アウトプット

相手の視点に立ってみよう

卑下

 己を卑下すれば他社からも卑下される。己とは他者の異名に他ならない。他者とは自分自身である。他者をいたわるとは自身をいたわるのに通じる。他者と己は分けられず運命は共同する。他者を感じないでいるときに己を感じるがそれは不完全なる存在である。己は不完全なる存在である。他者が不足の動きをした場合に不快に感じればそれは他者に己がなりきれていないのだ。己とはなんだろうか。己がどこに存在するのかもしれない。文章の中に他者は声を上げているだろう。私には大義がなくなっているようにしか思えない節がある。どうにでもなれと、投げやりになれば気もさっぱりしてくるように。ちまちまと文句を言い並べてもしょうがない。何がいいのか、何が悪いのかを毎秒毎に見極めていなくては、半端に動いているといざという事態の際に行動できずに終わってしまう。何よりも行動がすべての言動を優先する。ある断定は一体、その人にとっての断定でしかないわけである。私はある行為に協力しないという点で頑固であるが、ある行為を私自身から始めることも想定できるように思われる。私は何一ついい思いはしていないのだけれども、私はそれでしかこれが続かないと感づいているように、錯覚して己のうぬぼれをいつまでも抱いていたいだけの話だとすれば、己のうぬぼれのために狭まった視野が己の狭窄視野の症状を悪化させ続けしまいには、私はどうすればいいのやら、藪の中に消え去る他ないのであろうか。

 

 私のペースが乱されるのが不愉快でならない。礼儀をわきまえていれば、マナーにうるさくなり他人を蹴落として自らを立てるようなバカもしなくなる。不義理に不義理を重ねて申し渡されたお役御免がいつなのか私には冊子がつかないと言ってもしょうがないのだけれども。文章にして私が言い表す心模様にいかようにも論理的でない流れがあるのかは知らない。分かれば訂正するだろうし。わかっていれば論理ほど人を惑わせる力がありながらもそれを一度行使してみると、論理なんてものは一つの幻想に過ぎないのもまたよくわかってくる。自らの脳みそを売り渡すか体を売り渡すかの違いに他ならず、魂は脳みそとの関連において出現すると信じている私からすれば、脳みそを売り飛ばす社会的制約なるものには一切協力もしなければかといって、協力と別の形での協力とも言える反抗的なる態度も一切とらない。

 

 小林秀雄は女を養うために文章を書いたと壮年期に語る。そうだろう。彼には一貫した主張なるものはない。主張の変遷に対し、どういった因果を踏んで前の主張から改めたのかを書いていない。

筋肉のこわばり

 いくとは気を発散させ気の巡りを良くする手段であるとして、何度も行けば疲れ果て眠ってしまい、起きれば神経は目を覚ます。酒を飲んで吐く気は次の日に別の気を取り込んでいるのか気持ちが悪い。酒に強いとか弱いを自慢するのもいいが、優劣を極めるほどの価値はない。酒を飲んで気が狂い武勇伝を作るも人に話さなければ価値はない。己の非行も人に話して聞かせなければなんの意味もない。おおよそ人に話さなければ意味をなさないような話を作り出すのがマスコミの仕事だから、つまらないネタでも面白おかしく書く力が必要なのだろう。書く本人が退屈しているようなネタばかりがこの世に充満して、20代は良い子が増えたというが、容易に手名付けられる頼りない日和見な軟弱者の思慮の浅い、自ら考えず一定の価値観を信奉する社会主義者が増えたという程度で、それを良く書くには、前者の社会規範を守り自らが法の番人となって人を裁くという行為をなす、国家非公認の監視、懲罰係を積極的に担う犬が増えたというのだろうか。国家について無理に語ればワケもわからずに妄想ばかりが先行しテレビの政治ネタにああだこうだと知りもしないのに、関係もないはずなのに一喜一憂し興味関心をマスコミに奪われる情けない状況に陥るのが関の山である。第一マスコミは娯楽を作り出し、娯楽に価値を置かせるのもまたマスコミのなせるわざであるには違いないのだ。小さなコミュニティでする遊びは高価であるが、皆で行くディズニーランドは安価である。施設の規模が娯楽の価値を高めるか否かと問われれば相関関係なしと言わざるおえない。価値とは何かと問われれば人の興味関心やる気を生じさせる動機に他ならず、価値とは自ら生じさせる場合自らから離れる必要のある、よくわからぬものである。価値があるとかないとか、目には見えねども、確実に感じる実体のみることのできないものである。血流の流れと関係しているのだろうか。セロトニンと関係しているのかもしれない。フィリピン政府は軍を投入し国家に従わず麻薬の流れに身をまかせる国民を取り締まる。集団を形成しなければ、奴隷に陥るという古来からの人間の習性を大事に守っているのを保守と呼ぶのかもしれない。確実に感覚としては感じられるものではないけれども、これまでの歩みを振り返れば何度も戦争を起こしてきたのだからまた戦争は起こるのだろうと考えるからこそ戦争が起こるように、物事の因果は容易に逆転しうる。無政府主義は、ある意味国家主義と同じ方向を目指している。法の重みを知るには、ほうがなくなったと感ずる後の無法地帯を憎み後悔するほどにならなければ、法の価値や重みは忘れ去られてしまう。およそ価値あるものはそれをなくせば後悔するであろうという未来から現在をみる行為にあるのだろう。価値とは、過去の後悔で形成される。過去はいつまでも人間に纏わりつく証左であろうが、人間だからという理由である個人の考えを誰かに押し付けるような真似はしないほうがいいと、私は思うのだが、しかし、誰かに押し付けたくもならないようなものを重宝するのは難しいと考えられもする。要するに、私は物分かりなどちっとも良くない人間を尊敬するのだ。分別がついて妄想と現実を分ける能力は必然的に、現実でもなく妄想でもない無の世界に身を置きいかなる仕打ちに対しても卑屈に笑みを浮かべるだろう。そのような人間が俗人の中で好かれるはずもなく、まずい飯と汚い空気を吸わされ生きられる体力の持ち主として身を置く場所を与えられもするのだろう。弱さほど、強いものはない。強いとは、その強さが削がれるまで絶えず荒々しい境遇にさらされるものだ。

