アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 僕はもうどうしたらいいのか、わからないんだ。気持ちもよくない。天気はどんよしている。ものすごい曇り空なんだ。雲に押しつぶされそう。それでも構わないか。別に大丈夫だよね。大丈夫だよね。そう思い続けてきたけど、無理かも。もう自分の足で立って歩くのも無理。外にも出たくない。たぶん、怒りだとか憎しみを沸かせないため。世に出てそれらの感情にぶつかれない。だから、こもるんだと思う。みんなの笑顔が怖いよ。いつか崩壊しちゃうんだ。それって、崩壊して欲しいってことでしょ。ひどいよね。ほんと、自分ってひどい人間だなって思う。そりゃ神様も見捨てるに決まってる。こんなやつ作った覚えないぞってね。だからと言って、死を与えてくれはしない。懲役刑を科してくれたりする。意地が悪いや、神様も。

明晰な意識がもたらすものは何か

 明晰な意識は、常に善悪判断を働かせて私を萎えさせる。言葉狩りがなされ、論理的な言葉のながれが生産される。だから、退屈していたのだ。言葉で遊ぼうよ。妄想しなくちゃダメ。だけど気づくのが遅かった。哲学者になりかけていた。でも、彼ら哲学者だってだいぶ言葉で遊んでいるんだぜ。ただ、おしゃれなバーで女と話すのには哲学者は不向きだってこと。それを聞いてくれる女はそうそういない。だから、俺がラカンの話を持ち出して、世界は二つある、目に見える世界と、目には見えない言葉の世界がね。価値っていうのは、目に見えないね。まったく見えない。みんな、星の王子様は好きだろう。「大切なものは目に見えない」ってね。でも、それを真に受けながら、実行する人はいない。相手の見た目を評価し、最後に、目には見えない部分も価値があるということにしているだけ。「大切なものは目にはみえない」のだから、外見なんて気にしてちゃダメでしょ。

 憎たらしいほどの太陽が僕の目を威圧している。外に出ることなかれ。外に出ることなかれってか。言われなくても出ませんよ。そんな気分だからしょうがないじゃない。僕なんて生きていても意味がないんだって、もうずっと思っているけど、思っているだけで何もしない。意味なんてないんだってことにしている。だから、悩むこともない。それでも意味がないことに悩むのなら、ほっとけばいい。悩みたいから悩んでいるだけなんだろうから。解決なんて野暮なことしないで、悩み抜いて見事ハゲ散らかした親父になれば、ああ、あの時悩まなければよかったと後悔する日がちゃんと来るんだからね。そうだろう!?

 

耳が聞こえなくなったら

 耳が聞こえなくなったら、記憶も消えちゃうかも。だって、音を忘れちゃうんだもん。忘れちゃったら記憶は取り戻せないね。耳を切り落としたゴッホだけど、発作だとか何だとか言われて病気のせいにされているけど、なんで病気になったのかは誰も問わない。持っている気質だとか言って片付けるのが常套手段ですからね。ゴッホは多分耳を切り落として先入観を捨てたかったんですよ。記憶には先入観でしょ。りんごの記憶があれば、見ただけで甘さだとか想像してよだれを出してします。ゴッホはひまわりを小さい頃に見たことがあるんですよ。そこらじゅうにさいていたひまわりが好きでしょうがなかった。そのひまわりも、大人になるにつれ枯れてきたのです。枯れたのは、ひまわりではありません。心です。ひまわりを見る心が枯れてきたことに気づいたのです。先入観がひまわりを作り出して、目の前のひまわりを覆い隠してしまっているのです。はじめてのひまわりを見るために、彼は耳を切り落として記憶を消し去りたかったのでしょう。

 感情って、なんで鈍磨するんだろうって、考えたら当然の答えが見つかりました。それは、感情を持てば苦しむからです。感情が苦しみを与えることをよく知っているからです。無表情は悪くないです。そんなに責めないであげてください。無表情であることと、無関心であることに違いはないのです。好きな人の前だと人間は真顔になってしまうのです。私だけかもしれませんが。そもそも、私って人間でしたっけ。人間じゃないのなら一体私は何者なのか。定義から逃げて私は何になろうと計画を立てているのでしょうか。完全に崩壊するべきは私なはずです。

