君にも分かる話をしよう。徹底的な自己矛盾を乗りこえて矛盾を口にする私の一方的な講義。

 君が思うような人間じゃないと私は君に向かって言いたいときがある。しかし、君が思う人間であるように私をつくる喜びとその隙間に生きの出来るスペースがあるのが私には快かったりもするのだ。もっと優しい言葉で貴方に語りかけよう。あなたは言葉を信じないで者を信じる。人を信じないで制度を信じる。評判を信じる。評判こそ人の目についているから嘘偽りがない真実の姿であるし其れを裏切る事がないと君は信じている。しかし、批判的言論におかれた人間が如何に自己を偽るかに憑いて貴方はおそらくは知っている筈だ。その人について知りたいのならば、君はその人について知らないふりをしなくちゃならない。知らない振りをすれば相手は気楽になるだろうから自己を偽る事なく肩のにを降ろし始めるだろう。そして、貴方と気楽にすごすようつとめるだろう。それこそが風流であると私は思う。粋がるとは、形式だけを重んじる態度で粋とはちがうものだ。まして、粋な人間なんて野暮の骨頂だと言う認識をなぜ人々は抱かないのか。粋とはその人に宿る神である。その人は立ち去らなくちゃならないのだ。およそ付き合う人間がずっと粋である事などない。付き合いながらもその契約の更新をする人間は粋であるが、付き合いにかまかけてなにかをおろさかにはじめたらそれは怠惰である。粋とは付き合うきっかけになるし付き合うきっかけは長く付き合う為のきっかけを相手の中に作り出す物なのだ。だから、私は手紙を書かなくちゃならないし、相手にプレゼントを続けまた私は徹底的に自己を捨て去り外化して自己の正当性を他者にゆだねる署名にサインをしなくちゃならない。自己を評価する事の滑稽さと自己を評価する事の絶望を、私は他者のいない世界において体験したのだ。評価するとは自己が他者になる事だ。他者に身をゆだねるとは、評価をしない事だ。つまりは、自己評価とは自己から切り離された自己を現前させる欺瞞の形式である。何故欺瞞かと言えば、自己が他者になる事はないからだ。自己はあくまでも自己であり、他者にはなりえないからだ。なぜならば、他者として振る舞っても自己に回収されるから。自己に回収されるとは、自己評価を自分への賛美で埋め尽くす事で相手に伝わるのは相手への不信任案であり、相手の思うように動かないという相手という他者をみすてることになる。適切な評価であるか否かは、相手の適切さと照合されその型が合えば自己を捨て去った人間として認められる。また、その秩序を他者とよぼうと相手と共謀をはじめる。神への冒涜である。

 ・・・。また意味の分からない事を言ってしまったね。君は意味の分かる事が大好きだからね。言葉の連関を楽しもうという気持ちではなく言葉を神聖視する為の根拠を君は求める。一度見つけても其れが色あせる事があるのが根拠というもだと、君は経験したくないから何か一つの根拠を信じてまたその根拠の根拠を追い求めて行き着く先に君の肉親がたたずんでいるんだろう。そして、彼はあなたを保護する事だろう。君は記憶の中で彼と戯れ君の寝顔はきっと素敵だろう。そんな君を観て僕はただ、静かにタバコをすうのだ。自らを分析する事もなくなる。私は生涯をかけて悩まない為にも常識を履行し果実を得る必要があるのかもしれない。自由人にふさわしいのはただ苦悩だけであるし、苦悩を回避しようとするあらゆる営みが自由人にはふさわしいのだ。苦悩の結論は死あるのみである。悩みとは人間が自らを追い殺すきっかけにしかならない。宗教は苦悩を倍増させる。世間は孤独を倍増させ苦悩を発生させる。自由はただ戦う事を強いられる。苦悩から逃れる動きこそ闘いなのだ。