アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 僕が今記事を書けない理由の一つに、僕自身の生活が記事に反映されるからだという考える。私の私生活を社会の人たちに見られる形で表現されるのなら、私はいくら考えて自分を脚色するか、完全に事故を偽るのを諦めるのかの二者択一に思考をまとめ上げ、結局は体力が尽きたら自分を偽るのをやめるだろう。つまり、人は決して自分の本心を自分の一人称代名詞では表現しない。あの人ちょっと嫌な感じという時、私はあの人が嫌いですとは決して言わないようにするのが、ベターであるように思われている。加えて、このようなくだらないちまちましたことを考えている人間もそうそういないのも確かなようだ。小さなものに神が宿る。近頃は礼儀も何もなくて、とにかく流行りのものに流されていれば礼儀なんか要らずにフランクに人付き合いができると考えている。確かに、フランクというのが雑で無作法な礼儀知らずなやつの人間接近方法であったり、いつも色んな人間とつるんでいて、いったい誰が誰なのかはっきりわからないくらいの人間の数と付き合うほどに、いちいち挨拶するのも面倒になって、礼儀もなにもなく、フランクに握手を求めてくる奴もいるかもしれない。モルモン教の自転車乗り二人組を思い出せばいい。あの笑顔と、フランクに近寄ってくる人間の浅はかさはだいたい同じようなものだ。一方は、宗教勧誘だが、もう一方は人間勧誘だ。俺の友達になってくれ、そして、友達なんだから大変な時は助け合ってくれ、もちろん俺も助ける。こういった風に近寄ってくるのだから、たまったもんじゃない。だから、友達がいない方がいいというわけではない。友達の数だけ人間の行動は制限されてしまい、同じように行動する仲間を求め、同じような話ばかりする人たちに囲まれる。そこには、幼児的な笑いがあるだろうが、安らぎはない。とにかく、一人になれば退屈な時間も、退屈な友達に会えば、自らの退屈を自ら表現しないで済むので安心するのだ。恋人の写真をスマホにするのは、恋人を忘れていられる時間があるからだ。その時間を設ける限り、恋人に頭の中を拘束されないで済む。「私はいったい何の話をしているのか」なかなかこの疑問に答えるのは簡単ではない。なにせ、幾千もの言い方がありうるからだ。いったいどれが最も効果的なのかと考える時に、説得する相手を想定しなくてはならない。子供に私の話は通じないし、また、大人であったも通じない。性格が違うのだし、読み方が違うのだ。世界観が違うのだ。考えてみれば、文章を如何様に読むのか、それが世界ではなかろうか。法律の文章ではなるだけ、意味を多く含めず限定した表現で誰が見ても同一の意味で解釈できるように書かれなければなるまい。しかし、文学は、意味解釈など超えて感性をくすぐられるのが気持ちがいいのだ。それは、多様な意味解釈も取れるであろうお。心理小説はちっとも最近流行らなくなってしまったが、人間の行動の心理面を明確に文章にする作家が減ったというべきであろう。それともに、人間の心理的あり方が無限であるからある程度、しみのように、ここに心理的何かがあるかのように含ませて意味解釈を読者に委ねているのかもしれない。夏目漱石の、こころはちっとも意味がわからない。いくようにも解釈できるであろう。それを漱石は狙っているのかもしれない。いちいち、作家の考えるように読者が考えるとは想定していないはずだ。そうでなくて、どうして分泌作業が務まるものか。法律分を書くのじゃあるまいし、いったい、自分がこうだと書いたところで主張の行き違いが生じる、問題が生じる、男は女が別の男のところへ行ったのを悲観し、死んでしまった、と書いた場合、確かに、女が結婚の約束をしたのにそれを無視して別の男のところへ行けば、男は悲しんで死ぬ気にもなろうが、所詮それだけの男である。しかし、実は、女が嫁いだ先の男は、前の男を殺そうと企んでいたので、女はそれを阻止せんがために自ら結婚という武器を使って男の考えを諭し、また、前の婚約者を守るためにした行動かもしれないのだ。