 命ある限り、電気がある限り、パソコンが壊れない限り私は、魂を文字に託します。私の魂は私の肉体にはもはやありません。文字にするときに立ち現れてきます。まるで、絵画を描いた人間が表現するのは作者の魂であるのと同じ理屈です。ゴッホは、不安定な精神の中で、瞬間に見える魂をひまわりの絵に託したのです。私もゴッホのように、ひまわりの絵を描いてみようかな。魂を外に出したくてしょうがないのです。外に出してあげて魂を肉体から開放したい。プラトンが書物を嫌いながらも、劇作を書いたのは魂を外に出したかったからでしょう。それも、他人と会話していてはどこか魂は不自由だ。相手は魂を受け入れないでしょう。だから、物言わぬ聞き手であるパピルスに魂を植え付けていったのでしょう。魂を肉体から取り出して、紙に書き写したいものです。

 私が自殺をしない理由は、魂がそれを望んでいないからです。もちろん、魂はこの文章そのものです。ここに書かれていること以外の本音を私は持ち合わせていません。あるのは妄想だけです。妄想だけが現実をより鮮明に現実に仕上げます。空なんて飛べるよと、空が飛べる世界でわざわざ言う必要はないのですから。だから、私は空なんて飛びたくないんだと叫びたい。空なんて飛びたくない。それは、空を飛べると信じているからです。生身のままです。もちろん。それを信じきれる人だけが人生を生きられるのではないでしょうか。そう思わずにはいられません。

 

 がらんどうの空き箱に

 猫がいた

 白とグレーの猫だ

 空き箱に手紙が入っていた

 「だれか養ってあげて」

 空き箱を持ち帰り、育てた

 猫は次第に太って

 私の体重を超えて

 私の体重はみるみる減って

 とうとう家を離れ病院に寝泊りすることになった

 猫の面倒は、友人に任せた

 ある朝、友人から連絡が来た

 猫がいない

 私は

 野良猫だからね

 と、言った。

 しばらくして、真夜中に

 猫が布団の中に入って私の足に擦り寄りながら

 寝ていた 

 しばらくして、私は永遠の眠りについた

 猫は、病院で飼われているらしい

 患者には愛されるが

 医者や、看護婦、患者の家族には毛嫌いされているらしい

 よかったね、猫

どうして皆とおなじじゃないといけないの

 皆と同じなのがつまらないのです。退屈なのです。両親の生き方を見たとき、こんな人生は絶対に嫌だと思いました。だから、私は両親の言う無難な人生を捨て去りました。そして、今無難な人生を望んでいるのです。矛盾しています。しかし、確かなのは私の人生はまんまと無難でない人生を歩んでいるということです。

 人生とはなんでしょう。人生は生き方だと言いますが、人生は生き方ではありません。人生には、こう生きるべしというパターン化されたメニュー表です。時間と空間が用意され、そこに私のエネルギーがある。そのときに、何ができるのか。人生というとき、私たちは想像力を失います。人生として考えられることばかり考えて思考が狭くなるのです。つまらない批判ですね。

 つまらないと思いませんか。つまらないことをやめるのが一番効率的な人生です。用意されたメニューで遊んでみるのも人生です。誰かを傷つけても仕方ありませんね。だって、それが人生のメニューに小さく書かれている特記事項だからです。小さいから見逃してしまうのです。見逃しは誰にだってあります。

 

小さな音

 秋の虫が鳴いています。高い音を出して。部屋は秋の音に溢れています。潮風に満ちた港は、何に満たされているのでしょう。私にはわかりません。ただ、私にはわかりません。死ぬことだけが私に残された最後の抵抗手段です。それだけは明白です。その実行について話すことはありません。今すぐに、引き出しからナイフをとって、喉元を掻っ切ることだって可能です。

 あらゆる死の可能性を考えると、何も食べず寝なければ脳は重症化して全てを忘れ精神病棟に入ることができるかもしれません。そこで廃人になっていきるのです。笑顔も涙もありません。体重は20キロ以上落ち、顔はこけて目は虚ろです。美しい。私はこの美しさの虜になってしまいそうなのです。

 惨めな人生を送るのなら、死んでしまいたいのかもしれません。中年オヤジになりたくないのです。まだ、若い時に死ぬべきなのです。私にとって長生きは恥です。あくまで、私にとってです。長生きしたい人は、長生きすればいいじゃないですか。早く死にたい人は早く死なせてあげてください。