アウトプット

相手の視点に立ってみよう

酒が飲みたい

 酒くさい人は嫌いだというが、辛気臭い顔した人間のほうがよほど嫌いなのは私だけではないはずだ。なるほど、酒以外の手段でハイになれというのか。もちろん、タバコは論外である。非常に難しい。仕事にやりがいを見出せというのか。クビになってもいいというのなら。やりがいのあることはことごとく待遇は悪いものさ。自分に言い訳して仕事しているに決まっている。何ら楽しくもなんともない。無の境地で仕事に打ち込む姿を恐ろしいとも思わなければ楽しそうであるように思えもしない。私はこうして無駄に時間を過ごしているのだろうか。無為自然とはよく言ったものだ。何もないのが一番良いのだ。それを断定するほどにつまらない人生だから困ったものである。そうだ。

私は現代人が嫌いだ

 彼ら現代人のものを考えず始終スマホをいじり倒す哀れな姿を見ると飽き飽きする。飽きもしないでオワコンコンテンツを一所懸命に夢中になって寝転んでまでいじっている姿を見てペニスをいじり射精感覚を味わうガキのようにみえる。私がおかしいのか。おかしいのか、おかしくないのかはそう大事なことか。ユーモアを忘れちゃいけないね。私のはユーモアではなくて気持ちの悪い比喩だと認めなくちゃならない。それで自分自身酔っ払って気持ち悪くなってるんだから、少しは代償を払ったつもりでいるが一体誰に払ってるっていうんだろうね。一体全体人間というのは常に動き回っていないと死んじまう生き物なのかもしれない。頭の活動だって、体は少しも動いていないけれども、ちょっとは死んじまうということかもしれないね。将棋なんて、棋士は一勝負で3キロほどやせてしまうそうだ。羽生善治曰く、集中しすぎてこのまま帰れなくなる気分になるらしい。困ったもんだ。そういえば奥さんは評判が悪い。伊良部の奥さんも評判が悪いね。いや、本当のワルだったね。羽生さんの老年期が心配だ。人の心配なんてするくらい楽なことはないね。自分の心配なんていくらでもできる。人の心配ってのは気持ちのいい悪いじゃなくて自分についての心配の気をそらすって効能がありそうだ。独断と偏見でものを言っちゃいけないって。そりゃ失礼しました。なにせ直感なんてものは一回性の出来事を大事に把握するのが必要ですからね。お話に科学性を持ち出しているのは、あなたですけれどね。人が話す内容がすべて科学に則っていなくちゃならんと考えていることにご自身で気づいていらっしゃるのか、どうでしょう。そうですね。話を変えましょう。私は何者でもないので、何者でもない話し方をしましょう。ユングなんて人が居まして、彼は性格を作り出した。人の言動のパターンと言いましょうか。人が人を生業として生きてる商売の傾向を見たのです。別段それ以外に性格の使いようなんてありません。性格は商売道具と言っても過言じゃありません。純粋であるとかないとかを論じている間は決して純粋になりえません。それがわからない!そんな奴がごまんといます。私は純粋に何かをしている、ってのは宣伝広告としては一定の効果がありますけれども、何か脅迫を感じますね。そう感じるように強制する言い方であります。なぜ私はものの言い方にうるさいのでしょうね。勝手に言わせておけばいいじゃないかという人間もいますよね。彼らは、おそらく相手の話なぞ聞く度量を持たないのです。それは構わないんです、なぜなら、例えば消化不良を起こす食べ物を食べようとはしないほうがいいのですから。しかし、私は消化不良を起こす食べ物でも一応は食べてしまうのです。それが、優しいからという理由でなしに、相手が私に話をしてくれるということが非常に嬉しいからです。好意を持っているのかそうでないのかというのとも違います。私は非常に孤独なのでしょう。孤独な老人生活を今私は送っている気がしてならない。誰でもいいから、そばにいてほしい。誰でもいい。貧乏生活も楽しもうと思えば楽しめる。ソクラテスの時代に、テレビもない時代に、ソクラテス彼自身は実に対話を楽しみ時には酒を飲み大いに語らって昼間は友人と遊び暮らしていたのですから。