アウトプット

相手の視点に立ってみよう

 僕が今記事を書けない理由の一つに、僕自身の生活が記事に反映されるからだという考える。私の私生活を社会の人たちに見られる形で表現されるのなら、私はいくら考えて自分を脚色するか、完全に事故を偽るのを諦めるのかの二者択一に思考をまとめ上げ、結局は体力が尽きたら自分を偽るのをやめるだろう。つまり、人は決して自分の本心を自分の一人称代名詞では表現しない。あの人ちょっと嫌な感じという時、私はあの人が嫌いですとは決して言わないようにするのが、ベターであるように思われている。加えて、このようなくだらないちまちましたことを考えている人間もそうそういないのも確かなようだ。小さなものに神が宿る。近頃は礼儀も何もなくて、とにかく流行りのものに流されていれば礼儀なんか要らずにフランクに人付き合いができると考えている。確かに、フランクというのが雑で無作法な礼儀知らずなやつの人間接近方法であったり、いつも色んな人間とつるんでいて、いったい誰が誰なのかはっきりわからないくらいの人間の数と付き合うほどに、いちいち挨拶するのも面倒になって、礼儀もなにもなく、フランクに握手を求めてくる奴もいるかもしれない。モルモン教の自転車乗り二人組を思い出せばいい。あの笑顔と、フランクに近寄ってくる人間の浅はかさはだいたい同じようなものだ。一方は、宗教勧誘だが、もう一方は人間勧誘だ。俺の友達になってくれ、そして、友達なんだから大変な時は助け合ってくれ、もちろん俺も助ける。こういった風に近寄ってくるのだから、たまったもんじゃない。だから、友達がいない方がいいというわけではない。友達の数だけ人間の行動は制限されてしまい、同じように行動する仲間を求め、同じような話ばかりする人たちに囲まれる。そこには、幼児的な笑いがあるだろうが、安らぎはない。とにかく、一人になれば退屈な時間も、退屈な友達に会えば、自らの退屈を自ら表現しないで済むので安心するのだ。恋人の写真をスマホにするのは、恋人を忘れていられる時間があるからだ。その時間を設ける限り、恋人に頭の中を拘束されないで済む。「私はいったい何の話をしているのか」なかなかこの疑問に答えるのは簡単ではない。なにせ、幾千もの言い方がありうるからだ。いったいどれが最も効果的なのかと考える時に、説得する相手を想定しなくてはならない。子供に私の話は通じないし、また、大人であったも通じない。性格が違うのだし、読み方が違うのだ。世界観が違うのだ。考えてみれば、文章を如何様に読むのか、それが世界ではなかろうか。法律の文章ではなるだけ、意味を多く含めず限定した表現で誰が見ても同一の意味で解釈できるように書かれなければなるまい。しかし、文学は、意味解釈など超えて感性をくすぐられるのが気持ちがいいのだ。それは、多様な意味解釈も取れるであろうお。心理小説はちっとも最近流行らなくなってしまったが、人間の行動の心理面を明確に文章にする作家が減ったというべきであろう。それともに、人間の心理的あり方が無限であるからある程度、しみのように、ここに心理的何かがあるかのように含ませて意味解釈を読者に委ねているのかもしれない。夏目漱石の、こころはちっとも意味がわからない。いくようにも解釈できるであろう。それを漱石は狙っているのかもしれない。いちいち、作家の考えるように読者が考えるとは想定していないはずだ。そうでなくて、どうして分泌作業が務まるものか。法律分を書くのじゃあるまいし、いったい、自分がこうだと書いたところで主張の行き違いが生じる、問題が生じる、男は女が別の男のところへ行ったのを悲観し、死んでしまった、と書いた場合、確かに、女が結婚の約束をしたのにそれを無視して別の男のところへ行けば、男は悲しんで死ぬ気にもなろうが、所詮それだけの男である。しかし、実は、女が嫁いだ先の男は、前の男を殺そうと企んでいたので、女はそれを阻止せんがために自ら結婚という武器を使って男の考えを諭し、また、前の婚約者を守るためにした行動かもしれないのだ。女は謎が多い。男はまるで機械だ。気ままいなれたら女だ。どこ吹く風、秋の空、女心。僕はちっとも悦になんか浸っていない。この表現が俗な表現だとも思わない。澄み切った秋の青空のために、男は死ねるだろう。夏の暑さに野垂死に、冬の寒さに凍りつき、春の暖かさに身も心もほだされ、夏のアスファルトに照り尽くされ焼かれる。