アウトプット

丁寧に書く。

大前提として人間は間違うし過ちを犯すもの

 高齢者免許返納で少しでも不安があれば免許を返すべきだとか抜かすバカがテレビでものをいう人間のレベルなのだから、テレビなんて本当に亡くなってしまえばいいのにと思うのだ。福島の原発事故でも結局テレビは芸能人が復興を支援してえらいといことくらいしか言えなかった。ちょろっと特集を組んだかと思えば議論はさせず、視聴者に匂わせるばかりで決して意見を言わないけれど、匂わせているのでなんとなくいいたいことが伝わる。実に日本的なやり方だ。悪いことを悪いと言えない。

 なぜか、なぜ言えないのか。それは間違ってはいけないからだ。テレビは間違ってはいけない。報道は間違ってはいけない。確かにそうだ。しかし、人間は間違うものだ。それを恐れてものが言えない。免許を返納するのは老人の勝手であると芸能人は言えない。スポンサーが必要だからものが言えない。視聴者に媚を売らなくちゃならない。かと思えばだ、公共放送も同じで免許を返納させようとばかりする。

 本来テレビは中立的立場であるべきなのだ。それにもかかわらず、視聴者におもねって視聴者の好む味付けにして視聴者に迎合しているから視聴者も見なくなる。当たり前だ。視聴者という人間は自分が何を見たくないのか知っているからだ。わざわざテレビが見たくないものを報道しない必要はない。

 

インスピレーションあいすくりーむ

 いつの時代もいい時代っていうのはないのだから自分で暮らしやすいように工夫をしなくちゃならない。その工夫を怠っているから世の中にありえない事件や事故が引き起こされるのだろうが、確かに運命としか言いようがない事案もあるだろうがやはり因果関係を辿れば何かしら原因を見つけなくては気が済まないように人間は作られているのだろうか。

 池袋でじいさんが母娘を轢き殺した事件においてこれが、単身者がふたり死んだのであるならばあまり大きな扱いはされなかったはずである。近頃は埼玉でヨロヨロの爺さんが包丁振り回して警察官を挑発し発砲されて腹部に見事命中し死んだ。

 私は思うのだが、母娘の命を重く身過ぎているように思われる。テレビの視聴者はその母娘と爺さん婆さんだから互いの中を悪くさせるようなことを流すなとは言わないが、世論もおかしくて結局は命の重さという点で差別している。上級国民という言葉も世論から出た言葉でメディアは池袋で事故を起こした爺さんを元通産省なんちゃらかんたらと呼んでいる。では、警官に発砲されて死んだヨロヨロの爺さんは元なんだったのだろうか。職業を転々としてまともに働いてもいなかったのかもしれない。それを考えるだけでメディアは世間のご機嫌取りであり結局は真実を求めて報道する姿勢よりもネットで拾った情報を組み合わせて取材と抜かすのは、怠慢でしかないのではないか。そして、それをなんとも思わない視聴者は既にテレビを離れてネットで罵詈雑言の言い合いで互いに疲弊し傷つけ合い嘘くさいお悔やみの言葉を死者に垂れ流すのだ。ネットの普及はものを考えない人たちの思考を表面化させ、彼らがいかに妄信的であるのかを暴露しないせいを促しても決してせず、テレビもそれに符合して自分の意見を曲げないではっきりとものをいいそれを吟味もせず相手を威圧するような人ばかりを写すようになった。総じて、この世の中が住み心地の悪いことを教えてくれるのがメディアであり結局は実地で知りえた情報ではないのでフェイクをリアルに捉えネット利用者ならびにテレビ視聴者はメディアや互いの疑心暗鬼により疲れ果ててものも言えず考えられない状況に陥っている。

 この状況を私は非常に危惧しているのであるがここに解決策を書くのであるのならばもう一度活字という距離感に戻って欲しいと思うのだ。映像は必ず見ている人間を活字以上に誤魔化す。映像も説明がなければなんの意味もわかりはしない。ニュースもアナウンサーのテンポに合わせてみなくちゃならない理由がどこにあるだろう。昔は朝の朝刊を見ていればよかったが今はすぐにニュースがポケットに飛び込んでくる。これは不幸である。ニュースから離れられない生活を送っていると人間はどうなるのか。常に危機意識を持って生きている貧乏人が周囲に当たり散らしたり怒り肩で歩いていたりするように、心の余裕がないので忙しなく動き回り不幸を助長させているに過ぎない。物事を正面から見るためにネットは確かにその役割を担えたけれども、多角的に見るには一度その正面から見た情報から降りなくてはならず視点を変更しなくてはならない。それに気がつかないわけではないはずなのだ。

