふつうにみえてくる。世界が、陰謀に包まれているように思うと、そう見えてくる。私が人付き合いにこだわりがあるのも、私がある一定の友人の影響のもとに世界を見たくない気持ちがあるからなのだ。自分の物の見方を押し付けてくるような偏見に満ちて、その見方に気づくことなく、そして、変わることのない人間と話すのはすこし苦痛を感じるのだ。苦痛から逃れるのは、弱さだろうか。むしろ、多くの人はそのようなビッグマウスに追従して阿鼻叫喚し、自分が何者であるのかもわからずに、インターネットの情報に振り回されて、何が心から楽しいのかを見失っているようだ。一度オフラインにして、自分の体からくる感覚を楽しむべきであるように思われる。それは、難しいことではなくて簡単なことなのだ。しかし、すぐにスマホに手を伸ばしてしまう。これは、僕が自分への戒めで書いているよりも、誰か不特定の相手に書かれている文章であるように見えるけれども、これは、おそらくは、自分への戒めなのだ。このような形でしか、文章は成立しないのかもしれない。あいてを説得する目的で書かれた文章は見え透いているし、自分の反省文は相手にちっともわけのわからない文章になる。ひたすら平身低頭に謝っている人に、もう謝らないでくれというのに似ているような気がするのだ。意思の疎通が出来ていないのなら、謝ってもしょうがないじゃないか。心にもないような侘びと、内容を理解していないような心からの詫びも意味をなさないと考えているからそう思うのだろう。果たして、謝って欲しいという気持ちを抱くこと時代が間違っているように思うのだ。純粋に人間を心の底から謝って欲しいという、相手の気持ちの改心を要求できるのは、神である。私は神ではないので、心から相手に謝ってもらおうだなんて思っちゃいないし、そのような人間にあったこともない。私が失敗をしなかったからだろうか、それとも、相手に謝罪するような場面に出くわさなカッからだろうか。自らの過失で人を殺してしまい謝れば改心の情ありとみなされていある刑を免れることがあるかもしれない。しかし、その後相手に自分を誤らせたことに対する念を持つようになるだろう。

石川啄木に、

一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと

とある。

 

 

他人とは、混乱している。何を考えているのかわかりたくない相手である。沈黙していて、何をしでかすのかわからない。いつ怒り出すのかわからない。その他人が集まって構成された社会に生きる上で、ルールが必要である。人を殺すなとあれば、人間は人を殺すものかと思わずにはいられない。私は、何にとらわれているのだろうか。このような考えがもたらす最高の結果はなんだろうか。僕の文章は本当にちっとも良くならないし、思ったことをそのまま書いたほうがよっぽど良いと、道元さんが言っていたので、なんとなく自分もそれに賛成して、こうして色々と書いているのだけれども。

絶えず流れてきては、過ぎていくのが、人の意見で、何か言ったかと思えば、何を言ったかなんて覚えてもいない。人の意見は、自分を言葉にして縛りつけるようなものだ。思考が言葉に縛り付けられているのは、実に不愉快だ。そして、人間という言葉を使うのもやめようではないか。何か、間違っている気がする。私は、おそらく「人間」様について、何も語れない。私が持っている「人間」についての、妄想、希望、諦めを「人間」という単語に思いを込めたところで、人間について正しい理解などは決して得られない。そして、私が「人間」について話すとき、相手も人間であるから、その不自然さに不愉快になるかもしれない。とにかく、私は「人間」なんて言葉を使うのはやめにしよう。

強い主体が必要である。自らの気持ちを誰にも譲歩せずに明らかにするのが大事だ。では、自らの気持ちとはなんだろうか。私は、いけない扉を開こうとしているような気がする。自己を理解しようとする。例えば、テレビばかり見ていると、いつの間にか、テレビで起こったことが実際に自分の身に起きているように感じる。テレビでの事件が、自分の生きているところと何か関係があるように感じられる。テレビが持つのは、集団の意識への働きかけだけではない。集団の無意識にも確実に働きかけている。無意識とは、意識されていない前提だ。殺人事件が起きると、コメンテーターが異常な事件だ、という。異常な殺人事件とはなんだろうか。殺人事件が、そもそも異常ではないか。加えて、人が人を殺すのは昔からある人間の太古の営みではないか。セックスだけが、昔から行なわれているわけではない。私は、人間について語りながら、自分を慰めている。人間は、浮気をするものだから、自分が浮気されてもあまり衝撃を受けないように、といった具合に。予測不可能な人間の動きは、おそらく非常に不愉快なのだろう。人間不信も、自分の予測する人間の動きが、実際の人間の動きと合わないという状態であろう。相手に合わせて行動する人間ほど、相手に対してなんらかの一定の行動を求める。そして、自分もその相手の常態化した行動に符合することで、自分を取り戻すのである。相手と自分の区別をつけることができない。相手を自分の考えのもとに、もしくは、自分の信仰の元に行動させる。教師であれ、王様であれ、上司であれ、こういった行動をする