女は謎が多い。男はまるで機械だ。気ままいなれたら女だ。どこ吹く風、秋の空、女心。僕はちっとも悦になんか浸っていない。この表現が俗な表現だとも思わない。澄み切った秋の青空のために、男は死ねるだろう。夏の暑さに野垂死に、冬の寒さに凍りつき、春の暖かさに身も心もほだされ、夏のアスファルトに照り尽くされ焼かれる。そして、やってきた秋の澄み切った空をみて死ぬのだ。美しい。見かけた記事に、女は自己を暴漢から守るための策として夜中に一人で歩くものではない、といった社会の下らない上司の発した本心でもない、メディアや芸能界という世界の言葉が流れ込んできて、いつの間にか頭の中にその言葉のパワーワードが記憶され、人々に嫌な思いをさせるように、私は、決して、メディアや芸能界の言葉を聞きたくない。彼らは、仲間内の愚痴、世間の流行を作り出し大衆を扇動し、握手を求められる小さな皇帝だ。嘘をつきまくり集めたお金で一万円の寄付をすれば、素晴らしいやつだと、他人の話を一切聞かずに、あるいは、他人の意見に流されっぱなしのツイッターないりインスタグラムないしフェイスブックの利用者が、流されて、開き直って、そういうお前の人生は下らない、終わっている、友達なんて少ない、写真もおかしい、思想は幼稚だと、やっぱり人のはなしを聞かないことに関しては一貫している。誰にも聞かれないような嘆きを、嘆きを、意見を人に言うだけの勇気のない陰鬱な人間が、ツイッターに巣食っている。さて、ここはどうだ。私は、意見のために書いているんじゃない。勘違いしないでくれ。俺は、俺のために書いている。目的は何か。さっき書いた。目的は、ないようである。ただ、それを明確に文章にする場合非常に難しい、むしろ、絵であったり叫びである方がふさわしい表現方法となりうる。自分の感性を取り戻せ、声の大きいものには耳栓をしろ、他人の意見を聞く場合は質問を忘れるな、自分語りは、ちっとも面白くない。これが、私だ。でも、人の話は面白いのだ。ただ、自分がするとなると咳んが伴う。私の意見についてくるような人間は信用できない。それで失敗しても、私はなんの責任も感じない。それでいいだろうか。いいのか悪いのか、という下らない判定方法でどれだけの人間が物事を雑に処理しているのだろうか。そこに深みはない、賢さもない、バカでもなければ、狂った計算機を持ち出して、打算して、狂った答えを出して不平不満ばかりが出るばかりだ。計算機なんかに頼るからだ。いろいろなものに頼っていいのだから。さて、僕はなぜかく。人々を導くためか、私の信条を吐露して聞いて欲しいからか、自分の考えをうまく表現するための練習の場所としてか、よく分からない、ただ、自分の考えというものがあるときに、そして、それは必ず誰もが持っていて、それをどう処理するかの問題であるのだ。個人主義を歌われた時代は、表に出すことだった。今は、気があうもの同士を探すことにある。同じような趣味を持ち、服を着て、仲間になる。なんてくだらないんだとも思えない。違うことを、よしとしない。そして、考えをすすめていけば、皆同じなのだ。そして、皆違うということに関して皆同じなのだ。だから、一方が一方の悪口を言うときにそれは、甘えであるのだ。逆もしかし。自分に甘いというのさえ自覚していない。結構な話だ。好きにするがいいというが、彼らは拘束されている不自由な人なのだ。なぜなら、自分のイライラに拘束されている、自分の不安に支配されている。それらすべて、自分の中にあるものだ。たとえ、金がなくて困っているとしても、それは、金を稼いでもろくな額にならず、働いても働いても我が暮らし楽にならずじっと手を見る。じっと手を見る幸せを捨て、我が暮らしの楽ばかり追求すれば、手を抜くことになる、手は白い。それは楽をした成果だ。それを見て、頑張ろうというの気持ち、自分の手を見て愛おしく思い、それを汚したくないと思う気持ち、すべて自分に感情が向いている。誰かのために泣くこともない、自分が得すれば喜び、そんすればなく。