 ツーリングに関してもそうだ、行きたいところがあるけれども仲間が行きたくないというのなら無理に誘うのはやめにしたらいい。本当に不安がある人間程よくつるむからこの世は非常に暮らしにくいのだ。本当に人と親しくなれる人ならば、仲間を作る必要はない。仲間が必要なのは、気を許した仲間同士にだけ本当の自分とやらの幻想を互いに担う暗黙の約束をしているだけの話だ。つまり、幻想にしがみついて自己を知ろうとしない弱い人間たちが仲間を作って社会に迎合するのだ。だから私は思うのだ。日本語もそろそろ限界かもしれないと。

他人を見るように強制される社会

 社会と書いたからには無差別に相手を選んでお前もそうだろう社会に生きているんだからという巻き込みの呪文をこの表題につけてみた。

 私たちは社会の中で生きているけれども、社会の外に出ることもできる。それは夢の中だ。夢の中だけが完全なる社会の外でありずっと眠っていたいのは疲れているからではなくてただ現実を本当に忘れ社会の外に出る憩いの場であるからだ。

 以上の理由から導き出されるのは意識化された社会がいかに人間を疲弊させ社会の外へと外へと生きたがるような衝動に駆らせるくらいに過ごしにくいのかという結論であるが、果たして一体何がそうさせるのだろうか。世の中に見たくないものがある。それを見なくちゃならずそれについて想像されうる事実が甚だ私たちの描く社会とは違って異質であるからこそ社会の外へと逃げ出すかあるいは見て無ふりをして自分の持っている幻想を壊さぬように用心するしかないのである。けれども、それでいいのだろうか。第一本人が疲れるではないか。見たくないものを見てしまうということは自分の認識が変わるということだけれども、認識を信頼している時点で既になんらかの吹き込みがあるわけである。その元々持っていた印象やら認識が間違いである事実を指摘されるのが何故不快なのであるのか。また、それらの間違った認識を正すために現実を見ることに意義がないとされ今は見たいものを見てみたくないものはみない、したくないことはしないですべきことだけをするという他人の目を気にした行動ばかりが流行るのは日本に限らずテロリズムが横行する西洋社会においても相手を見るということ、他人を気にしないでいいとする自由、相手への無関心を貫き都合の良い解釈をする自由を制限されているのではないだろうか。それはもっぱら、身体に危険を及ぼす相手であるのかの見極めをしなくちゃならない状況においてどうすれば適切に変人を見極められるのかの訓練を私たちはしているのかもしれない。テロリズムの横行は、社会に不安をもたらすがその不安の前にあった安心が産んだのがテロであるのならば、社会は常に不安に満ちていることになる。つまり、テロリズムだから不安なのではなく社会がそもそも不安であると感じていた自分についてテロリズムが蔓延し人々が相互に不信感を募らせることで互いに自分を見つめる契機になるのだろうと思う。

 カモメが私の足元で眠っていた。私がしゃがんでカモメの羽毛に触り撫でているとカモメは目を覚まして勢いよく紺碧の空に羽ばたいていった。遠くの海に向かって一直線に飛んでいくカモメはだんだん小さくなりついには私の視界から消失した。

 その日も家の周りを散歩して子供たちと挨拶を交わし家に帰って海を眺めていた。5月の海は太陽に輝き涼しい風が体の熱を冷やした。

 呼び鈴がなり玄関に降りると自転車に乗った郵便職員の女が私に手紙を手渡す。彼女の目はどこか恥ずかしそうである。隠している情事でもあるのだろうと感じて私は表情を硬くしてまた2階に登り海を眺めた。

 小説家になるために、いろいろなものを見てきたがストーリーがちっとも浮かばな良いので何もかけないでいるところ、海を見ていると全ての物語を書き尽くしたような気もしていた。

 果たして修辞学は、私たちに決まりきった感情教育を植え付けるための学問であろうか。修辞学の内容を応用してみたところで真理は遠ざけられ私たちは偽物をつかまされる。

思ったこと

 世界は、私の思い込みでできている。そして、私は思い込みを愛さなくてはならない。それが世界を愛することである。

 

 多くの事件を起こす人間は、故意である限り世界を否定しようとしている、それは自己否定であり、愛ではない。愛は完全に肯定的である。つまり、自己肯定とは相手を批判することではないのだ。相手という存在も私の世界の住人であり、世界が私の思い込みで成立している限りにおいて他者は愛するべき住人であるからだ。その住人に危害を加える行為は、なすべきではないのだ。

 

 そう考えると、世の中で多くの人は自分を認めてもらおうと必死になっている。認めてもらうために良いとされることをしているが、心は疲れ切っている。他人の評価を欲しがるが、他人とは自分であるので自分が自分を褒め自分が自分の行為を判断できない限り、自分が他人から評価を得られることは何一つないのだ。

 

 

