私見を捨てされ!私が離せなくなった理由。

  降臨!アメリカが大変ですね。でも、完全に他人事です。なぜでしょうかね。多分相手に感情移入できない。したくないからでしょうね。そんな人間に何が言えるというのでしょうか。相手の感情から逃げるのを誰に教わったのか。それを僕は明確にいうことができます。想像力が間違った方向に行っていたとしても、想像は人間に言葉を残します。言葉を書くことで人間は安心します。私たちは文脈の中を生きているのです。沈黙は確かに利益になるでしょう。しかし、そこに意思はありません。ゆっくりでもいいので認めていきましょう。私が離せなくなった理由をここに明確に書いていくことに私が起死回生の文章を書くためのきっかけになりかねないのですから。

 過去の私は自由に言葉を利用して心をデッサンしていたのですが、今では、役に立たないことはしないというスタンスを全うするために、いつの間にか全く何も書けなくなってしまったのです。第一に、書くときの主題にお金を見いだすことができないのです。一見無駄だと思われることが非常に役に立つのだという事態もあるのだというのを私は知っているはずですが、それを捨て去って自分を捨て去ったと果たしているのかどうかは非常に疑問を持っています。

 無意識というのを意識して私は誤解して文章を書いているわけです。心に映る由無し事を私は明記できているのでしょうか。実は、攻撃性が私を支配しようと躍起になっているのを感じないわけに履かないのです。一方で、私は平和を好みますし、それは積極な的な平和も好きですが、静謐と言われる平和を超える静けさを好むことも私の性格の一部にはかなりあるはずなのです。

 だから、静けさを求めて私は自問自答という行為をしなくなりました。おそらく、2年ほど前から自分が全く文章を書けない、書いても決して本心じゃないという自覚を持って文章を書いていました。同じことを繰り返し書いて結局何も書くことが思い浮かばないのんです。主題こそ同じですが、以前は、文章に展開が見られました。

 私の記事で一番読まれているのは、「俺の一人っ子論」です。これが私のこのブログで読まれている傷の90パーセントを占めるのです。検索で、一人っ子と検索して出てきたものなのかどうか知りませんが、私の記事はほとんど偏った読まれ方をしているのは事実です。別段、ここで私の気持ちをわかってほしいという気持ちはないのでただ楽しく文章をかければそれが私の満足なのでありますから、読まれない記事があってもどうってことはないのです。しかし、読まれない記事ということに最近は敏感になってきたように思われます。以前は、記事を書く習慣がなかったので私は言葉が非常に下手くそでした。つまり、言葉を発することに何の通用も感じないで入られたわけです。

 私は今、かけることしか書いていません。書けないことを何も書こうとする努力、言語化しようとする努力を放棄していることをここに認めます。そして、その理由として私の今おかれている環境のせいにしようとしているのも認めます。では、環境が変われば私は以前のように楽しく文章を書いて自分というのを発見しながら永遠にくだらないはてな記事の文章を死ぬまで、誰にも読まれない形で書いていくのでしょうか。まだ、私には誰かに読まれたいという気持ちを持つとともに、誰かに読まれるための記事を書くことへの強烈な抵抗があるのです。

 おそらく今、私は強烈に書きたいことがないのでしょう。しかし、書かなければ書きたいことは生まれません。だから、これでも私は書いているのです。

 他人の文章をネットで見ることをやめたらどうかとも考えています。ネットの文章は雑文です。私の文章も同じです。しかし、魂はあります。合理的に、メリットデメリットで書かれたような文章を書きたいとはちっとも思いません。私には、相手に本音を言ってあとは判断してもらうしかないのです。本音の中に、私はメリットもデメリットも感じているから、例えば良い印象を植え付けるために始めに都合の悪いデメリットなことを言って、終わりはメリットを並べまくり相手の記憶力の悪さに便乗するような話し方は、あまり好みません。

 そろそろ、掃除と料理をしなくちゃならない時間になりましたので失敬させていただきます。今日もフランス語を聞き逃してしまった 終

言いようもないことについて

 今の社会が一体どうなっているのかを知るにはあまりにも情報が多すぎるのだ。定義ができないんだから。得体が知れない。近寄りたくても何が本当で何が嘘なのか。その真偽さえどうでもいいように思われる。結局は人間は何も知ることができずに死んでいくのだとしたら、知ろうとする努力は虚しいではないか?しかし、セックスをした後もまたセックスをしなくちゃ気が済まないように。何かを知って、それが嘘だと分かったとしてもまた、知ろうとするのが人間じゃなかろうか。その他に、深遠な真実なんてものを知ることができるとは思えないのだ。