自分が得をするためには誰かを損させなければならない、だから、このような喜びは他人の不幸を源泉にもつ。いささか宗教的だと、私が言えば安心するだろう。宗教は、おかしいすべて間違っている。近寄るべからず。確かにそうだ。法律も知らないのに、警官が違法な取り締まりをしていて逮捕拘留されたとしても、女が、ちかんをされたとわめいて自分はそんな記憶もないのに、警官に、今白状すればいいじゃないかと諭され、女の示談金目当てででっち上げられ、警官はそれに乗っかって男を痛めつけられたとしても、それでもいいというのなら、私はそれでもいいと思っている。いいとか、わるいとかいう価値判断は嫌いだ。心底嫌いだ。口にするべからず。以上が、私が書いたことだ。決して、書きたかったことではない。

小さなこと

 例えば、好きな人に告白するときに、あいてが自分のことを好いてるのかを確かめるのか、そうではなくて、好意を増やす方向にもっていくのかという、大まかに分けて二つの選択肢がある。後者の方がよほど創造的であろうと思われるのであるが、やはり前者は傷つきたくない心と、自分が相手を妄想しているのでだいぶ齟齬が出てくるのだからそれを失いたくないという希望でしかないわけだ。誰しもが、自分が持っているイメージを打ち破られたくないと思い、不当な扱いであってもしれが慣れ親しんだ世界であるのならば、全くと言っていいほど、改善することもない主観的な世界が出来上がり格差と呼ばれ、生活と、人格がこれほどまでにある一定の人々の間で違うのは、環境のせいにされるが、まさにその環境の違いが、別々の人格を生み出し創りだし編集するのであるが、加えて、共通しているのは、環境の違いによって人間が変わるという見方である。要するに、世界は常に、ある環境同士の相互の戦いによって作り出されている。どちらが正しいわけでもなく、どちらが正義を持っているわけでもない。環境の規模や勢力によって、自分の存在も相対的に変幻自在するのだ。ある一定の職業に就くために一日中勉強していれば筋肉は落ち、まさに、不健康な天才になるであろう。それは、自由であろうか。何かの目的を掲げて邁進するという人間がいるだけで、そこに何も素晴らしい美徳やら道徳があるはずではない。反対に、何一つうまくいかない人間は、本当にゴミクズでしかないくらい存在の意味がない代わりに、いくらでも嘘をついて信じられる人間だけが彼の存在を認めてくれることになる。本当はどうなのかという問いを人んげんが持つのをやめて、車を買い伊勢丹にものを買い付けにき、それがステータスであるようなのが、それが空気であり、貧困問題なんて何も興味がない、私たちがこうして金があるのも偶然だと考えている、そういう考えの人間に頭を下げて金をもらうほどの見上げたゲスな根性をあいにく私は持っていない。そのような人間に、ちっとも興味がないばかりか、持っている金をいかに出させて、気持ちよくかいものさせるのかが、大事なのではないだろうか。金持ちが悪いのではなく、金持ちを憎み特別視する同じような性根を持つのがいけないのだ。金があるのなら、出せばいいと内心思っている人間が私の中に住み着くようになってしばらく経つが、私は今まで、金について何も思ったことがない。特に、いらないもの不当な値段で買っている人たちがごまんといるのを知っている。彼らは詐欺師に引っかかった被害者のようであるが、本人たちはいたって満足そうに大事に、ものを持っている。しかし、ものは単なるステータスを表すだけだろうか。その人の、性格を表すようなものに服装がある。もちろん、正装ほど信じられないものはない。いくら嘘をついても洗濯すれば、洗い流せると考えるような商人の中でも、適当な部類の人間の服だ。まさに、今の日本人は、これから寒い冬の時期を迎えるのを悲しんでいる。オリンピックがなければ、今テレビは、何一つ放送できるような楽しい話題はない。