ホームページを作ったが

パソコンの画面上での出来事が現実世界を美的に上回ることがないので、実に時間の無駄である。ただ、コミュニケーションのツールもしくはお笑いのため人々とゆるいつながりを維持することに関しては良い効果を私にもたらすだろうとも考えてみたが、ないだろう。あまりパソコンに詳しくないというのは今や褒め言葉であるように思われる。パソコンなんぞ廃人と暇人のスクつであるからパソコンに関わる時間は勿体無い。何がもったいなくないのかはわからないけれど。それを言い出したらおしまいだという声もする。とにかく僕にはプログラミングはもう飽きたというのが事実だ。これを受け入れないと僕がひどい木の病に陥ってしまいそうだ。熱意がないのだ。調べようだとか面白がらせようだとかの熱意がないのだ。ふと頭に浮かぶことがあるが楽しくはない。楽しくしているときは案外はたから見れば熱中していることの裏返しであり拙い感じを与えるものである。そういう見栄から解放された人間こそ自由であると言える。自由とは自由であることを忘れている人間に甘美な響きを持たせる。私は自分の言葉を信じているだろうか。考えるというのがどれだけ素晴らしいこと。いったい体を動かすことがなぜこんなにも素晴らしいことなのか知るべきであるように思われる。私にはプログラミングはもう付き合いきれない趣味なのだ。正直言えば人間関係もめんどくさいと思えるようになってきた。多少の私のわがままも見過ごせるくらいのゆとりを持った人でなくちゃ私と今付き合おうとは思わないであろう。むしろ、私と付き合えないということは心のゆとりが失われた危うい状況にあるわけだから本人は私から離れることでなお一層僧侶することになり人生を苦しみの中に生きることになるだろう。なにもこれは叙述的言葉ではないように祈ろう。そう聞こえるのは至極もっともなことである。自分に近寄るものにはよくして離れるものには、真冬にかかわらずホッカイロさえ持たせないような気負いである。

耳をすませば

 そして、月島は天澤と結婚したのだろうか。月島は迷うことなく迷い、走り出す。雨沢もまた同じで我が道を行く。月島は天澤を燃料に彼女のエンジンはピストン運動を始める。天澤は用意周到に月島をエスコートし自分を好きになるように仕向けることに情熱を燃やす。バイオリン作りの動機さえ月島の気を惹く材料と変化し、いずれ月島を手に入れたと判断するや否や天澤はバイオリン作りへの情熱を失う。そして、月島はそれでも天澤を好きであると確信してはじめて彼を愛する。