現代は古代ギリシャ時代よりも一層に暮らしづらいと言ってもいいでしょう。人々の言論はレジャーに消費されてしまい、真の楽しみを失っています。真の楽しみは決して大きなものではなく繊細なものです。パンとサーカスの楽しみは、なんら楽しくはないのです。集団できな楽しみは本当に楽しくないのです。今の人がわかりません。虚数にいると、友人にこぼしたことがあります。行く先は派遣でしょうか。親に言われました。親が子の未来を占ってどうする。子は、親と共に歩かねばならぬのに。この自由を保障する育児放棄をいかに肯定しようと躍起にもならないで、私は植物状態と成り果て文章を書く悦に浸りながら夕方を待つ主婦の憂鬱を毎日忘れる夜の楽しみを感じ取るのです。街がよそよそしく私に冷たい風を吹き付けます。ポケットに手を入れ歩く姿はなんと貧相この上ないでしょう。私は衣服を買い、髪を整え、バイク趣味にうつつをぬかさなくちゃいけません。私を見失う経験につきものな過眠に悩まされ、熱中するべきことに人の同意を求める間決して自由にもなれなければ同意も得られないのを承知するべきであります。いかに金の使い方を教えようとしても、その教えが正しいのかさえ疑問に伏せばいいのです。そうすれば必ずやってくるのが暴君です。とにかく命令に従わなくてはならない。苦痛です。テレビのタレントの名前をすべて忘れたいです。彼らの人生は私の人生とは無縁です。無縁であってほしいです。もう終わった人たちです。彼らは英英んと猿真似をしてテレビの前で間抜けヅラを晒している。今すぐテレビなんて腐った生ごみは捨てるべきです。ニュースなんて、低俗な連中がみるものです。案外悪といい奴は紙一重ですから。そうです。もうこの世の中の区別がつかないのです。死んでいるのに影響を与えている書物もあれば、生きた人間が書いたものでありながら、糞のように垂れ流されている文章もあり、そんな記事を読みながら時間を過ごし、不快な気持ちと半端な知識とも言えない情報の断片を信じ切って検証もせず、しかし、宗教は嫌いだと抜かすおおよそのゆとり世代のバカ達のゆとりのなさにこの国の将来なぞ考えもしないでしょう。国を代表するなんて真似はゆとりはしません。そんな疲れることをしなくてもいいじゃないの、と。それで結構です。誰かが代わりにするだけです。そしてそれに順応して、嫌なことでも、笑顔で対応し愚痴はネットに書き込んで不満タラタラの朝を迎えるんです。生きているとおおよそ言えるでしょうか。否、私同様生きる意味を変えたいのです。仕事をして疲れて家に帰りビールを飲む。部活を終え疲れて家に帰り飯を食って寝る。学校が教えるべきは、勉強の内容でもなかったようなのです。失望しますね。社会主義に教養のある人物はいないのでしょう。制度がなければ崩壊するような国なのです。人と人は嫌いあっているのが、この国です。否、ヨーロッパはどこもそうかもしれません。法の統治下にある限り、暴君を押さえつけもできるでしょう。権力の集中を。しかし、とりまきが法を自らのものだと言わんばかりに改変すれば暴君の誕生です。法律の改変などして粉飾をごまかして黒字黒字と口外し国債を買わせて貨幣の流通我田引水を始める、経済はまやかしです。一度夢から離れると山河あり。どうして、目の前の事象を愛せないのでしょうか。目の前の出来事を愛せずに、ステータスばかりで生きている。それは、決して粋に通じちゃいないのを知るべきです。粋ってのは、元気であることで、虚構の中にも虚構を作り出しそれが現実化したとしても虚構として生き抜くことです。すべてはまやかし、脈絡もなければ、矛盾さえ愛おしい。ハプニングバーで淫部を露出する女に、舌を引きずり出して愛液を舐める男の剃り残したヒゲが、チクチクと肌を傷つけ、家に帰るなり女はクリームを塗りそれに感じ入り手淫に耽る頃白ボケた朝の電車に黒づくめの眼光鋭い粗暴なる男が股間を膨らませて女に目配せし、姿勢よくカッコつけてホテルの予約を取り付けわけもなく愛もなくセックスにふけ、我が物顔で東京の夜景にワインを注ぎ込む野暮。