深刻な経済評論家が、数字だけを見てグラフが上がっただの下がっただの、占い師のようなことを言って民衆を煽り、民衆は不安を心に持ちながらも解決するだけの力がないと思い込み、酒に手を出し肝臓を悪くする。さらに、社会福祉費が増えるので、政府の財務状況はさらに悪化する。健康であっても、不健康であっても、金持ちでもそうでなくても、やすみがあってもなくてもどうでもいい、そのように思うのが大事なのではないだろうか。不可能であると思われるかもしれないが。休んでいる人間を出し抜いている気持ちがあれば、喜びではないか。もちろん、やりたくない仕事もあるだろう。十分に休めばいい。その代わりに次にまた嫌な仕事がやってくるのだ。気が病まないわけがない。今ちゃんと働いていれば、年金がもらえるかもしれない。それは宗教である。数字なんかみちゃいない。周囲の雰囲気で、自分たちが毎年収めている年金が帰ってくるのかこないのかを不安にしている。馬鹿らしい。宗教よりも体系化されていない占いのようなものだ。布施だと考えればそれで終わり。税金だから、公務員よしっかり働けなんてケチな考えをもつのがいけない。ひとりひとりが国を背負う覚悟がありゃ、公務員云々、官僚云々に一任するようなことはない。政治家にものを言わせるのもそうだ。ひとりひとりが情けないから、今の日本は、政治家が嘘を隠す見え透いた工作を野放しにしている。法律に反した公務員を辞めさせることさえできない。なぜなら、彼にだって家族がある。一公務員に我が身を重ねる。決して相容れないはずなのに。どうやれば、うまく生きられるのか。そればかり考える。楽しいなんてのはいけないこと。楽しいという気持ちを持ってはいけないのだ。なぜなら、辛い現実が後から強烈にやってくるから。楽しければ楽しいほどに、禁断症状が重く体に負担をかける。精神論ではないんだという、では、君は脳のつくりを知っているのか、脳の構造を知っているのか、金をたんまりもらって暇を弄び、周囲は嫌な顔して働いているのを素通りするのか。何か手伝ってやりたい。俺たちの下らない欲望が、彼らに退屈な仕事をさせているのだと気づかないのか。そう考えないのか。無理な話だ。そういう時期がない人間がたんまりいる。仕事を気が止むほどして、休日が来れば精神的な安住を持ち出す。体の疲れが神様だ。サプリが売れるわ、売れるわ。皆が飲めば、自分も飲む。俯瞰的に見れば、リスク分散でアウトだ。サプリに毒が見つかれば皆、死んでしまう。賠償金何て一人一円だろう。バカみたいだ。売り捌けばいい、サプリメント会社の思惑に気がつかない。専門的な知識を植え付けて、さらに、それを利用して作りました、はい、目がよくなる薬、そんな広告を、広告にはもはや見えず、素晴らしい世界、素晴らしいネタ、今の健康とダブらせて売りさばく。買っているんじゃないよ、売りつけられているんだよ。そう気づかないのか?なら、お前はどうだ。酒は飲むは、レッドブルは飲むは、おまけに薬も飲むわだ。さて、どうだ。お前こそ社会に欺かれている。社会を恐れていて自分はそれに勝ろうと無駄な努力をしているように思えないか。社会を飛び越えたり、社会よりも後ろを走ってみたり、集団マラソンだとすれば、体力が持たないぜ。

 そろそろ終わりにしたい、ついでに、この場所はなんだろうと考えてみたい。自分の考えを書いている。実践するかしない改善の原始的な考えだ。これが大事であると自分で自分の顔を褒めるような、だれかを説得するにはあまりにも笑いに走ったような書き方をいつもではないがしている。まともに考えれば、うるさいとっとと動け働けそれで君は知るだろう社会を、ということだ。つまりは、無駄である。しかし、無駄であるからこそ自由な想像力は生まれるのであろう。もちろん、社会の監視の目を、つまり、他人を意識する目を持っている限りにおいて決して自由な想像はできないのだ、加えて、その他人の行為を真似しないことに創造的な作業は一切できないのだ。だから、世の中なんて、馬鹿らしいと思っちゃいけない。素晴らしいとも思わない。いずれも、酒に酔っ払っている間にだけ通じる一つの信念だ。それが、長続きしないのが非常に惜しい、そして、自らが何者かに縛られているのを感じる。なぜなら、酒がないのに紅葉しているのが自由であろうから。近頃は、気持ちもコントロールできで、酒で酔うことも、酒に酔うこともどちらも出来る。とにかく、飲みすぎて起きて体のだるさを夜中に感じるのは嫌だ。あれは好きではない。