 僕はついに僕の言葉を失ってしまった。説得しようと思っていう言葉には何も意味がない。真実がない。真実が一過性のもので会っていいものだろうか。例えば、好きだという感情は一過性じゃないか。では、真実は一過性のものだというのも真実だろう。こうなると非常にめんどくさい。考えるのも億劫になる。要するに、どうすれば対話を続けることができるのかというレベルにいるのだ。それが、喧嘩でも構わないのだ。

 小林秀雄が言っていた、対話とレトリックは対立するのだと。真に心を開いて対話することと、相手を説得しようとするレトリックは対立するのだ。

 もちろん、反論はある。でも、意味がないじゃないか。と、断言できないのだ。何が本当なのか。何を知りたいのか。知りたいことを知ったとしてそれは自分に都合のいいものではなかろうか。そんなことを知ったとして喜びはあるのだろうか。できることを毎日することに喜びがあるとしたら相手からの参照というサービスが必要になるであろう。店員はサービスをするが、客もサービスをしているのか。どうでもいい問題だ。問いを発することが大事だ。それだけだ。問いを発明しようじゃないか。

 

人格とはフェティッシュであるか

 性格とは何か。あいつは優しいとか、他人の評価である。他人の評価を気にしないでモノを言う奴はいない。だから、全て偽装である。性格とは、嘘をつくことである。しかも、優しい嘘に違いない。だからこそ、嘘さえも愛するべきなのだ。その嘘が、私を愛していると告げているのならば。

 トランプがフェイクニュースと叫んでいる。彼は従来のアメリカの大統領とは違っている。品がないように見える。弱者である、ヒスパニック系に暴言を浴びせかける。彼の行為がもたらす心理的な負担は相当であろう。権威は必ず人間に影響を及ぼすからだ。たとえ、彼の言い分がおかしくても。だからこそ、反発があるのだ。議論よりもまず、教育の大切さを思うのだ。トランプが議論が成り立た合い。パワーがあるだけだ。しかし、それをパワーだと受け取る人間がいるからトランプは発言力を持つのだろう。相手を利しているのは、反対勢力である。トランプが民主党と喧嘩をしている間に、共和党は淡々と生きているのだ。共和党の議員は、トランプに自制を促しておけばいい。民主党は、フェイクニュースだと言わなくちゃならない。しかし、嘘をつくのは創造的な芸術作品である場合もある。小説は嘘である。しかし、それを享受する読者が多数存在する。フェイクニュースが真であるのか偽であるのかよりも、フェイクニュースを信じたいと言う気持ちが先行しているのだ。何も真実じゃなくても構わない。神様など見たこともないが、感じることができる。フェイクニュースだって、それは嘘かもしれないが、ヒスパニック系が治安を乱しアメリカを薬物漬けにしてしまう危険性があるかもしれない感じるのも難しいことではない。メキシコでは、麻薬カルテルが存在しているのだから。

 では、フェイクニュースについてどう反応すればいいのだろうか。トランプは嘘をいくらでもついて構わない。後から、訂正すればいい。しかし、新聞記者には嘘がつけない。彼らは、嘘がつけない代わりに真実の報道を心がけていると言うが、果たしてそうだろうか。真実は、報道において言葉で、映像で伝えられるのか。マスメディアがどうあるべきか私がここで書くような無駄はしたくない。興味がないからだ。

 したがって、興味がないことには口を挟まないように以後、自分に残された時間を大切に生きていこう。

 と、書きながらも自分という人間いついて興味がないので、私は私であることをやめることに抵抗を感じない。

 私心を捨て、宮沢賢治の「よく見聞きし分かりそして忘れず」の精神で、ぼんやり生きていこうと思う。あまり知恵を持ちすぎると、疲れるだけだ。疲れていたら、何もできない。何もできなければ、死んでいることとたいして変わりない。

 生きるために、のんびりするのだ。忙しいことが、褒められるべきかけなされるべきかについて、それは各人が勝手にすることだ。私が口を出すことではない。口を出して徒労に終わる無駄をして疲れたくない。