批判

 誰かを批判する気がなくなってきた。批判は相手を何も変えない。自分の意見に従わせるだけの話だ。自分と同じ意見の人が増えたら世のなか大変だと思う。なぜなら、私は知識がないし何も知らないから。だから、知っている人がいてくれたらそれで素晴らしい。そして、知っているふりをしていても構わない。その人たちが、知っている妄想に駆られて生きているのをわざわざぶち壊して文句を言い自分がまともであると周囲に吹聴したところでいいことなどおよそ何もない。たとえ、周囲が私に同調してくれても批判された当の本人は私に復讐の念を燃やすことになるなら私は何も言わないでおこうと思う。沈黙には意味がないのだろうかと考えると、沈黙は素晴らしいとどこかで感じている自分もいるのだ。恐ろしく暇であるというとき人間は何も幸せを感じないでいることに不幸を感じるのだ。何もしなくていいということは素晴らしいことなのだけれども、普段せわしなく動き嫌いなことをさせられている感じている人たちはむやみやたらに動き回り体力を消耗しなければ安らかに眠ることもできないとすれば、それは一種の不眠症という病気であると考えることもできる。趣味に没頭しなければ眠れずお酒を飲まないと充実した時間が過ごせないと思い込み毎晩酒を飲んで眠るのは病気であるが、精神というのは病気である状態であっても魂が気持ちよければそれでいいという考えなのであり決して健康が幸福であるという態度を取らない気がするのだ。おそらくそれは相対主義的に答えを出すなら、健康こそ幸福であり水をたくさん飲んで体重も増えないように暴飲暴食を控えていると気持ちがいいという人もいるのだから、と考えれば私は文字で何を言い表すことができるのだろうかと考えなければならない。おそらくは私が文字を使うときはこのようにし的な独り言のように何も他人の理解を目指すよりも言葉の可能性を切り開く方向にあえて自分の感情自分の主張をするのをやめることもまた修行であるという観念を作り出し自分が置かれている状況を肯定しようと懸命になっている節は否めないが、自己肯定感とは持つものではなく実行することであり善もまた善の心を確認するためには善を実行しなくてはならず善の心を感じているだけで自らを善人だと思うのは怠慢であると私は言わなくてはならない。善であること、いい人であることが取り柄でありそれに執着して生きることは大変苦しいことであるように思われる。苦しいことをわざわざしているのではなく本人は思いなしをして、苦しくても苦しくないと思うようにしているのだ。それに気づかないで過ごしている方がよほど何もわかっていないような気がするのだ。

 批判とは相手に何か投げかけるという行為ではなく相手に対して真心を持っていなければできない行為である。メディアを批判する際に取材が足りないというのは取材をして放送してくれという要望であり期待を持っているから批判しているのだ。何も批判されないのならば期待されていないのだから好き勝手すればいいのだと思うのだ。それがインターネットであり、ネットは批判の対象ではなく批判を展開する場所であると思われているネットもメディアである。しかも、誰の先立もなく情報をみつけ批判的に検討しなくてはならないという点でネット以外の媒体が必要になる。ネットに載っていることが全てであるとは決して思えない。ネットで展開されていることについ点っとだけで自閉している世界も確かにあるかもしれないが、それに安住して過ごすだけ私たちは生身の身体を持って五感を持って空の世界を漂っているだけならばおそらく、大抵の不安であったり不満であったりは消え去るのである。

 世の中にはいかに不平不満を口にする人が多いということがよくわかっただけでも私には収穫であった。

 人間は生身の人間であり動画の中だけで議論をするのは不可能である。動画で議論をするにはルールが必要である。そのルールを知らないで自分の意見を垂れ流しするのは無駄である。それを受け取る人間がいたとしてもごく少数であり自分の他にその意見を発展させることもなく正確に受け取ってくれる人はいないだろう。動画で知識をひけらかすのは大いに結構であるけれども、それは自己目的であることを表明している方がよほど自然であり何か物を教えてやろうという態度、皆の意見も聞いてあげようとするその上で批判をすることもなくのうのうとテレビに出てくるタレントを批判しているような動画は、たとえどんな人物であっても私はそのようは時間の使い方には否定的であり、無駄であるように思われる。もちろん、話す練習になるので家にいながら動画の前に他者を想定して知識を自分の頭に定着させる方法としては良いだろうが、動画の視聴者を巻き込みながらそれを行うのは時間の無駄である。

そして

自らの内容を容易にわからせるためにあえてわかりやすく書かれた言葉にはなんの事故も含まれず虚偽が蔓延しているのではないかと思われるのだ。突き詰めていけば、相手を説得したい水準で具体例を出し比喩を持ち出し説得しているに過ぎないのである。相対主義が蔓延したこの社会で心地よく生きるには沈黙しかないのであろうか。