般若心経について

苫米地さんが般若心経は間違ってる、観自在菩薩はすべてを見渡せる悟りに近い人だぞ、それが、舎利子とかいう仏陀の弟子に仏教を説くのはおかしい、と。まず、仏陀ひとりが仏教を説いたのかって話で。そうじゃない。仏教ってのは、仏陀が説いたことも仏教だけど、なによりも仏陀は自分より偉い人がごまんといるのを悟った。前に何かなきゃ悟れないでしょ。曖昧だけど。仏陀の前に、あったんだよ。例えば、わかったという時、それはすでに考えられたことについて言っているわけでしょ。りんごは木から落ちる。だから、重力が考えられたわけじゃなくて、重力の存在に気がついたんだ。まあ、重力ってのも今よくわからないことになっているからね。仏陀の悟りを言葉にするのは難しい。陳腐だ。いけない。新興宗教的な怪しさがある。別に、好きなように考えればいいように思う。観自在菩薩がいっぱいいたわけだ。仏陀の周りに。その一人だよ仏陀も。そう考えると、別に、弟子に神が何を言おうとそれは、ありがてーものじゃないのかね。あと、色即是空に空即是色、これは間違ってるとはいうかもしれない。科学的には必ずそうだ。白黒つけなくちゃ。空とは何か。俺はわからない、いまだに空が何かわからない。空がわかれば悟ったようなもんだ。否、仏教はさらに人に空を説いて相手を先に成仏させることさえすすめている。そこまでしなくちゃダメだ。自分だけ悟ってもダメだというわけ。大乗仏教はね。まあ、ここまで書くと仏教ってのも人間臭い覇権争いの中繰り広げられる思想戦みたいな趣は、なんとなくあるね。実際に、なぜ仏教なのか。別にキリストでもいいじゃないか、という話になる。必ず。正直どっちでもいい。好きな方を選べばいい。それも仏教的な態度だから。いいも悪いも特にないのが仏教だ。白黒つけるために、どれだけ色を塗った食ったのか、人間が正確にものをみるとき、正確であるというのは、頭の狂った人間の大多数が正確といったものが正確なのか、それとも、あらゆるすべての時代の人間が納得する形が普遍的であるのならば、過去の人たちさえも説得できるようではなくちゃ、それは普遍的であるとは言えないんじゃないだろうか。過去の人たちは、なるほど、科学を知らない。ものの性質を観察して組み合わせ、現象を起こすのを知らない。確かに、そうかもしれない。科学が面白くないのは、科学ができるやつが嫌いだからであろう。冷たい感じがして近寄りがたい。話も、それが、本当か嘘かの裁判だ。科学をする人間は、どこか狡猾な印象がある。人間の意志をバカにしている風なところがある。所詮人間だ、という鬱屈も垣間見られる。要するに元気がない。そして、アプリを作る。それが流行る。そんなの科学でもない。他人の研究を足がかりに自分が仮説を作る。その仮説を思いついたのが、科学的な普遍的なものからならば、科学はなぜ生まれたのか。ちなみに、生きていれば皆、科学者であり、皆、コメンテーターであり、皆が修行者なわけだ。なぜ、私は科学者ですとかいわなくちゃならないのか。私は科学者ですから少々基地外じみたことを言うかもしれませんけれどもね、それは私が科学者であるから皆様の「科学者は気が狂っているようだ」というご期待に添いましてそれを演じているだけでありますので、皆様どうか私は本音をしゃべっているとは思わないでいただきたい。そこまで、相手に理解していただくために科学者と名乗るのだ。だいたい、すべて自分が何者であるのか、それを語るのが嫌いだ。自分は、何々だ。結構。それで君は自由を得る。先生なら、先生風な。医者なら、医者風な。もっとも世界のすべての現象を一人で調べることはできない。だから、大勢で集まってそれぞれ役割を果たし生きていこう。