気の病

 俺は病気だぜ。将来性なんてないね。いらないだ。旅は軽いほうがいい。わけがわからない。アイドルが死ねば死んだアイドルで時間つぶしのテレビ番組。知りもしないのに知っているかのように話したがるコメンテーターの勉強不足。姑息に生きれば上出来と言わんばかりの啓発本。無表情に電車乗る一流のサラリーマンたちの余裕ない志。ものを買ってばっかりですぐに捨てるゴミ拾い。経済は貨幣の流れのように。誰かのもとへ流れていき、我田引水を図る。ああ、お金が全ての元凶と言わんばかりの論調に飽き飽きする私。お金の好き嫌いでなしにそういった考えに鬱々と、日々を過ごすストレスにアドレナリンさえ休憩して私の怒りは存在を消し去り人畜無害と成り果て何処に捨てられる。人に魂ありとすれば気が重くなり、生きるのも嫌になる。若者のゆとりのなさが目に余り、生き急ぎ手に入れ他人を蹴落とし誰とでも繋がり快楽にも飽き飽きすれば、全てが地獄。他人に委ねたツケが回ってくる。考えればいい。私の考えを誇示するために誰にも話さず否定を恐れて誰にも話さず。否定こそが唯一の非常口。行き詰まった際の否定は、突破口に違いなし。私の文章に脈略がないとすれば私は全人格をかけることはできないのはもちろん、その気もなければ、仕方もわからぬ。わからぬことをしているが金が入ってくるのが物書きのいいところで、わからぬものはわからぬと断定し、何処がどう分からず、わからぬなりにどう理解しているか書かねばならない。否定と非難を恐れてはならない。有頂天ほど気分の悪い場所はない。持ち上げられて今更、嬉しくもない。それが平静というもの。再来年には年号が変わるらしい。

ファッキンジャップだぜ

 といっても嫌っちゃいないぜ、ファッキンジャップ!知的な文章かけやしない。知的の枠にはめられて自由を失ったエンジェルにはなりたくねーんだな。ファッキュー。といっても、俺の脳みそもファッキューおかしいくらいクレイジーzなので、ももクロちゃんにもよろしく伝えといてくれベイビー。なんて、さらっと言えるくらいおかしくなった暁には、仕事で疲れている基地外どもと話が会う気がするから俺だって少しは気が癒されるってもんだよな、ファッキンジャップやろう。頑張る奴は人類の敵だと思うのだけれどどうだろうタヒチの皆さん。温暖化で島が水没しちまえば、ニュージーランドの環境移民とやらで、いきなり移民認定されるこの社会のファッキン具合はまだまだ戦争の火種が畑に大量に埋まってら。おかず作るよりも戦争でハイになって人殺して神様にファッキンされるところを、マリア様に懺悔して許しを乞うてありがとうって乳房を舐めくりまわしてファックしたほうが、めぐるめるぐメリーゴーランドって感じでファッキン楽しいよな。ノエルって誰だ、おい。

 おっと、ここまで落ち着け、落ち着け。君の文章は非常識である。なぜなら非常識であるからだ。従って、非常識な場所に入れさせてもらう。君に似合うのは猿轡をはめ手はロープで縛り宙吊りにして炎に焼かれるところを君の愛する人に見てもらうことだろう。ファッキンなお前の考えなど、明日の天気を占うよりも簡単なことさ。宇宙にロケット飛ばしてひまわりさんが伝えてくれる雲の様子だって今じゃ、お前の精子よりも濃い色をしてやがるぜ。どうだ、射精感が募ってきたかい。

 ファッキン野郎に何言われようとクレイジーな俺になんの未練もなけりゃ、さっさと火あぶりにしやがっておれの肉を焼いて食べるがいい。焼肉が好きならなおさら満足。俺の血肉を貴様の血液に溶け込ませて心臓にヘモグロビンの球体ぶちまけて破裂させてやるよ。