行き当たりばったり

 世間というのが嫌いで仕方がない。多分、存在していないんじゃないかなと思う。だって、感じることがないんだもの。自分が勝手に世間を作り上げているんだろうね。でも、どうやって作り上げているのかちっとも知らない。自分を知らないってことだね。俺は自分を知らないんだ。だから、なぜ世間を俺が嫌っているのかを、俺自身がわからないんだ。ただ、世間って言う奴は、いいやつを優遇する、正論を振りかざす、したがって人の話を聞かない等々、自分が嫌いなことを世間に全部押し付けている。俺にとっての捨ててしまいたいゴミ箱なのかもしれない。だから、世間なんて言葉使ってもしょうがない。その存在が疑われてしまえばすぐに根拠を失ってしまうような存在だからだ。あるいは、俺自身がそう言う付き合い方をしているのか。世間は確実にあるのだが、自分が人と積極的に付き合わないために感じないでいる世間を悪者扱いして自分はいい気持ちでいるための防衛機制が積極的に働いているとも考えられる。しかし、どうでもいいことだ。防衛機制だろうが、なんだろうが、自分がそう思っていることであるのには違いないのだから。

 だいぶ、ましになった。宇野千代を読むと精神が安定する。腹が減っていたので白米と納豆を食べたら元気が出た。ありがたいことだ。

 

焦り

 テストが近づいている。これを落とすと学校に入られなくなる。できるだけ、そのことについて考えないようにしている。しかし、考えようとすればするほどに頭に現れてくるのだろうから、ここにいっそ書いてみようと思う。別段俺が勉強しているのは、その必要があるわけで勉強の必要があるのは勉強ができていないからである。したがって、自分が学校にいることに引け目はない。

 以上のことからすると、どうでもいいことばかりだ。人々は、正しいことをしていたのかもしれない。日々のニュースに反応して、意見を述べる。不倫をする芸能人が公共の場に出てくる。不倫を咎める。それで、不倫を嫌う自己を発見するのだ。

 皆が各々が各々押し方でつながっているとするのが仏教なのである。皆、縁によってつながっている。隣の部屋の住人が何者か知らないが、きっとつながっているのだ。ベランダでタバコを吸えば、換気扇を通じてこちらの部屋に煙が侵入してくる。これも何かの縁である。それで、肺がんにでもなって死ねば、なおさら縁である。 

 言い訳がましいことは言いたくない。どうも、いけない。批判を先こして意見を述べるのは無理しないほうがいい。批判に飲み込まれて自己を失うのは滑稽ないことだから。批判は相手を褒める技術なのだ。相手を尊重する態度でしかないのだから、批判を相手の否定に受け取ってはならないのだ。

 