医者の言うことは、体について正しい。科学者の言うことは、科学について正しい。じゃ、医者の言う人生は正しいのか、科学者の語る人生は正しいのか、それは社会的な役割であろうか。肉体労働者のかたる人生は間違っているのか。陳腐で情けない負け犬の人生であろうか。社会というのは相互の契約で成り立っているのかもしれない。目の前で人が倒れている、それを助ける契約はないから助けなくてもいいだろう。誰が浮浪者を助けようと今思う?医者は医者として契約しているわけで、それ以外の人生についてなんら語る資格はないのなら、肉体労働者の人生さえ語る資格はない。つまりは、人生について話しているとき、その話をきいてやるってのが大事なわけで、内容なんてどうでもいいのだ。相手の人生について涙を流す。それは君が優しいからだ。契約の外で優しさを持ち生きるのは難しい。難しいことをしている君は素晴らしい。さて、君とは私のことだ。すべての人間は自己を理解するためにうなされている。いろんな勉強に狂ったり、おしゃべりになったり、すべては、苦に苛まれている人たちの症状である。病である。ああ、自分の人生はなんてつまらないんだと、こう考えるのも自由だ、面白いと考えるのも自由だ。その自由の選択は、私にある。自由を決定するのは、周囲の環境ではなく、周囲の環境さえ吹き飛ばすような自己犠牲である。自分はパイロットになる、そのために訓練するが、未熟な操縦ゆえ死ぬかもしれない、自分を死にかける。それが、生きるということだ。生きるために、保険をかけたりするのは、生きているということではない。未来の苦悩について悩み、来るべき病について悩む、神経質さに、今度は自分が悩まされる。そして、虚像を作り始める。保険に入ってるから、万が一の時でも大丈夫!ガンで胃を摘出されて何が大丈夫だって話だ。食事もろくにできない。元気も出ない。でも、癌摘出はできた。保険が下りたからね。よかったよかった。とは、ならんだろう。保険がそんなに大事か?保険よりも酒を飲まないことだろう。なに、俺は保険に入ってる肝臓が死んでも保険が下りて医者が治すさ。人の世話になるのが嫌だから保険に入る、結構なことだ、それで、酒びたりの生活に肝臓は悲鳴をあげ壊れた。さて、保険がおりる。手術をすることになった。医者に迷惑じゃないか。看護婦にも迷惑じゃないか。何、それが仕事だろう。迷惑をかけられるのが仕事なんだ、というのだろうか。あほらしいったらありゃしないね。仕事がない、大変だ、結婚もできない、さてどうする。落ち込む。馬鹿らしい。自由じゃねえか。平日は人も少ない。旅にでも出りゃいい。人は少ない、旅費も安い。旅好きにまともな職業はいねーな。まともな職業なんてのも、大勢の妄想の中で構築されている虚像だからね。バカらしいよ。いたってバカらしい。人生は大事に見るのはバカらしいが、甘く見ていると足もをすくわれるってさ。いいご身分だね、俺は何と言っても樋口一葉が好きだね。彼女が大好きだ。一体どうして自分の能力を過信できるんだろう。意味がわからない。自分に自信がある。それは周囲をバカにする態度から来るのは必然だ。元気がある。それだけが唯一信じられるね。でも、うるさかったらごめんだね。こっちの元気を殺す。元気のある人間は元気のない人間を見つけてそいつから、元気を吸い取っているんだからね。元気な人のそばにいるといいよ、元気をもらえるから。バカ言っちゃいけない。あんたの懐にあった金を取られてあんたの目の前で揺れてる札束を見て、それが自分の金だって気づくようなもんだ。そして、その金を相手にやる。第一、人からもらった元気は長続きしない。その場所に行かなくちゃならない。だからだ。個人主義なんて、いろんな人がバカにしてもう誰も言わないけど、皆が研究者なのだ。そして、そこで優劣を作るのがおかしい。つまりもう人類の発展が人類の幸福と全く違うってのに嫌気がさしている。いろいろ嫌気がさしているから、仏教に行くね。仏教は、認知に関わるよ。目の前の事象さえ、でっかい天体望遠鏡を使わなくても魅惑的な未知の世界なんだから。第一、膨大な研究費を必要とする科学なんてのは、日常について興味がない何か常識を持たない人間が、その人間界隈のくだらん常識から離れて一人他人の金で研究して偉そうに喋っては金になるというシステムにも嫌気がさすね。まあ、感じのいいひとになることだね。それ以外に、価値あるものってないよ。それが一番じゃないか。感じのいい人になる。なんの金もいらない、つまらない貸借りもない、システムもない。自分も気持ちよくなる。相手も気持ちよくなる。それだけだ。

