アウトプット

相手の視点に立ってみよう

つかれたね

 つかれたね。どうしようもない。血の巡りが悪いのかな。お風呂に浸かるといいのかもしれない。でも、それだけじゃない。習慣にしなくちゃいけない・・・。でも、できない。やる気さえ湧かない。自分を洗うってことをしない。まず、顔を洗おう。油を流そう。もうなにをしていいのかわからない。自分の気持ちがよく分からない。何をしても何にも身につかない。だから、人が嫌いだ。自分よりも優れていない人が、私の上にいるのが気にくわない。それって、本当に嫌な奴だ。でも、それでもいいと思っている。そういう人生なんだと、思い込むように努力している。そうすれば、まだ我慢ができる。怒りが湧いてこないようにできる。これは、悟りの境地だろうか。だとすれば、たいしてありがたみもない。世の人はよく怒るけれども、私は何されても怒らないというわけでもないけど、どうでもいいじゃんっと思えるようになってしまったのは、やっぱりやばいんじゃないのかと思うのだが、ニュースも、人の悩みも、どうでもよくて、家のことなんか考えたくもない、案外そうして避けているところに自分がいるんだよね。奥にしまうほど、体に近くのなら、無意識こそ意識に先行して行動しているのかもしれない。いずれにしろ、これが無意識だと考えれば、それは意識的に考えているのだろうという疑いは免れないので、意識したことをしないように何も考えないように動いたり、文章を書いたりするのかいいように思われる。案外、自分が書こうと思う気負いが、テーマのない文章を永遠と書く徒労に終わることが少なくない。むしろ、今までがそうであった。特に、去年の夏あたりから私はもういろいろと元気が無くなってしまっていた。具体的にどうかというと、今まで腹の底から力が湧いてきたが、わかなくなってしまった。障害物を乗り越えようとすると闘志が湧いてきたが、今じゃどうでもいい、障害などないではないか、川を流れる水が大きな石を避けて通り過ぎればまたいままでのように流れていくように、障害物に書かずりあうのは時間の無駄であると考えるようになったのかもしれない。私自身が確信をもって私はこう思うだとか、私の考えはこうだというのを主張できないでいる。今までは、できていた。しかし、それも、ひとつの病的な症状であったように思われる。でも、それで解決できるわけではないのも感じる。それは、本当に確かなことだったのだから。意図した言葉はちっともその人を言い表していないのだから、人間は困った存在だ。もう、人間についてちっとも考察したくない。どうでもいい存在だからだ。案外本人は、こうしてほしいと思っているだろうが、すぐに飽きるだろう。本が読みたいと言われて、本を買ってきた、それを渡してもちっとも読み進めないのと同じだ。それを自分がわからないというのだろう。自分が、わかるという感覚はどこか危険な雰囲気を持っている。確かにそこには確信があるだろう。確信を持てる人生は幸福である。しかし、視野を狭めなければ確信はもてない。苦しくなったら苦しまなくちゃならない。それを努力と言ってみたりもするのだ。粋の構造にあるように、恬淡洒脱にいきようではないか。なにも、今日一日の価値を自分の価値に置き換えるのはやめよう。充実感であるとか、そういった感覚はたしかに魅惑的であるが過剰さをもたらし、いくらやっても充実できなくなるだろう。それは、退屈に感じるようになるのと似ているのかもしれない。過剰さは、ビジネスになる。金儲けが目的になる。そのうち、ビジネスが崩れる。わたしはビジネスマンではないので、ビジネスになんやかんやを例えるのは的が外れているかもしれない、そして、ビジネスというドライでありながら人間関係にしつこく執着する粘着性と、ちっともドライでもなければ、朝令暮改は毎日のこと、創造的である印象を与えながら、他人の持ち場を荒らしまくりいらないものを必要だと言って売りさばく。嘘をついてまでものを売ろうとする感性に慣れきった人たちはちっとも信用する気にならない。ビジネスに関われば、それが人生、生きていくためにお金は必要であるという感覚を強く持っている貧乏人の奴隷根性がドライなはずがない。だから、近寄りたくないのだろうか、私の無意識はいま少しだけここに開かれた。違和感を持つ言葉に、インプレッションを与えてみればいいのだ。定義のようなものだ。定義は種のようなものだ。いったいどんな花を咲かせるのか。