アウトプット

相手の視点に立ってみよう

いかなる!

いかなる動画も信じてはならない!

この目で見るまでは。

この鼻にさえ感覚は宿る。

動画には腐臭がない。また、香気も無臭もない。

 

僕は、と言うとき僕は迷う。

僕は!君と僕との間に常に生まれる。

僕は僕ひとりで存在できない。

存在の拒否。それは他者を拒むのに似ている。

私は存在したくないだけでなく、他者を存在させたくもないのだ。

私の傍にいるある者は存在を忘れ喜び、ある者は苛立つ。

すべての生命が尊い!と考えるとき、そこには真実はなく、意志があるのだ。

意志は私を向かわせる。動かす。

真実は他者を動かす。

ああ、自ら動く人となれ。

なにもかんじない!

それは何も感じないことの始まりだったのだ!

悲しさは当然の報いとして私に自覚された

私はそれを空気のように感じた

 

いつの日か会おう!

消して会いたくない!何を楽しみにこの国に来ているのか知らない

日本人のいない成田空港

私の存在の無根拠さを

私は私が感じるように私が感じてはいけないと

なにものかが、わたしに圧をかける

被害妄想?そういえば一応の名前はつく

常識?常識を逸脱した後の報いこそ!

ああ、世界がどうなろうとも私は一向にどうともならない。

家が壊されたら?壊れた家があるだけだ。

金がなくなれば?動けなくなるだけだ

食糧難は?有事は?疲れは?

生きるのは疲れる。死とは解放でもあろう。欲望を失った者にとっては

ああ、私の非力さを私は嘆きはしない。私の非力さをあざ笑う人たちの気持ちが気持ち悪いのだ。

要は、存在などしたくないのだ。

私に未来を描くペンさえもてやしない。その方がいっそ楽だ。

がんばれと、言うだろう。がんばれと。

私は存在の消去に勤しみたい。がんばりたい。

どうせ、後悔するんでしょ?後悔さえ、感じてみたい。

後悔が私を襲ってしに至らしめるのなら、私の現在は死ぬために用意されている。

死ぬために生きている。

私には私がわからない

 私は他者である。他者の説明により私は成り立つ。私の説明により私は成り立たない。説明する際に他者を必要とする。私が何者であるのか。私自身は知りえないというとき、私自身は他者により構成されたある種の傾向として私を捉えるであろうけれども、いよいよ私は私の感覚なり神経を偽りの言葉で書くとどまる。荒いタッチで書くに止まる。印象派の絵のように私は私を書こうと努力することはできる。そこに他者の客観的な視点がある。従って、自己を問わない人間にあるのは盲目的な主観である。