自己嫌悪

 私は人に迷惑をかけていいと、平然と思えない。迷惑など、皆かけている。生まれてから迷惑ばかりじゃないか。それを、平然と、親孝行していますと言わんばかりの、迷惑。これこそ、智慧なしの障害者。自分の地位を守るために相手の自由を上手に奪う。それが人間界のやることだ。素晴らしい。相手の自由が自分の存在を脅かすのだと初めから弱気だ。自信のなさが高学歴を生む。セックスしてりゃ、アホみたいな時間と金を、家庭教師のトライにつぎ込むことはない。苦学生の楽なバイト先としては最高だろう。バカな学生に教わった子供は、こんなバカが大学生なら専門学校へ行こうと進路を変えるだろう。さっさと働いて金を稼ぎ、自分だけしかできないスキルとやらを身につけ、相手を蹴落とし、縄張りを敷いて、自分に服従するしもべ(仲間)と金の荒稼ぎ。ベンツを買って横浜を走り夜景を見て男は悦に浸り、女は男の財布を妄想して夢も膨らむ。素晴らしい世の中だ!ベンツなんてレンタルできる、横浜なんて10分で回れる!効率的!女なんて風俗にたくさんいるじゃないか!働くのが嫌で、楽して金儲けできないとわかっているのに、女の飛び込むプライドを磨くための場所が!男は2万で女にプライドを与える。しかし、女のプライドは2分と持たない。次の男がやってくる。ああ、世の中腐ってる。金のために臓器だって売るのが中国なら、倫理を売るのが日本。ああ、どっちもどっち、価値のあると世の中がみるもの、それを売りつける。臓器まで移植して生きたい何てご立派。人を見下して優しさのかけらもなく、それを金に変えて売捌き優しくもちっともない偽物が世にはびこる。それが怖くて、携帯をチェックする。こいつは本当に、いいやつなのか?バカらしい。人間の精神なんてちっとも価値がなかった!言葉は死んだのか?価値もそろそろ死ぬのか?残るのは、快楽だけ。そして、わかる存在そのものが苦であること。快を求める苦なる存在であることを。さて、世の中はそれでも動く。動かしすぎて、制度疲労。救済措置に新たな制度。訳もわからなぬ、法律がまかり通る。世の人々は意思疎通が不可能になった。制度を通しての面談のみ、理解できる。ゲームで遊んでいる間に、自信を見つめなくなった代わりに、目の前のイケメンの腐った口の臭い何て気にもせず股を開いてシアを聞く。翌日は吐いて、太陽が眩しく目がくらむ。そんな清々しい朝を迎えて、世の中を達観するも、同じ苦しみを繰り返す。友人と言われる、寂しい個体を呼び出して、自分の経験を自慢する。カウンセリング料は友人への電車賃。しゃべることが、慰みになる。これで回復するから、友人は手放せない。何度でも、男と眠って朝下痢をしてどけちで暇な友人を呼び出し無料のカウンセリング。回り続ける。

人間はゴミにたかるハエ

 GUCCIのバッグも100年経てばゴミ。ゴミが世の中に繁茂してる。食べ物だって、到底食えないようなものを平気で食わせる。肝心なのは、満足感さ。味なんてどうだっていい。吉野家で食ったクソまずい牛丼よりも、伊豆栄で食ったクソまずい牛丼の方が格好がいい。牛丼くらい自分で作りやがれ。金がないから商売を始める、銀行を気持ちよく騙せるように、数字が用いられる。これだけの人が見込め、これだけの利益が見込めると。全てを数字に還元して、確実に儲けられるだろうと銀行を騙す。銀行もうまく騙されたのならば、避難を受けもしない。労働者の平均就業時間もそうだ。法案を通すための嘘っぱち。バレたらすみませんと謝る。