うんこ

 神童は自由である。勉強する時間を他のことに当てられる。思うに、資格試験は何もすることのない人間が暇つぶしにする者だと考えられる。何か熱中することがあればそれをすればいいのだ。子供の頃に欲しかったおもちゃが大人になったら全く価値を持たない。子供も大人も関係ない。人間の欲望とはそういう者なのだろう。子供の頃に欲しかったぬいぐるみと大人になってほしいレクサスはおんなじかもしれないのだ。金の問題になる。金があるから、欲望を制御することができる。人間は欲望とお友達になれば非常に元気になる。全ての行動の源泉が欲望であるからだ。その代わりに、欲望に群がるお友達は皆冷酷で非道である。自らの利益のためなら他者を利用することも日常茶飯事である。それならば、欲望がない人はどうかというと相手に無関心でコミュニケーションをとることが不可能だ。話もできないような相手といるのは苦痛なので、欲望がない人は孤立することになるが本人はそれでいたって普通なのだろう。そうではない、人間は孤立なんかしてはいけないという輩が多い昨今だから、おせっかいが次第に無くなりつつある現代おいて孤独死が蔓延するのは、孤独死が悪いと思われているからなのだけれども、人間無理心中でもしなければ大抵孤独死するじゃないかと思われるのだ。苦痛に呻いている姿を近親者に見せることが孤独ではないという証であるのならば、子供の頃に泣き喚いて母親の足元でも引っ張っていたうるさい子供と変わりはしない。子供を可愛いと思わない親が増えるのも頷けるのだ。自分がコントロールできるようなおもちゃでなければ楽しくないのだ。子育ては男がする者なのかもしれない。女は悠々自適に子供を産んだらどこかいけばいいのかもしれない。私にはそう思われる。女に育てられることのメリットは女から身を守る術を身につけることができるということだ。女がいなければ男は必ず女を欲するようにできているのだ。そうでなければ、バランスが取れない人生になってしまい終いにはトイレで男とセックスをした挙句にエイズに罹患して病院にも行かずに畳の上で一人死ねば孤独死である。そういう人生を積極的に歩もうとする必要はないが結果的に孤独死をするのであるのならば、死ぬことじがいたフィクションであるために人間が持つ最後の妄想の源泉である死について、これを制御することができたのなら人間社会から問題がなくなってしまうのだ。社会問題を考える際の前提は、問題がありながらも生きて行くことだ。人間が生きながらえながらも、問題を解決するために今日多大なコストと労力が重ねられてしまいには労働過多で死んでしまうのだとすれば、どんな解決方法も死ぬまでの時間稼ぎと考えらることができなくもない。では、生きることは無駄かと言われれば非常に難しい、無駄という概念は、自由闊達に生きるために発明された概念なのだから。数千種類ある帳簿をさっさと片付けて遊ぶために電子計算機が作られたわけだけれども、その計算機をコンピューターにして何か遊ぶためにゲームを作ればそれは労働であるのだ。労働と遊びは結局は本人がどう重のか次第でその様相を変えてくるのだ。だから、いい人は自分をいい人だと思い込むことでしかありえない。相手にいい人だと気に入られようとしている人はいい人なはずがない。これだけしてやったのに、と思うくらいではまだまだいい人ではないのだ。信頼していた人に裏切られ、傷ついても死のうなんて野暮なことちっとも思わないで、もう死んでいるつもりで淡々と気楽に生きている幽霊がいい人なのだ。何があっても実態を有さないので浮遊霊だ。地面から足が浮いているかもしれない。はや歩くの人はおそらく鉄板の上を歩いてるのだろう。熱された鉄板に耐えられない皮膚を持った優しい人柄を隠すことはなかなかできない。人間は人間について語るのが好きだ。人間はどうあるべきかという倫理が大好きだ。人間では煮物たちにいかなる仕打ちを与えるのだろうか。私には一向に理解できない事象が多すぎるとわめいて見ても、考えることの大切さをいくら問うて見ても人間は忘れてしまう生き物なのだ。忘却こそ人間性だ。老人が人間だ。同じ間違いを繰り返すのが人間だ。キャリアなんて糞食らえ。不具者じゃないか。それしかできない。不具者じゃないか。俺はそんな不具者にはなりたくないね。専門家なんて真っ平御免で。おかげさまで人間は言葉を失い、主体性を剥奪され専門家が活躍できるようにお膳立てをしてやらなくちゃならなくなった。バカみたいな話だ。専門家は神様になってしまった。神様が近くにいると人間生きづらい。うるさいのだ。ああしろこうしろと。では、やっちまうか?ナイフで突いてやるか?ゴリラの持つワンリキぐらいの力で。死んじまうじゃねえか。死んじまったら話すことができない。主体性もない。見たくもない血を見る羽目になる。それこそ専門家に頼むしかない。ということになるのである。他にも、他人が嫌がる話をする人も悲惨だ。酷い他人にあったものだ。なぜ、嫌な話があるのだろか。話すことで生きているのだ。それを否定するのだ。つまり、主体性を殺しにかかっているのだ。身体を有形的に動かなくするのとどう違うのか。普段幽霊なんて信じていないようなツラしている奴が、犯罪被害者になるとなくなったやつのために生きなくちゃと魂の存在を信じるかのように、意志の存在を信じるかのように。いいたいことも言えない世の中は地獄であろう。しかし、いいたいことを聞かされる世の中もまた地獄であるのだ。問題は、地獄から抜け出すことだ。おそらくそれは可能である。相互にコミュニケーションをとることができれば可能である。世の中には、一方的に話してくる人間がいるがそいつがコミュニケーションをとるのに長けているとは思えない。話すことで意味切られているのを本人は自覚してセクショナリズムを発揮して生き延びようとしていることもありうるのだから。話が間延びしてしまって疲れたそろそろトイレに行きたい。気持ちのいいうんこがして見たい。ただ、それだけのために生きてる。