 月島を振り向かせることで天澤は彼女の思考を手にし、彼女もまた天澤に合わせようと努力することでふたりは互いに理解し合う。

 物語の主人公は私の意識を反映する。私の意識を映す鏡を持った登場人物が物語の進行コードを通して鏡に様々な私の顔色を映し出す。表情とは言葉であり、言葉の発話が台詞である。短い台詞に映し出された鏡の片鱗を見せる。

 

自分とは何か

 自分とは何か。大きな川の流れにあって小さなことに動ぜず悠久の大河のような流れの中に身をおけば、漠然と広がる景色に孤独を苛まれ人を求め自らが船になってでもそのものの後を乗せて水面を揺蕩う。一体この世界に生まれてきて私は人の模倣以外の生き方をすることをなぜ嫌っているのだろうか。人が変わることが認められない時期がありそれで人は信用できないと私が考えるとき確かに人に大きく依存していたのは確かなことであろう。依存された方も頼り甲斐のある事故という自分によってはいるものの酔いが覚めれば息苦しさを感じないわけにはいかぬように、一時的には陶酔的に相手に酔えるが酔いが覚めたときに苦痛から解放される楽しみを獲得するのだろうか。となれば、私自身は酔いが覚めてふらりとどこか誰も知らない人のところへ行ってしまいかねない危険の中にあるのだ。それを何度続けても飽きない自分がいる。天性の浮気性であるのを認めざるおえないのかもしれない。人への執着も浮気性も発病すれば完治する。浮気性な事故が道を一つに求めるのは至難で、あらゆる書物から生き方の携帯を学びはするけれどもそれを真似することはない。真似することなければ学んだとは言えないので私は不学の徒と言わざるおえない。私がどこへ行くのかという疑問が私にとってさほど重要でないのも確かである。今この場所でいかに私は動けるのか、という詰問に日夜さらされ眠るときも奇妙な出来事の混交を見ながら眠りにつくのだ。一時期の灰色がかった暗い曇り空の夢はもう見なくなっている。これが良い兆候であるのかどうかは、それを判断するのは私自身であるのだが、どうも私は安定して入るけれども楽しさを失っていると思われるのだ。独りよがりの楽しさはなんら楽しいものではなく、私はこの時期に仕事をして家庭を持つために貯金をしなければならないという世間並みの考えが私の心に巣くって毎日の私の怠惰を戒め罰しているのだ。実に苦しい感覚なのだけれども一度狂って仕舞えばなんとも思わなくなるのだけれども、嬉しいという感情であったり悲しいという感情さえも失って、硬い甲羅の中に自己の感情を閉じ込め決して開けないように鍵をしっかり締めているのである。ここまで自己をコントロールできる自分を恨む。私は人の話を聞くのが下手というのもそういうことなのかもしれない。これは誰かに言われたことでもないのだが、自負心として、人の話を聞くのは上手だが、ものを書くのは恐ろしく下手なのだ。そこには、自らを一つの価値体系とする直覚がなければ書くものは実体を失い書き手の責任さえ免責される。この生活の楽しさは安定にあるのだし、二人会話をするのが楽しいのは確かなことではあるけれども。て意見を持たないような文章を書くにはどうすればいいのだろうか。私の頭の中に常にあるどうすればいいのかという問いは安易な回答と結びつきがちである。安易な回答には批判を加えるにしても疲れているときに安易な方へ流れてしまうのは仕方がないと考えるのは世人の余裕のない強いの人たちがよく言う言葉ではある。それにしても、私は何を書けば良いのだろう。書いても金にはならないし、自己を表すための手段として書いても表されることがないのは確かなのだから。自己を表す手段として文章を念頭に置き、しっかりと意見が言えるというのはおもえば学問する上で非常に邪魔な才能であるように思われる。言いたいことは散々言っているじゃないか。私が書いているのが私の言いたいことであってそれを超えることも不足することもないではないか。私は自らの手意見が非常に貧しいところに怒りを覚えておりもどかしさを感じているのだろう。いわば、私は言葉をうまく使えずに自己を表現できていないわけではなく、私は常に文章中に文章という形で表現されておりそれに満足していないだけだ。それを受け入れ自らの文章を改造し文体なる私にはまだ会得されず感得もされない、文章のスタイルなるものがいかなるものか悪戦苦闘しているのだ。私は不幸であるのか幸福であるのかと問う前に、不幸なるものも幸福なるものも味わう必要があるのだし、人に君は幸福だと何度言われても決して幸福にはならないだろう。早い話が、腐った卵を食べて他人に美味しい美味しいと囃し立てられてもまずいに決まっているのだ。いわば他人とは私にとってやかましい存在なのである。彼らはまず想像の余地を残しながら、それがしぼむのを極度に嫌う傾向がある。他人という存在は無言のうちに私が打ち立てる虚像に過ぎないのだ。虚像を知ることと自分を知ることはつながっておりひいては他者理解とは自己理解と同じことであるという簡明な結論に至る。