 何言ってやがる、ファッキンジャップ。貴様のスモールなペニスにガールズたちは飽き飽きしておもちゃで遊びやがる。おもちゃよりももっと大切なものがあるぜ。おっと、そろそろ俺も飽きてきたぜこのファッキンやろう。悪口ってもんは、飽きるってことに気がついた。悪口ってもんはな、愛情がなけりゃ言えやしない。無関心が一番の殺人方法さ。

 

ある女の心境

 ってか、私ってちょーいけてるじゃん。まじうけるんですけど。なんかアイドルが死んじゃったんだってねー。たいへんだね。って、誰が大変なんだろ。別に、私には関係ないし。関係ない人が死んだって公共の電波で流してほしくないよね。それなら、私が死んだ時も電波で流しやがれっての。そういや、女だったよね私。女ってどう考えても民主的なのに保守を渇望するのが面白いよね。男は逆だよね。どう考えても男は、一つの結論に行き着きたがるロマンチストってところよね。それくらいじゃないとカッコよくないんだけれど、行き過ぎると雑なのよね。そういう冷めた目で世の中を見ていれば疲れないし不幸にもならないから楽なのよ。いい生き方って変な希望を持たないことね。希望かなっちゃどうすんのよ。どう生きろっていうのよ。一体全体世の中がおかしいに決まってる。私はちっともおかしくない。だからおかしい世の中と気が合わない。SNSだってそろそろなくなるかもしれないから、それまでに友達作っとかなきゃなっ。だからといって、慌てふためき急ぎ焦るのはめんどくさいしわざとらしいのはやめて、流れに身を任せてるって感じかな。それってちょっともったいないよね。際限なく話が出てくるけど、話なんて話せばそれで目的達成。何も生み出さない不言実行大歓迎。ってところかな。余計なことはしちゃだめなんだよ。話したことなんてすぐ忘れちゃうし、記憶力もよくない、記憶する力がない。失敗ばっかし。失敗だけが人生なんて言われると、人生なんてまっぴらごめん。

 私の親だって私を捨てたに違いないのよね。ニューヨークタイムズの記事が読めるようになったらいいなーなんて、思いながら英語の勉強なんてろくすっぽせずに毎日パソコンに向かってキーボードをカチカチ撃ち鳴らす日々が続けば、相方も愛想をつかして私捨てられちゃうかもしれないな。そんなこと思いながら暮らすのって楽じゃない。じゃ頑張ればいいじゃんって思うかもしんないけど、私頑張るの嫌いなんだよね。嫌いな食べ物は何一つないんだけれど。

 八ツ橋は嫌いだったかな。あの匂いはダメだった。嫌いな食べ物ってさー、お腹の中にいるときに決まるんだってね。羊水に溶けた食べ物の匂いに親しみを持つようになるんだってさ。嫌いな食べ物がないってのも、親が偏食しなかったおかげなんだろうなって思う今日この頃。それでも、親をありがたく思えないなんて私はなんて不幸な子供なんだろうって親を気の毒に心の底から思うのまた今日に限った話じゃないんだな。

 世の人の生きる動機が趣味じゃなくて働くための休憩になるのを知ってたから、小さい頃から頑張るのが大嫌いだった。逆に頑張ることくらい簡単なことってないよね。耐えることなら私いくらでもできたけれど、自由になれる環境にいたらすぐに足を遠くに運ぶだけの体力も一緒に持ってたもんだから、力の使い道を間違えたってところかな。間違えたかどうかってのも怪しい。働いてる人ってのは奴隷であって、なんていい方すると反感買うからやめてるけれど、そんなもんだよね。そういう感覚になるってことは、奴隷になったことがないからなんだろうな。理不尽な世の中とはいうけれど、世の中はそういうもんであって、それを受け入れる受け入れないの話でもなくただ一切、砂漠の上を流れる時間と風。探し物は砂の楼閣。風に吹かれて塵となる。