考える

 私は考えているのか。考えているが行動はしない。行動が私にもたらすのが破壊的内容を含んだ報復攻撃であるのだ。私は私自身を教育しまた鞭をも振るう存在であると確認したいがために私は行動に破壊のみをならせるのであろう。今聴いているラジオは私にとってはその内容が問題ではなくそれが促す私の行動に効果を見出しているのだし気持ちがいいと感じているのだろう。すべては現象である。だからどうした。世紀の大発見。叫んでみても聞く人おらず。まして金を払って聞くものは皆無。私は別段このようにいきたいと望んだわけではないが、こう生きているのは私の望みでないのは確かであるにしても私の望み自体を私は拒否しているのであろう。思い描いた通りに世界が動くよりも世界に身を任せた方が私への快感は高まるとわかるやいなや、計画性はおそらくは私を無計画へと駆り立てるだろう。壮大な無計画の余白に、私は計画への悪口を散々書き続けるのだろう。一番人が人でいるためには会話の次にやってくる応答が必要なのだ。応答にこそ私がいるとすればそのような自己に私はなんら興味もわかないのである。私はどうすればいいのかわからなくなった時に、周囲を描写すればいいと今ふと思ったのであるが、私の足の下には人が眠っている、私は4階にいるからだ、だからどうした。この問いは非常に強烈であるように思われる。この強烈な思いを私は一体どのようにして払いのければいいのだろう。徹底的に対話する必要があるのであろう。そこにしか私の言葉が生きるところはないのだ。私は死んだ言葉をいつまでも使い続けるような気持ちを持っていない、まして、無意識的に好んで使っている言葉さえも、好んでいるか否かはどうしても無意識が判断しているのだとすれば、それは、おそらく、傾向としてあるわけで、感情はついてこないように思われるのです。私がものを語るときそう思われるという確信以外に何を語ればいいのでしょう。客観的に確実なことを前提に話すとすれば非常な苦痛でありましょう。まして客観とはどこにある代物なのか。そんなのもわからないのでありますから。夏目漱石が私の頭を揺さぶっています。語彙の豊富さに目がくらみ彼の著作が私を喜びに導いてくれると私は自分言い聞かせるよりも早くのめり込むのでしょう。私は自分に言い聞かせる力が非常に強くて、自然に振る舞えないところがあります。どんなにしっかりした人でも私ほどにはしっかりできないように思われるのです。生まれるときに人生は決まっているのかもしれません。体力なるうちはその人生から少し離れて生きることもできましょうが、無理は禁物です。だからと言って宿命なるものを知ることができるでしょうか。それを知るときはないのだろうと考えます。なぜならば、私は運命を感じるときに未来を思うからです。過去は私の知らないところで因果関係を作り上げます。おそらくは誰によっても改変可能な因果関係でありそこには解釈しなく動機の査証が行われているように思います。確実な認識は如何様に現れるのでしょう。気にもしないような質問ばかりを投げかけてどうするのでしょう。人に何も強制しなければたいていの問題は起こらないはずです。自分がやられて嫌なことはしない。見ていて嫌いな人にならない。とても難しいことです。私が嫌いに思わなければ存在しないような残酷な主観に踊らされているのですから、主観に客観が混じっております。私が金を無心するときに私のビジョンがあるのです。そのビジョンを助けてくれる人がいてくれればいいのかもしれません。それでいいのです。他に手出しをするのならば、ちゃんと言い方をわきまえている必要があるのです。私について何か面白い意見がございましたらコメントをくださいと私が言うときに私は私のこの意見とも言えない独り言の残骸が残骸ではなく私が多少は苦しんでここにタイピングしていることをわかってもらいたいというなんとも、おせっかいやきを待っている状況なわけです。いいえ、誰も私の文章など読みたがらないに決まっていると決めてかかる私自身は一体なぜそういうことを言うのかと問うときに私は、私のみの不自由さを考えて泣きそうになるのです。笑いたくないときに笑い泣きたくないときに泣くような場面を想像してパッと私の手はキーボードから離れてふと、なんにも感情がないような表情をするのです。私は何を考えているのかわからないという人間の根底を見たいと思います。私たちが考えるようには考えていないことへの不満と不信それに嫌悪がそこにあるのでしょう。もうひとつは、そこには自分たちの考えていることの底浅さと馴れ合いへの粘着的なしつこさから私はどうしても、ある種の人の興味の対象になるのでしょう。私は一体どうすればいいのかと誰に問うても私は結局は納得しないのであります。なぜならば、私は自分のために生きるほど強くはないからであります。私は自分しかいませんでした。親は自立するといいます。これは、ある意味で残忍であります。価値を見出せというのですから。そこに金などない場合もあります。金に価値を見出せば楽です。しかし、競争となると惨めな思いになるでしょう。金持ちは大半は金になど縛られちゃいないのです。金持ちほど幸せでないというデータがあるとしても、それは幸せでないから金があるというだけの意味で、金がなくても幸せになれるかといえば、おそらくは慣れるでしょうが、個人的に苦しむ時間がないという意味にもとれます。誰かに鞭で叩かれるのを快感とする人間にとって苦しみのない世界は虚無でしょうから、奈落の底に落ちてしまうのでしょう。同じ言語体験がないから私は一般的なという言葉に非常に敏感になっていた時期もありますが、それも過ぎ今となっては五感が失われたといえばことが足りるように思います。私は果たして幸せでしょうかと自分に問いただすときこの言葉の持つ背景を考え、そして結論など決して出ないこの問いを発した自分の間抜けさと退屈さに思いをはせるのです。