読書遍歴

 読書遍歴を披露したからとして一言も誰の参考にもならないことはもちろん、自分でもなんの役に立つのかわからないけれども書きながらなにか見出せるのではないかという期待感がある。しかし、その期待が裏切られようとも何も思わない。書くということ、タイプするということが何をもたらすのか。それを問いたい。例えば、ペンを握って文字を書かないことで忘れられる感じがある。感じを知らないということはどういうことか。かけないということは知らないということではないにしても音としては頭にあるけれども文字面として知らない。声は知っているが顔は知らないという。それでは、完全に知っているということにはならない。誰を呼んできたのかは私にとって非常に重要だ。過去三島由紀夫をはじめ様々な文豪ない品の知られぬものたちは読書遍歴があるはずである。私はその一端として自らの読書遍歴、著者遍歴、いわば浮気の遍歴をここに書きたい。浮気に変わりなく、移り毛であると占いにはでているけれどもそれを証明することになりはしないかと内心ワクワクもしているのだ。全てが占いのように進めば退屈ではあるが安定はする。私の読書は人間失格から始まった。活字に疎かった私が一夜にして読んだ本だ。それから太宰に傾倒したが、太宰を嫌いだと面と向かって言った作家がいた。三島由紀夫だ、私ま彼の文学にぞっこんで彼の文学は底知れぬ何かを感じたのである。彼を超える読書感を得たのは先のことである。三島の自宅にも行ったし、市ヶ谷駐屯地を通るたびに感慨部外ものがあった。山梨の三島由紀夫文学館へも行った。それから、私は芥川龍之介を読んだ。哲学にも手を伸ばし、精神分析学のジャックラカンの解説本をよだ。解説を何冊も何回も読んで、エクリへ向かった。わけがわからないと口々に人々はいうが、私にはつかめたような気がする。それから、太宰治、芥川を交互に読み、彼らの文章と時代背景に魅せられた。現代よりももっと自由な空気を文章の背景に感じ取ったのだ。今は面の皮さえ暑ければ何にでもなれる。真なるものの追求という統合を外れて書くよう好きなように考えぬかれることもない思想の垂れ流しで学校教育は運営されている。それから小林秀雄に走った。彼は彼自身の価値を打ち立て舌鋒鋭く物事を見る目に私は頼り甲斐を感じたし、自由を感じた。そして、シンパシーを感じた。人がよく考えない物事の価値の是非を問うたのだ。ソクラテスにもぞっこんした。パイドンは私の愛読書である。九鬼周造のいきの構造も私の愛読書であり実践するべき啓蒙書であった。三島由紀夫葉隠入門にも影響された。ここで思う、私はこれらの本を恥肉かしてはいるが言語化していないということに。すべての出来事を網羅して言語化すれば物書きとして一定の地位を占めることもできよう。しかし、かったるさもあるのは確かで、言葉にはならない感覚を比喩表現でというわけにはいかないような気がする。私も舌鋒鋭く忌憚なく文章を書きたいのだけれど必ず私の前に現れてくる顔がある。それは私の愛する彼女の顔である。彼女の顔を苦しめ歪めさせるような行為は僕はしないのだ。したくないという、欲求であったり誰からの強制でもない、自発的にしないのだ。これだけが僕の彼女に対する唯一の誠実さである。僕は彼女に暗黙のうちに様々な嘘をつくことは確かにあるけれども、僕が彼女に対して彼女が気にくわないにしても、誠実さのかけらも望んでいないにしても僕が彼女に誠実におちゃらけているのは、彼女を決して悲しませてはならないという強い動機からなのだ。私は自分が本当にそう思っているのだろうかという疑問を幼い頃から抱いて自分を欺くような真似をするのが大嫌いだった。それにより、嫌いなことは何もしないでここまで生きてきたのであるが、私は彼女のためであればすべての嫌いなことをレモンシロップに変えて実行する。こればかりは、僕のどうしようもない勝手な行為だ。僕は自分が嘘つきであるということを重々に承知している。金がないと言っては親にせびりカネを巻き上げる僕はろくな人間じゃないことはわかっている。それでもだ。それでも僕は彼女を悲しませない。そうしないようにする。