 随分書いてきたけど、芸能ゴシップでもなけりゃ健康情報ってジャンルでもないから誰も読まない。政治とかいう脂ぎったおっさんが、愛想つかされた妻に金を貢ぎセックス奴隷を養い、その子の面倒もみるという超不健康な環境に身を置いて気が狂った人間が、大言壮語吐いて、民衆という馬鹿どもを先導するお世話がかりの厄介を自ら名乗り出ては「民衆」を持ち上げて金を巻き上げ、国会だとかなんとか、民主主義も機能しない場で徒党を組み、相手の話を理解しようとしないおしゃべり連中のばか野郎が集まって叫んでは、その気の毒な雄叫びを電波に乗せて全国のお茶の間やらセックス中の男女の喘ぎ声の副音声として流す変態盗撮根暗野郎がカメラ回して、今日もビルの灯りは夜中まで灯り、疲れましたと、己に溜まった乳酸菌、乳から垂れ流して飲む姿を想像しては勃起して、眉間よった皺どもの、アラウンドオールイヤーズのひとりが電車にはねられ死にましたってニュースが、たまにテレビで流れる時くらい、平和は今日も量産されてはしっかり消費されております。

狂人

 狂人に終わりの道はなし。目は見開き虚ろに歩行者に目をやる。いつの日か山に登って全裸になった。通りすがった女を連れ込んで犯してやったのさ。喜んでいたけれどな。挿入するときの濡れ具合でもピストンで擦れる快感でもない、砂の上の裸体に指を突っ込みヌルヌルした液体でもない、青空があった。一筋の白い線が青色に割れ目を入れる。落ちていた石ころを握りしめ彼女の口の中にぐいっと詰め込み、遠くを見つめて社会を思う。叫び声が鼓膜を通り過ぎていく。狂人として、人間は生きるに値するか。鉄の塊が線路を走り空を浮かぶ。なぜ女は柔らかい。こんなにも。所有したい。アクセサリーになれ。女がシンプルを目指せば男はマスコットへの道を閉ざされる。欲望の絡み合う蒙昧から目覚め、白けた網膜が取り込む光は廃墟の街に欲望を掻き立てるアイコンを渇望させる。人の目がきになるのなら生きている価値はない。奴隷として生きるのなら、他人の目を気にせよ。その代わりに他人のルールのもと無残にも君は殺され生かされ無益な労働を強いられる。他人のルールに、価値があるのかないのか。利用して搾取し自らの栄養分としなければ、他人のルールのもと生きることは不可能。私にはその素養が抜け落ち栄養失調を起こした我が心はアーモンドをもとめスーパーへ行く。自らを教育するのが真の教育者だ。それがわからないとは一体なんぞや。教師の息子に生まれれば教師の素質があるとでも言いたいのだろうか、父母が教育者と語りだす採用希望者よ。自由競争は死語となり、テレビの吹聴しまくし立て人々を駆り立てた動機の首班として視聴者に憎まれる。テレビはクソだ。テレビをみて共感する相手を見出したと老人は喜び、ネットで共感する相手を見つけるのに躍起になる若者。共感など糞食らえ。他人の価値観に全く同調しない。価値などわかってたまるか。それは行き方の矯正に通じる。一体全体おかしいのは、自らの価値を貶める出来事に対して、それを拒否しないのが美徳とされる近代の秩序と呼ばれる倫理感覚にあるのだろう。