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血流

 気が向いたときに書こうと思えばきっといつまでも書かないで忘れてしまい、思い出す日は先延ばしにされるかそれとも向こう側に行ってしまうかなので僕ははっきりここで示しておきたいのは、僕が求めているものはあまりにも求めないことで得られるという代物である頃からして僕が本当にそれを求めるときに断念をしなくちゃならないというところにある。単位もそれならばいいのにやる気のあるものがまた自分を積極的に殺した者または何も考えない人間が得る者だから僕には何ら関係ない。ああ、僕はダメな人間だ。死んでしまいたいと思わない日は1日だってないのだ。ストレスで口周りは荒れ放題であるし僕の目もおかしくなってきている。目つきがおかしいような気がするけれどもそれは気のせいであってほしいと願いはしてもおかしいかどうか判断するのは私のすることではないので私は黙ってまた生活に身を案じたいと思うのだ。土台いちいち学校へ通うこの世界が僕はめんどくさいのだ。生きるとはこんなにもエンジンをかけるのに時間がかかる者だとは僕は思わなかったときおそらく僕はアホだったのだろうと思われる。いくら書いても僕が得たい者は得られないから僕は妄想することにした。そっちのほうが楽しいからだといえば近くに秋葉原という町があり観念の集合体であるあの町に女の匂いがしないのだ。野獣の匂いがしないのだ。耳も掻きたいのだけれども耳かきがないので掻きようがない。君、やれるもんならば絵でも書いてみたらどうかね。芸術は嫌いかね、それとも苦手かね。君は、バイクがないと何もできないのかね。君自身の身近にあるものから作り出す能力に欠けると見える。典型的な貧乏とは君のことを言うのだろう。だるいだとか面倒だとか、そういう言葉は一切はかないほうがいいというの僕だけの持論であるはずがない。持論として片付けたい気持ちが見え隠れする。この国のある種の人間の持つしつこさ、執念深さに僕は気持ち悪さを感じる。それは僕も持っている者だからある種の自己嫌悪だ。愛着でもある。どちらもクールではないのだ。欧米においてはクールがもてはやされると聞いているので、私は欧米に与することにする。現代の日本は欧米化された場所であるのだから。そういった歴史家や文学科の意見を鵜呑みにするというのもまた欧米化された市民の態度としてふさわしかろう。ああ、学校なんて制度を作り上げたところで、それを楽しむようには僕の性格上出来ていないとしたら僕は何と気まずい時代に生まれたのだろう。かといって、私は私のことをそう固く信じちゃいない。いつだって僕は僕自身のことを忘れて文章を書くことに喜びを感じているのだから。あまり自分のことを書かないほうがいい。嘘だって本当のことだって何だって自分に身につけていれば重くてしょうがない。歩くこともできなければ筆も進まないのでいいことがないのだ。忘れるために書くのだ。僕自身を。君が文章を書いているときに想定する読者は誰かを考えてみればいい。日記の場合は私だ。私は私を統一するためという鳥も私を分割し分解させ薄い皮膜にして太陽の熱でもって蒸発させることを意図している。私が太陽を接するときには熱いものを持ってくることにする。ある種の人間が神経質であることで生きているとしたら。ピアノの先生の耳は治ったのだろうか。気がかりだ。あのとき僕は本気でピアノを習いたいと思ったのだ。しかし、先生は僕の意図を見抜きはしなかったらしい。代わりに椅子の座り方と指使いの心得を教えて貰った。おそらくはその態度はピアノを弾くときだけではなくあらゆる活動をするときに意味のある態度であるように思われる。この国は国土が狭いだけでなく人間の活動領域も思考も本当に狭いのだ。一人で冒険することをしないし、考えることもしない。考えるときは常に集団で考えるし、そのとき出た結論に嫌々従っている見事な社会主義国家なのである。私はこの国の性格を少しは垣間見ていると思う。この国は、本来の性格に戻ったと言っても過言ではない。欧米化する前にアメリカの経済状況が悪くなったので、アメリカの真似をすることもなくなったのだ。プリンシパルがないのである。誰もが誰かに依存しているこの国の構造を、もちろんそれは他の国でも行われていることに違いないのだけれども、依存関係を楽しんでいるというよりも隷属し従い態度や言葉使いに現れるあの独特に嫌な人間の汚い卑屈な面を見ていると、疲れる。コンビニさえ僕にはもう近寄りたくはないところなのだ。この都会に住んで、それでコンビニで働いている中高年を見るとき僕はもしかしたらここにいるんじゃないかと思ってしまう。僕の文章力とやらでは何もしでかすことができないからだ。そのときはせっせと東京から去ってどこか日本語の通じないところで暮らしても見たいものだ。場所をずらすだけではなく時間軸をずらすというやり方も有効であるように考えられる。だから古典文学があるのだ。いつの時代にも、中世でも近世でも古典文学が重宝されたのはおそらくは、よほどの人間嫌いがいつの時代にも確実の存在するのだし、病気を理解しない人間が人間を好きになろうと努力して失敗するように、おそらくは無理なことに手を出しているのだ。僕は無理はしないと言いたいけれども、そうはいかないだろう。僕は無理をする。いつまでも無理をするだろう。無理をして僕はダメになってしまうのか。ダメになるとは就職もできずに人も近寄らず低賃金労働にいそしむ時間を過ごすことだ。僕が小さい頃から持っていた貧民思想が僕を追いやる。僕はそれを知らないふりで入られることができなかった。相談する相手もいない。いくらそれがありえないことであってもそれを信じることには力があったしそれで僕の事故が保たれていたのだろうと考えると、いたいけない。遊びがなかった子供時代であったから可愛らしさもなかった。あったのはただの世の中だ。止めることもない諸行無常の世の中だ。僕はこの言葉が嫌いであった。今でも嫌いだ。僕はそろそろこの記事のまとめを書かなくちゃならない。まとめを書くなんて到底無理な話だけれども、この記事を誰かに読ませるためにせめて最後の数行は読んでくれと懇願するには幾らかのまとまった文章があればいいんだ。いや。文章さえ長いと感じられるだろう、ワンフレーズである。このワンフレーズの意味するところに僕の今が集約されている。また集約されていると無意識のうちに、信じられる。そういう文字はない者か。そうだ。タイトルだ。僕のまとめはタイトルにある。