そして、やってきた秋の澄み切った空をみて死ぬのだ。美しい。見かけた記事に、女は自己を暴漢から守るための策として夜中に一人で歩くものではない、といった社会の下らない上司の発した本心でもない、メディアや芸能界という世界の言葉が流れ込んできて、いつの間にか頭の中にその言葉のパワーワードが記憶され、人々に嫌な思いをさせるように、私は、決して、メディアや芸能界の言葉を聞きたくない。彼らは、仲間内の愚痴、世間の流行を作り出し大衆を扇動し、握手を求められる小さな皇帝だ。嘘をつきまくり集めたお金で一万円の寄付をすれば、素晴らしいやつだと、他人の話を一切聞かずに、あるいは、他人の意見に流されっぱなしのツイッターないりインスタグラムないしフェイスブックの利用者が、流されて、開き直って、そういうお前の人生は下らない、終わっている、友達なんて少ない、写真もおかしい、思想は幼稚だと、やっぱり人のはなしを聞かないことに関しては一貫している。誰にも聞かれないような嘆きを、嘆きを、意見を人に言うだけの勇気のない陰鬱な人間が、ツイッターに巣食っている。さて、ここはどうだ。私は、意見のために書いているんじゃない。勘違いしないでくれ。俺は、俺のために書いている。目的は何か。さっき書いた。目的は、ないようである。ただ、それを明確に文章にする場合非常に難しい、むしろ、絵であったり叫びである方がふさわしい表現方法となりうる。自分の感性を取り戻せ、声の大きいものには耳栓をしろ、他人の意見を聞く場合は質問を忘れるな、自分語りは、ちっとも面白くない。これが、私だ。でも、人の話は面白いのだ。ただ、自分がするとなると咳んが伴う。私の意見についてくるような人間は信用できない。それで失敗しても、私はなんの責任も感じない。それでいいだろうか。いいのか悪いのか、という下らない判定方法でどれだけの人間が物事を雑に処理しているのだろうか。そこに深みはない、賢さもない、バカでもなければ、狂った計算機を持ち出して、打算して、狂った答えを出して不平不満ばかりが出るばかりだ。計算機なんかに頼るからだ。いろいろなものに頼っていいのだから。さて、僕はなぜかく。人々を導くためか、私の信条を吐露して聞いて欲しいからか、自分の考えをうまく表現するための練習の場所としてか、よく分からない、ただ、自分の考えというものがあるときに、そして、それは必ず誰もが持っていて、それをどう処理するかの問題であるのだ。個人主義を歌われた時代は、表に出すことだった。今は、気があうもの同士を探すことにある。同じような趣味を持ち、服を着て、仲間になる。なんてくだらないんだとも思えない。違うことを、よしとしない。そして、考えをすすめていけば、皆同じなのだ。そして、皆違うということに関して皆同じなのだ。だから、一方が一方の悪口を言うときにそれは、甘えであるのだ。逆もしかし。自分に甘いというのさえ自覚していない。結構な話だ。好きにするがいいというが、彼らは拘束されている不自由な人なのだ。なぜなら、自分のイライラに拘束されている、自分の不安に支配されている。それらすべて、自分の中にあるものだ。たとえ、金がなくて困っているとしても、それは、金を稼いでもろくな額にならず、働いても働いても我が暮らし楽にならずじっと手を見る。じっと手を見る幸せを捨て、我が暮らしの楽ばかり追求すれば、手を抜くことになる、手は白い。それは楽をした成果だ。それを見て、頑張ろうというの気持ち、自分の手を見て愛おしく思い、それを汚したくないと思う気持ち、すべて自分に感情が向いている。誰かのために泣くこともない、自分が得すれば喜び、そんすればなく。自分が得をするためには誰かを損させなければならない、だから、このような喜びは他人の不幸を源泉にもつ。いささか宗教的だと、私が言えば安心するだろう。宗教は、おかしいすべて間違っている。近寄るべからず。確かにそうだ。法律も知らないのに、警官が違法な取り締まりをしていて逮捕拘留されたとしても、女が、ちかんをされたとわめいて自分はそんな記憶もないのに、警官に、今白状すればいいじゃないかと諭され、女の示談金目当てででっち上げられ、警官はそれに乗っかって男を痛めつけられたとしても、それでもいいというのなら、私はそれでもいいと思っている。いいとか、わるいとかいう価値判断は嫌いだ。心底嫌いだ。口にするべからず。以上が、私が書いたことだ。決して、書きたかったことではない。