対話

 対話とは相手の話を聞くことであろうし相手が話すわけをも含めて相手への心理的解消をもたらす。相手の話を聞くのが対話であり、何を言うのかを楽しむのはおしゃべりであろう。対話とは名ばかりのおしゃべりが作り出した世界であるからこの世の中は決して深刻な問題などないのだ。おしゃべりの中に少し気の利いたのもあればそうでないのもあるだけの話だろう。それにしてもおしゃべりが過ぎてしまったようだ。私は別におしゃべりを楽しもうという気はないのだ。おしゃべりこそが社会であるように思われる。お笑いにしてもある一つの常識を基盤にしなければ面白くないのだから。人はおおかたにして苦労して痛めつけられなくては面白いという感情さえなくなってしまうのかもしれない。とすれば、あらゆる楽も苦の生んだものと言えようし、苦しみは楽しみが生んだのであろう。どちらが先に生まれたのかを論じたとして何になろうというのか、意識は断絶されるのだから、人が生まれ持っていい人間だと信じたいのはなぜだろうかと考えてみようともしない。それは考えちゃいけない種類のことなのだ。不自由がいっぱいこの世界にあるのは確かだけれどもそれを忘れちゃいけなのだろう。

 言葉を生業にしている人間は言葉で遊び始める。小林秀雄は開き直った。嘘をついて何が悪いと。否、違うかもしれない、私の中の小林秀雄がそう言ったのだ。それにしても、人物の研究などわけがわからない。会ったこともない人間について思いを巡らす必要があろうかというわけだ。それよりも今目の前の、否、この私の目が狂っていないのかという問いがあるだろう。今からは、人物よりもディスクールの研究に重きをおくのが正解であろう。人物を研究して何になるというけれども、それを欲している人もいるのだからなんとも言えない。

 私は知った風をしているが何も知らない。ある到着点においてスタンプを押さなくちゃならない世界においてスタンプなど押すのに楽しみを見出せない私であるだけである。それによる弊害など存在しないのもまた事実かもしれない。なぜならば、それに付随するあらゆる景品もゴミでしかなる。私には宝物持ちぐされなるものに溢れている。人にたくさん迷惑をかけて死んだ人間が後世に語り継がれ英雄にもなり、思い出の人となるのであるのならば、迷惑などかけっぱなしの人間ってのは一体迷惑が意味するところの社会的価値観なりを身を以て逆説的に体現しているわけであるから、貴重な存在なのであろう。

 

私への回帰

 偏見とは言葉に満ちている力の放出に違いない。ある言葉の持つ意味が力を失った時言葉は我々の気持ちを代弁などしていないのに気づく。気持ちなどそもそも言葉が作り出すとすれば、言葉に何を求めよう。何を。一体何を。何も必要ないではないか。一人での対話など意味があろうか。意味があろうともそれには他者が必ず関与せねばならない。私的言語を公的に認めさせる試みの全てを私は拒否する。ある言葉を言えることである種の地位を確保できるのわかる。しかし本心ではない。本心は揺れ動くものだからだ。嘘ばかり吐き続けると言っても過言ではない。もしくは本人の歩みは別に作り出し本心はそこにはけ口を求めると言ってもいいだろう。世界と対話する気など毛頭ないのだ。世界が何を言おうと私は世界の中において存在を見出そうとも思わない。いわば幽霊で痛いのかもしれない。物質に左右されずに精神の自由な活動が行われれば結構である。私たちは一つの型にはまるように強制される。そうでなければならない理由は金銭である。キャラクターとは型の制度への皮肉。言葉は本心を離れ、力を失い、嘘をつき続ける。嘘つきは嘘つきに騙され嘘を守るであろう。私はどこにいるのか。私とは客観性を失った偏見と狂気と自由を失った主体であろう。自由であるほどに私は何者でもなくなるのだから。個体として、苛立ちも空腹も地位も名誉もなくなれば、それに越したことはない。しかし、他者がいる。相変わらずそれらを相手に本気なれる。否、同じことばかり繰り返す暇人。農作業従事者。彼らには文字など不要だったのだ。教えなど説教など何も必要としていないのだ。ただ、付き合っているだけにすぎなかった。文字に囚われた私は彼らからしてみればバカである。否、私は自らバカだと思う。その良し悪しはバカのもたらす効用にて自ら判断するように思われる。限界まで進んだ時に、私が死にたいと思った時に、最高に人間は生きているのだ。そして人間は生きてしまえば直ぐに死にたくなるものだ。生きようとも死のうともせずに、一切が過ぎていき世界は虚無に満ちた時に意味をなすのは暴力であろう。