およそ倫理を知らないものが常識だと、世間に認められた価値観をわれが代表すると責任は決して取りもしないのに、テレビの前で吹聴して見せて、夢を語り、感謝を忘れ、ものを買い占め、死ぬ覚悟もなく、むやみやたらに怯え、人を寄せ付けない。これほどまでに現代のこの国の人間は、人間を嫌い抜いている。近頃テロがこの国で起こらないのをいいことに、平気で嘘をつき死ぬことよりも崇高な志を持てないでいる。生きていれば得である。ホームレスを見よ。私なら死ぬ。彼らは打ちのめされ起きる気力もない。気力のないところに何もない。何もない。虚無は何かを私に引き寄せる。私は何も生み出しはしない。太陽の光のように、あるところにエネルギーが集まり流れとなって人生の川となり同情する船に乗って川岸の世間へ目をやると、河川に並ぶ人たち、死者の弔いとばかりに手を合わせこちらを見る。日は沈みかける。まだ海に出そうもなく、くねくねと川は流れる。テレビを破壊せよ。鉄塔をよじ登り電線を切れ。何もかもがあらわになった時代に、そう錯覚している時代に、隠されたものを目に見えぬものを感じようとする気力と感受性。幽霊を怖がり畏怖する心、心を我が物であろうか。私の心というが、心は私の中にない。私は心なんてもっていなかったのだ。ただ、まわりのものが私に心のようなものを送っていただけの話だ。私は親からの連絡もない。親はそれを子にとってのびのび育つ自由な環境と捉える。心のない子供が育つ。否、ないわけではない。親以外のものに心を奪われ価値が混乱し秩序は悪にしか見えぬ。感覚ほど個人を彩り魅力のあるセックスシンボルにするフェロモンもない。巷のモテる努力の記事も、まとめれば清潔な身なりをすれば女が寄ってこられるステージに立てる程度の、いわば、門を入ったにすぎない。門の中には女がうようよしている。外へ連れ出しいきなり犯すのもよし。周囲を気にせずに抱擁し持参した婚姻届を提出し、寄ったところに女の指にインクをつけ捺印させ役所に突っ走り、それから音信不通のように心が通わなくなりセックスをもしなくなり互いにセックスだけの相手を捕まえるのもよし。「いろいろ」とは、一体なんぞや。言葉にすることはばかれる事態に、「いろいろ」と我々は言葉を濁す。自由はすでに日本において実現されていた。セックスは不特定多数とやるに限る。われとセックスするものあるか。われはすべての男を乗り越える気持ちで生きるべし。価値を貶め奴隷にする。それが互いを縛る拘束具となり離れられなくなる。受け身の場合、主体となるに疲れた休憩所にてマッサージ師の計らいを全て受け入れなまくらの心を助長されてのこと。互いに苦しめ愛、憎しみ愛、愛違えるもの同士が愛し愛。行くつく先は、何処へやら。どこへ行ってもそこが身の置き所。目標の暴力に、嫌気がさして、野暮の餓鬼ども目がキラキラと、人の評判黙っておれず、良い子良い子の子供たち、よゐこすることもできず。大人は消え、子供は赤ん坊になり。クソは垂れ流され、それを私は金と呼んで一銭も口にしない。