それが、日本だ。それを許すのが日本だ。いや、民主主義かもしれない。悪かった、調べてみたら嘘だった、でも、法案は一生懸命作ったんだ。だから、通してくれ。これでも便器に顔突っ込ませてトイレの水飲ませてやてえくらい。うっせーな、法案とおしゃいいんだよ、と来る。見えないヤクザのはびこる時代。まだヤクザがいた頃はしきたりがあった。今は一億総ヤクザ時代だよ。打算と義理人情のために生きるんだ。数字なんて嘘っぱち。見知らぬ人間へのコミュニケーション能力のなさが仲間意識を作り出す。腐った世の中だ。自分一人が得しようとする。見え透いた魂胆。舌を出して笑えば、金持ち太鼓判親父の汚い手がお前のおっぱいを、まさぐりにくるだろうよ。濁ってしまえば、きたねえ奴らがはびこるわな。倫理は崩壊し、嘘がまかり通り、料理屋ではうんこを食わされ、高島屋ではゴミを買わされる。さて、金を稼ぐかと訳のわからない書類を処理する。自分の立ち位置もわからない。意義を見出そうともしない。とにかく、楽に終わらせてしまおう。素晴らしい世の中になった、クソだって金になるゴミだって金になる。コジキだよ。我先にとゴミに群がるハエ。うるさい世の中はハエの羽音か。納得。

クソな世の中

 クソみたいな世の中になっちまったな。なんだいあの、国会の答弁は。謝ってりゃすむんなら、楽だわな。それが通ると思ってるのが、甘えなんだ。ったく、浅草のアホな外国人を釣ってる人力車みたいなもんだ。気持ち悪い笑顔で3千円でいいよと言ってきやがある。外国語ができりゃ儲かるのにと言ってやがる。こんちくしょう。隅田川に沈んで魚に食われてろ。東京オリンピックが終わった後に、ちっとも経済的なケチな目標を立てられなくなったニッポンですからね、どうにかオリンピックまでに新たなケチくさい目標を作って金儲けのパチンコを始めようじゃないか、近頃は野球さえ金金金、くじで勝敗が決まるんだ。野球選手はパチンコ台に出てくるくさい映像か?スマホの野球課金ゲームみたいだな。なんでも金金である。もう金なんてちっともありがたくないんだ。Bitcoinですったもんだ。コインチェックの泥棒は正義だね。金儲けしか能がない日本人が金で動く世界を作ればだ、人心は荒廃するわな。じじいが女の色気に近づくために、クソな服着て紳士気取り。勃たないちんこの代わりに、財布が膨らむ。きたねえ世の中になっちまったな。スマホ取り出せば、インスタの自慢大会。行きもしない南の島の写真見て、満足もしない。惰性だ。目の前の景色を殺してる。いわば、殺戮の世界に生きる。現実は、インスタを通して現実になる。現実って言葉の響きが悪いね。今生きているのが辛いからだろう。ロボットが仕事をする。結構結構。仕事がなくなれば、病人もふえよう。くだらぬ思索が繁茂して、話も通じない。ツイッターでは、勘違いしたエセ知識人が、本を書く気力も迫力もないので短文のクソをちんたらトイレに駆け込むように下痢してる。フォロワーが増えれば、つくり笑いのロボット志願者、さっさと言えと言わんばかりの汚い発音したアナウンサーの読む原稿の文字数も増える。楽なことだね。定型文句。これを使っちゃ興ざめだ。くさい世の中の溝が頭を濡らす。それでも笑ってる、吉本の芸人。頑固だね、頭が硬いね。生きづらい。それを、まっとうな人々への汚い品性のない罵りに変えて、生産性がない。生産品はいずれゴミになる。必ず。生産してゴミを出す。何が必要で何が不要か。現代人はゴミに埋もれて生きている。ゴミは人間の排泄物だ。人間は本音を禁止されている代わりに、ゴミを生産しそれを捨て去ることに健康を見出す。くさい感動物語の興ざめも、少しも頭の働かないバカがバカな放送作家がバカのためにバカなりの頭と少々の金をニンジンにして書き上げた家畜くさいドラマのおかげで、巷にはバカが増え仕事の能率が非常に良くなり不平不満まで言えるようになった。確実に社会は進化している!

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