自分

 自分が如何なる存在かを自ら発する言葉において言い表せるはずもなく、他人との比較の中に自ずと出現する差異が自らであるとすれば、他人なしに自分は存在しない。世界は狭くなってしまった、という思う私の定見にも必ず小賢しい言い訳があり、それは自分の今の生活に空いている風穴をふさいでいる粗末な弁であり、もろく壊れやすいのを知って、またそれがスリルとなりうる。私は一体何をしているのだろうか。誰も読みもしない文章を書いて自然の美しさなどにとんとメモくれる機会もめっきり減って文章文章とわけも分からず駄文を重ねては1日を終え、何か言い足りなさを感じながら朝気持ち悪さの中に目をさます。誰も私の境遇も心理状態も気にかけないでいるのは私が感情をふさぎ外へ出さないようにしているから周囲も私の心に気がつかないのだ。信号も何もないのであってそれはほとんど妄想される、想像の中に独立して存在するのが私の心なのであり、私の心さえ私の中にないのだ。すべて、外に保存してある。この文章だって私が書いたけれども、書いた後は忘れても構わないのだ。私はいつ嫌われ失望されるかも分からないところにいる、いつ捨てられるのかも分からない。これは主婦が潜在的に持つ恐怖であろう。夫が優しい方が捨てられることもないのだから。安心して働くにしても安い急力では今更腰が上がらない。給料の安さに納得がいくのはそれ以外の生活が充実していればこそなのだろう。人生とは旅とスリルであるとすれば私は一体何をしているのだ。私の思想的冒険は今のこの虚構の現実を壊し独立して再び不幸の穴に飛び込んでしまい己の存在を消し去らんとする欲望の淵を垣間見て飛び込むスリルと飛び込んだ後のスリルを想像し血が騒ぐのを私自身が危惧しているのだ。この危惧感は危惧自体が享楽であり、それを押さえつけているだけなのだ。危惧感からその回避行動に自らを動かすのは一体何かといえば両親の言葉なのだが両親ははんば私にとって究極に薄められた牛乳のように味もしなければ、私は栄養の少ない場所にて過ごした時代の氷結を今更ながら思い返すと寒気と腹立たしさが沸き起こり、それらがうまく中和して平静でいられるという次第である。子育てを失敗すれば子供は立派になるというのが私の持論である。子育てに成功した親など一人もおらず、成功の後に失敗は必ず来るものであってどの点で子育てが成功したのかどうかその見極めをいつ自らが評決を下すのかという問題でしかない。そうすれば、私は今確かにバカなことをしでかし自らに失望して入るけれどもそれは、私を今評価した場合の話であり人生が株価のように乱高下をする運命のもとに生まれているのならば、まだ、諦めてはならず、諦めるというのは必然的に損をするのである。諦めは、人生の上では大切であろうけれども人生を諦めてしまった後の境遇もまた魅力的なのは確かであろうが。一体風俗で働く女は何を諦め本来はホームレスのように背カツするしかない自体を己の体を資本に生きているのだろうか。否、精神を資本として生きているのだろうか。女は精神的なる生き物で、肉体は彼女らの本来の姿そのものである。男は、相対的に肉体的だといえる。精神は、借り物で彼らは何も感じちゃいない。女は肉体を何も感じちゃいない。風俗は体を持たない女が裸になった精神をさらけ出す。男は、裸になれば何でもいいのだ。己より裸になっている人間がいれば何でもいいのだ。男の肉体は全く魅力に欠けているのはそれを見る女の方で魅力を男に伝え切れていないからであろう。魅力ある女は相手の男の心のうちに自らの魅力ある姿を自ずと書き出すものだ。男の側の興奮はせいぜい男の稚拙な想像と鋳型にはまった興奮する女を欲する気持ちとそれを見つけた喜びでしかない。女は男の鋳型に自らを押し込め演じればこそ多くの男に魅了される。一体多くの男を魅了する女ほど全く持って魅力に欠ける女はいない。感情を入れずに物事を判断すれば、物事の良し悪しに感情が宿っていないことはないわけではなく、感情的なものに頼ることなしに自立しようじゃないかという、感情からの解放を宣言したもののように思われる。ジブンヲカンジョウニイレズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ。世の迷妄に付き合うほどの体力もなく地面に沈みゆく我が肉体は大地に帰り、モグラは死ぬと地面の中から這い上がる。下克上物語は究極的な自己否定と自己の卑屈を燃料に燃え上がり手に入れた燃えかすのゴミをいつまで嗅いでガラスケースに保管し人に見せびらかしては、見物料をとる。これを笑えない人間は誰一人おらず、皆一様によく見ればゴミのようなものを、愛情を込めて大事に育て、大事に扱い、その気持ちに価値がわくような出来事があるものだ。何かをしてくれる人を待ち焦がれる気持ちよりも自分が何かをしてあげたいという気持ち、それを愛と呼び価値は私の外になく、私の行為の中に常に実り、私の行為を間接的に、ある他者を通じて会得される種類のものであるからこそ、それを奪わなければならない。私たち人間は人間同士から何かを奪い養い面倒を見、押し付けがましく親切にそれらを実行しながら自らの栄養分を取り生きてきた。もし、人間が生きるために生きているのであれば、死ねばいい話なのである。どうすれば楽に死ねるかの技術はどうすれば楽に生きることができるとかという問いと似ているように思われる。楽をしようと思う人間は一切楽を従っていないのもまた事実なのである。彼らは楽がいかなるものか本当のところを知らない。首相は権威もあるけれども、モラルも要求されるため権威を売り物に権威ばかりが集まって鬱陶しくなるのだろう。権威を求め楽をしようという人間は、楽の本質を見誤っており、権威を叩こうとする。権威なるものに反抗しようとする。徒党を組み。徒党こそ幸福であった頃を思い出し、自らの青春を洛陽に溶け込ませ、西の海に沈む太陽の蒸発する音を聞きながら、明日を迎えるに夜がやってくる。